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名前より先の旋律  作者: reika1021


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8/10

第8章:止まる雨のあと

朝は、送信履歴の白い画面ではなく、窓辺に残った雨のにおいから始まった。環の部屋には夜の湿気がまだ薄く残っており、カーテンのすそが動くたびに外の空気が床の上を静かに滑っていく。机の上の端末は伏せられたまま、何も告げない沈黙だけを小さく抱えていた。


雨は止んでいたが、街は依然として濡れたものの気配を帯びていた。窓の外の建物は洗われたように淡く、道路の端には水の名残が細く光っていた。環は、その光を見ながら昨夜送った追加デモの音を頭の中で何度も聴き返していた。


もう直せない、と思うたびに胸の奥が少しだけ冷えた。直せないものを外へ渡したあと、人はこんなにも自分の手を持て余すのだと知った。鍵盤に触れれば何かが変わる気がするのに、実際には何も変えられない。


環は机の前に座らなかった。立ったまま椅子の背に指をかけた。木の角は少し冷たく、その冷たさが昨夜の雨を思い出させた。送信完了の画面を見た後、何度も端末に手が伸びそうになったことも。


「見ない」


と声に出すと、少しだけ部屋の空気が引き締まった。見ないと決めることは、待つことをやめることではない。ただ、待つ時間に自分のすべてを委ねないための小さな抵抗だった。


景都は朝の試写室で先に映像を見ていた。まだ誰も来ていない室内は暗く、スクリーンだけが薄い灰色に浮かんでいた。雨の場面を無音で流すと、足音も風も消え、人物の背中だけが静かに遠ざかっていった。


昨夜、環の追加デモを聴いた後、景都はうまく眠れなかった。評価資料は送ったし、言葉も整えた。しかし、整えた言葉の外側で彼女の音がまだ鳴り響いている。雨を消さず、去る背中を引き止めず、ただ、残された場所に温度だけを置く音。


景都は再生を止めた。暗い画面に自分の輪郭がうっすらと映っている。仕事としてやるべきことはやった。しかし、今日の判断は昨日までよりも重い。環の音が候補として残るかどうかだけではない。彼女がもう一度演奏をやめようとするかどうかにまで触れてしまう気がした。


そんな責任を自分ひとりが背負えるわけではないとわかっているが、それでも彼女の音を毎朝初めて待っていた耳として、今日の自分は逃げてはいけないと思った。


環は広場へ向かわなかった。いつもの道へ出る角で一度だけ足が迷ったが、そのまま別の細い通りを選んだ。 濡れた植え込みから青い匂いが立ち上り、建物の隙間を抜ける風には洗われた金属のような冷たさが混じっていた。


ピアノへ行けば弾いてしまう気がした。弾けば昨夜送った曲とは異なるものが生まれてしまう気がした。今は新しい音を足すよりも、送った音がどこへ行くのかを待つしかない。


それが苦しい。


環は歩きながらバッグの中の端末を意識しないようにした。通知が鳴らないことが逆に音のように感じられ、何も起きていない時間が胸の内側で細く鳴り続けていた。


小さなカフェの前を通ると、焼けた生地とコーヒーの香りが漂ってきた。環は一度通り過ぎた後、数歩進んでから引き返した。待つだけの朝でも、温かいものを飲むくらいはいいだろう。そう自分に許可を出すのに、少し時間がかかった。


窓際ではない席に座り、カップを両手で包むと、熱が手のひらに移ってきた。景都がいつも窓辺でカップを持っていたことを思い出し、環は少しだけ目を伏せた。


同じしぐさをしている。そう気づくと、胸の奥に小さな恥ずかしさが生まれた。マネをしたつもりはない。けれど、知らないうちに誰かの習慣が自分の朝に入り込んでいることが、どうしようもなく親近感を感じさせた。


試写室には人が入り始めた。景都は後方の席で資料を整え、必要なページを開いておく。言葉にする順番を考える。まず映像との相性、次に雨音との共存、そして作品全体に広げられる可能性。


