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名前より先の旋律  作者: reika1021


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7/10

第7章:選ばれる前夜

朝は、広場ではなく暗い試写室の手前にある細い廊下から始まった。壁に沿って落ちる低い照明は、まだ目覚めきらない街の余熱を吸い込み、床の黒い艶に景都の靴音が短く響く。扉の向こうにはまだ結論の出ていない音が置かれていた。


景都は資料を抱えたまましばらく扉の前に立っていた。八雲原 環の名前は候補のひとつとして正式な一覧に入っている。たったそれだけのことなのに、紙の上の文字は昨日までよりも重く感じられ、胸の内側に薄い圧がかかってくるようだった。


選ぶという仕事は、誰かを前へ出すことでもあり、誰かをそこに残すことでもあると、景都は知っている。だからこそ、今朝の空気は乾いていて、手に持った資料の角が指に当たるたびに、自分の判断が誰かの明日へ触れてしまう怖さを思い出す。


試写室の扉を開けると、冷えた空気が頬に触れた。まだ映像が流れていないスクリーンは白く沈黙し、座席の布には夜の間につまった静けさが残っている。景都は後方の席に資料を置き、暗い室内で目を一度だけ閉じた。


同じ朝を、環は別の場所で迎えていた。部屋の窓を開けると、湿気を含んだ風が薄いカーテンを押し、机の上のノートの端を少しだけ浮かせた。端末は伏せてある。通知を見ないと決めた手が、何度もその近くを通り過ぎる。


結果はまだ来ていない。わかっているのに、来ないことを確かめたくなる。環はその衝動を逃がすようにキーボードの前に座った。鍵盤の白さは朝の弱い光を受け、まだ鳴らされていない言葉のように静かだった。


今日は広場へ急ぐ必要はなかった。弾くことよりも、待つことの形を変えたかったのだ。外へ音を出す前に、まず部屋の中で自分の胸に残ったざらつきを確かめる必要がある気がした。


環は短い旋律を鳴らした。名前より先の旋律とは違う、もっと小さく誰にも聞かせないつもりの音だった。結果を待つ朝に自分だけが聴くための頼りない呼吸のような音。


指は途中で止まったが、止まった後も部屋にはかすかな余韻が残った。環はその余韻を聴きながら昨日景都が言った言葉を思い出した。


「その朝も、聴きます」


軽めの約束のはずだった。破ったら少しだけ怒るくらいの。けれど、そういう小さな約束ほど胸に残る。重すぎないからこそ、日常の隙間に入り込んでしまう。


試写室では映像が流れていた。まだ仮編集の段階であり、色も音も完全ではない。台詞の間の沈黙が長く、窓辺に立つ人物の背中、帰り道の濡れた舗装、そして言い出せなかった言葉の気配が画面に映し出されていた。


景都は、環の曲を流す順番