感情から話してはいけないが、感情を抜きすぎれば環の音が持っていた本質を失う。景都は、その間で何度も言葉を置き直した。


追加デモが流れ、画面には雨の降る中を歩く背中の姿が映し出された。雨音の後に足音が聞こえ、環の音は場面が息を飲むところで入ってきた。


誰もすぐに動かなかった。スクリーンの光が座席の横顔を淡く照らし、室内の空調だけが低く回っている。景都は周囲を見なかった。見れば期待してしまうから、画面だけを見た。


音は短かったが、終わった後に無音を残した。去っていく背中が画面から消えた後も、その場所だけがそこに残り続けるような感覚があった。


「もう一度、今の箇所を」


誰かが言った。


景都の指が資料の端で止まった。胸の奥に小さな熱が灯るが、表情には出さない。再生が巻き戻り、同じ雨の場面が再び始まった。


二度目の音は一度目より深く聞こえた。景都はその事実に驚きながらも、同時に納得していた。環の音は最初に聞いた瞬間よりも、終わった後から戻ってくる音なのだ。


環はカフェで端末を見なかった代わりに、紙ナプキンの端に思いついた短い音の形を指でなぞった。五線も音符もない。ただ、机の上で指の動きが小さく往復するだけだった。


隣の席で誰かのスプーンがカップに触れた。高く澄んだ音だった。環はその音に反応してしまい、自分でも少し笑いそうになった。どこにいても音を拾ってしまう。諦めようとしても待とうとしても、世界は勝手に素材を差し出してきた。


それは残酷で、少しだけ優しい。


カップの底が見え始めるころ、バッグの中で端末が震えた。環の体が固まる。通知は短い。たった一度の振動なのに胸の奥で大きな音を立てた。


すぐには見られなかった。手を伸ばして止める。カップの縁に残る熱を見つめる。もし悪い知らせなら、今この場所の匂いまで嫌いになってしまうかもしれない。


環は端末を取り出した。


正式決定ではなく、追加デモについて最終候補として継続確認に進むという連絡だった。採用ではないが、落選でもない。まだ続いている。まだ終わっていない。


ほっとした瞬間、体の力が抜けそうになったが、同時に怖さがさらに深くなった。終わらないということは、次にもっと大きく傷つく可能性が残るということでもあるからだ。


環は端末を伏せた。カフェの音が戻ってくる。カップの音、人の会話、外を通る車の湿った響き。さっきまで遠くにあった世界が急に近づいてきた。


「まだ、残ってる」


と小さく言うと、胸が熱くなった。喜ぶにはまだ早い。しかし、喜ばないふりをするには通知の文字があまりにも確かだった。


景都は打ち合わせの後、正式な追加確認の流れを見届けた。環に送られる文面は事務的で、必要な情報だけが簡潔に並んでいる。そこには景都の感情は入らない。それでいい。


しかし、彼はその文面が送られる瞬間をひどく長く感じた。届いたら彼女はどんな風に思うだろう。喜ぶだろうか、それとも怖がるだろうか。おそらくは両方だろう。


自分から言えるなら、怖がっていいと伝えたかった。残っていると伝えたかった。けれど、その言葉は今、彼の口から出すべきではない。


景都は窓のない通路へ出た。壁の白さが少し冷たく感じられた。試写室の暗さから出ると、現実の明るさに目が慣れるまで少し時間がかかった。彼は手に持った資料を閉じ、深く息を吐いた。


胸の中には安堵だけではないものがあった。環の曲は残ったが、それによって彼女はさらに不安な場所へ進んでいく。自分が推したことでその場所へ押し出したのだとも言える。


それが正しかったのか。


景都はすぐに答えを出せなかった。


環はカフェを出ると、広場ではなく少し離れた歩道橋に向かった。見下ろす道路には雨の名残が細く光り、車の流れが低い振動となって足元に伝わってくる。頬を撫でる湿った風とともに、雨のあとに残る街の匂いが肺の奥深くまで入り込んだ。


最終候補、継続確認。言葉は前向きなのに心は落ち着かない。期待が少しずつ現実の形を持ち始めると人はこんなにも臆病になるのだと知った。


環は欄干に手を置いた。金属はまだ冷たく、指先に雨の名残が移る。視線の先には高い建物があり、そのどこかで景都が仕事をしているかもしれない。


知らせたいと思った。通知が来ました、と。まだ残っています、と。怖いです、と。


けれど連絡先を知らない。知らないから言えない。その不便さが今はとてももどかしい。同時に、もし送れてしまったらきっと彼の言葉を待ってしまう、という救いでもあった。


今は自分の足で立っていなければいけない。


そう思いながらも、環は景都の声を思い出していた。


「朝比良景都としても待っています」


その言葉が欄干を握る手の冷たさの中で細い熱になった。


景都は午後に資料を更新しながら、次に環に必要な調整点を整理していた。正式採用ではない以上、追加の要望は出る。雨の場面の音は良いが、作品全体に広げるには主題の変化をもう少し確認したい。


その調整依頼は彼女に負担をかけ、さらに書かせ、さらに待たせる。景都は画面を見つめ、文面の一つ一つを慎重に整えた。


強制にならないように、期待を煽りすぎないように、けれど可能性があることはきちんと伝わるように。


仕事の文面には温度を入れすぎてはいけないが、冷たすぎる文面は人を傷つける。音楽を作る人は、表に出ない一文にさえ傷つくことがある。景都はそれを、環と出会う前から知っていたはずだった。


それなのに、今は前よりもずっと具体的にわかる。


環がその文面を読む姿を想像してしまうからだ。


環は歩道橋を降りた後、部屋に戻った。濡れた街を歩いたせいで、靴底に湿った音が少し残っている。部屋の中は朝よりも空気が乾いており、窓から差し込む光も白さを失い始めていた。


端末には追加の詳細が届いていた。主題の別展開、雨の場面とは異なる穏やかな日常場面への短い変奏、作品全体の音楽設計を確認するためのデモ。


環は画面を読みながら胸が少しだけ沈んだ。まだ続いているが、求められるものも増えている。嬉しさよりも先に、今度はちゃんと応えられるだろうかという不安が立ち上がった。


日常場面、穏やかな変奏。言葉だけなら難しくないが、雨の喪失感とは違い、穏やかさにごまかしはきかない。明るくしすぎれば浅くなり、静かにしすぎれば場面が沈む。


環はキーボードの前に座った。さっき歩道橋で見た濡れた道路の光がまだ目の奥に残っている。それをそのまま使うわけではない。雨がやんだ後の街に人が再び歩きだすような音を探す。


指を置く。最初の和音は少し暗かった。すぐに消す。


次の音は明るすぎた。これも違う。


環は何度も試した。穏やかさとは、ただ柔らかいだけではない。傷の上に置かれた手が、強くも弱くもなりすぎないところを探すようなものだと感じた。


景都の午後は会議と資料の合間に細かく区切られていたが、どの作業の合間にも環の音が戻ってくる。雨の場面だけでなく、まだ届いていない日常の変奏まで彼は想像し始めていた。


「彼女ならどう書くだろう」と考えるたびに、仕事の判断と個人的な期待が重なりそうになる。景都は、そのたびに姿勢を正した。「期待してはいけない」のではない。「期待」を判断の理由にしてはいけない。


それでも、期待していること自体は否定できなかった。


夕方が近づくころ、景都は短い休憩を取った。高層階の窓辺へ行く代わりに、建物の中にある静かな階段の踊り場へ向かった。 窓は小さく、外の景色は一部しか見えない。 そこからは、広場もピアノも見えるはずがなかった。


見えない場所に身を置きたかった。見れば探してしまう、環がいるかどうか、ピアノに触れているかどうか、そういう自分を少しだけ遠ざけたかった。


踊り場には空調の音と、遠くから人の声が薄く届いていた。景都は壁にもたれて目を閉じた。彼女に会いたいと思っている。けれど、会っても何を言えばいいか分からない。


最終候補に残っています。


まだ決まりではありません。


あなたの音は届いています。


どれも言えない。言えない言葉が増えるほど、胸の中で彼女の存在だけが近くなる。


環は夕方まで日常場面の変奏に向き合った。短い音の中に雨がやんだ後の歩幅を入れたかった。泣いた後に笑うのではなく、泣いたことを忘れないまま誰かと同じ道を歩き始めるような響き。


そう考えた瞬間、広場で景都と並んで座った夜を思い出した。何も弾かなかった時間。鍵盤の前で言葉を少しだけ交わし、あとは同じ沈黙を見つめていた時間。


あれは日常ではなかったけれど、これから日常になってしまうのが怖いと思うほど、胸に静かに残っている。


環はその記憶を音に変えることに戸惑った。景都を利用しているような気がした。けれど、自分の中に残ったものをすべて避けていたら、本当の音は見つからない。


指がゆっくり鍵盤に下りた。今回の音は、先ほどの音よりも少しだけ呼吸があった。明るすぎず暗すぎず、誰かの隣に座っているときの静けさに近い。


環はその音を消さなかった。


録音し、聴き返し、少し削る。低音を一つ減らし、上の音を短く残す。余韻が長すぎると感傷的になり、短すぎると手が離れたような感覚になる。


難しい。けれど、手を動かしている間は怖さが少し薄れる。


景都は夕方の打ち合わせで、追加変奏の意図を説明した。作品全体で主題がどう変わるかを見るため、そして、喪失の場面だけでなく穏やかな場面でも耐えられるかを確認するため、と。言葉は冷静に並んだ。


しかし、心の奥底では別のことを考えていた。環の音が悲しみだけでなく、穏やかさにも届くとすれば、それは作品の主題になり得る。彼女の未完成な揺れが映画全体の呼吸となるかもしれない。


「未完成な揺れ」。そう呼ぶたびに景都は少し申し訳ない気持ちになる。彼女の音を「弱さ」だと言っているわけではないが、その言葉が本人に届いたらどう聞こえるだろう。


景都は言葉を選び直した。


「未完成というより、開かれている音です」


自分で言って少しだけ腑に落ちた。環の音は閉じていない。結論を先に渡さない。観客の中に置かれて初めて続きが鳴る。


それは彼女自身にも似ていた。


環は夜に近づく前に短い変奏を保存した。今度のファイル名には迷わなかった。「雨のあと、歩き出す」と名付けた。少し説明的かもしれないが、今の音にはその正直さが合っている気がした。


送信する前に環は窓を開けた。雨はすでにやんでおり、街には濡れた匂いだけが残っていた。遠くの車の音は朝よりもやわらかく、建物の隙間を抜ける風は少し冷たくなっていた。


広場へ行きたいと思ったが、今日は行かないほうがよい気がした。会えば景都に結果を聞きたくなり、言えない立場の彼を困らせてしまう。


だから今夜は、音だけを送る。


端末に向かい、環は短いコメントを書いた。「雨のあとに残る静けさを、歩き出すための音に変えました」。少し考えてから、最後の部分を消した。「歩き出すための音」。それだけを残す。


送信する。画面が切り替わる。


部屋の中に静かな疲労感が漂う。環は椅子の背もたれに体を預け、目を閉じた。今度の音は景都に聞かれるのだろうか。彼はどう感じるのだろうか。


考えないようにしても、考えてしまう。


景都のもとに変奏デモが届いたのは、空が紺色に沈み始めたころだった。彼は通知を見たまま数秒間、席で動かなかった。早い。予想よりも早かった。しかし、急いで作ったような軽さは感じなかった。


再生する前に、景都は試写室へ移動した。自席ではなく、映像の中で聴きたかったからだ。廊下の照明は昼よりも少し冷たく、足元に長い影を作っていた。手に持った端末がいつもより重く感じられた。


試写室に入るとまだ誰もいなかったので、景都は映像を用意して環の変奏を合わせた。穏やかな日常の場面で、雨のあとに誰かが置いた傘を見つけ、人物が少しだけ笑う場面だった。


音が入る。


景都は最初の数秒で息を止めた。雨の場面とは違うが、同じ主題の奥にある温度がたしかに残っている。悲しみを消したのではなく、悲しみが通り過ぎた場所に小さな明かりを置いている。


画面の人物が笑う。その笑いは大きくない。環の音は笑顔を飾らず、その手前にあるためらいごとを受け止めた。


景都は目を伏せた。思った以上だった。彼女は喪失だけを書く人ではなく、失った後にも残る時間についても書くことができる。そこには自分が一番聴きたかった可能性があった。


彼はすぐに資料を開いた。言葉にしなければならない。「音が良かった」では足りない。どの場面で、なぜ、どのように機能するのか、仕事の言葉に変える必要がある。


しかしその前に、景都は誰にも聞こえない声で一度だけ言った。


「届きました」


環に届くはずのない言葉だったが、言わずにはいられなかった。


環は夜の部屋で広場へ行かずに時間を過ごしていた。端末を伏せてキーボードにも触れず、窓の外の光を見ていた。建物の窓はひとつずつ暗くなり、濡れた道路の端には街灯の光が細く伸びていた。


行かなかったことに少しの後悔があった。もし行っていたら、景都に会えたかもしれない。会えなくても、ピアノに触れることはできたかもしれない。


しかし、行かなかったからこそ守れたものもある。音だけで向き合う時間、景都の表情に頼らず自分の判断で送った変奏。今夜の環には、それが必要だった。


バッグの中に入れたままの端末が震えた。環はすぐに反応せず、少し間を置いてから、深く息を吸って端末を取り出した。


通知は景都からではなく、正式窓口からのものであった。「追加デモ受領。最終判断に進む。結果は改めて通知される」という、短く事務的で温度の少ない文章だった。


しかし、そこには確かに次の扉があった。


環は画面を見つめたまま、胸の奥が静かに沈んでいくのを感じた。嬉しいはずなのに、怖さのほうが大きい。もうすぐ最終判断が下される。選ばれるか、選ばれないか。


途中の時間が終わろうとしている。


それがこんなに怖いとは思わなかった。


景都は最終判断用の資料を整え終えた。環の二つの追加デモ、最初の提出曲、過去音源、場面ごとの適合性。できる限り冷静に言葉を並べたが、その資料の奥には彼女が雨の夜に音を渡した時間があった。


最終判断は翌日へ持ち越された。景都にできることはもう多くない。資料を提出し、意見を述べ、必要な根拠を示した。あとは作品全体としての判断に委ねられるだけだ。


彼は試写室を出た。廊下の空気は少し冷えていて、遠くの窓から夜の東京が細く見えた。広場へ降りようかと思ったが、足は止まった。


今夜会えば、まだ言ってはいけないことを何か言ってしまうかもしれない。結果が出る前に、彼女の心を余計に揺らすことを。


景都は降りなかった。


その代わりに窓の小さな四角から外を見た。広場も見えないし、ピアノも見えない。しかし、見えない場所に環がいるかもしれないと考えるだけで胸の奥が熱くなった。


環は端末を伏せた後、ようやくキーボードに向かった。結果を待つためではなく、自分のために弾きたかった。今日送った音とは違う、もっと短いもの。誰にも提出しない、夜の中でほどけるための音。


最初の音は小さく、部屋の空気に触れてすぐに消えた。環はその後、もうひとつ音を置いた。雨のあとに残った街の匂い、会えなかった景都の気配、そして最終判断を待つ胸の重さが、音の奥にひとつずつ沈んでいく。


弾きながら環は思った。もし選ばれなかったら自分はまた広場で弾けるだろうか、景都に会えるだろうか、彼の前で平気ではない自分をちゃんと見せられるだろうかと。


答えはわからない。


けれど、わからないままでも朝は来る。彼は聴くと言った。その朝も聴くと。環はその言葉を、今夜だけは少し信じたかった。


景都は高層階の自席に戻り、最後にもう一度だけ環の変奏を聴いた。仕事としての確認は終わっている。これはもう必要のない再生だった。しかし、彼は止められなかった。


音が流れる。雨のあと、歩き出すための音。環がコメントに残した短い言葉通り、旋律は歩幅を持っていた。急がず、戻らず、けれど立ち止まったままでもない。


彼はその音を聞きながら、彼女自身も今どこかで歩き出そうとしているのだと思った。結果が出る前に、選ばれる前に、傷つく可能性を抱えたまま。


景都は胸の奥で今度こそはっきりと願った。


選ばれてほしい。


その願いは仕事の判断を超えたところにあるからこそ、彼はそれを資料には書かず、ただ自分の中だけで静かに抱えた。


夜更け前、環はノートを開いた。昨日までの言葉の下に今日は何を書くべきか分からなかった。怖いまま鳴らす。見えない場所へ音を渡した。その次に来る言葉。


しばらく考えて、短く書いた。


選ばれる前の私は、まだ私のままでいたい。


そう書いてから、少しだけ目が熱くなった。選ばれたら変わるのか、それとも選ばれなくても変わるのか。どちらにしても、今夜の自分はもう戻れない場所にいる。


けれど、戻れないことが必ずしも不幸だとは限らないのかもしれない。


窓の外では街灯の光が水たまりに揺れ、雨は止んで東京はゆっくりと乾きつつあった。環はペンを置き、端末を遠ざけた。


結果はまだ来ないが、今日は通知を待つだけの日ではなかった。音を作り、音を渡し、怖さの中で自分の手を動かした。


それだけで、少しだけ眠れる気がした。


景都は帰る前、暗い試写室の前で立ち止まった。朝と同じ廊下なのに、夜は光の濃さが違う。 床の艶には遠い照明の光が細く伸びており、壁の奥では空調の音が低く響いていた。


扉の向こうには今日何度も聞いた音の残像がある。環の曲はすでに候補としてこの部屋の空気に触れ、誰かの耳を止め、誰かの沈黙を作った。


それはまだ採用ではないが、何も残らなかったわけではない。


景都はそのことを本人に伝えたかったが、伝えなかった。今はその距離が必要だった。


夜の外へ出ると、雨上がりの東京はひんやりとしていた。黒く光る舗装の道には、ビルの足元に水の匂いが残っていた。景都は広場には寄らず、駅に向かう道を歩いた。


歩きながら明日の朝のことを考えた。結果が出る前の朝、あるいは結果が出る日の朝、環は弾くだろうか。自分は窓辺に立つだろうか。たぶん立つだろう。降りるかもしれない。


待つことがもう習慣ではなくなっている。


景都はそう思った。


環の部屋では、キーボードの上に手が置かれたまま、最後の音が消えていた。眠る前に鳴らした短い旋律は、どこにも送らないし、誰にも聴かせない。それでも今日の自分を、少しだけ守ってくれた。


環は目を閉じて景都の顔を思い浮かべたが、すぐに顔よりも先に声が浮かんだ。「聴きます」「待っています」という言葉の数は多くないのに、その少なさがいつまでも胸に残った。


もし明日、結果が悪かったら。


その問いが浮かび、環は布団の中で手を握った。泣くかもしれない。逃げたくなるかもしれない。景都に会いたくなくなるかもしれない。


それでも、音を全部やめるとは今は思えなかった。


その変化だけを抱いて、環は深く息を吐いた。


夜の東京は雨のあとに残った匂いを少しずつ薄めていく。高層階では景都が送った資料が静かに眠り、環の部屋では伏せた端末が何も告げずに暗がりに沈んでいる。


音はもう戻せない場所へ渡っていた。選ばれるかどうかはまだ誰にもわからないが、見えない耳に触れた旋律は確かにどこかで呼吸を始めていた。


朝が来れば、何かが変わる。


変わってしまうことを恐れながら、環も景都もそれぞれの夜の中でまだ鳴っていない知らせを待っていた。


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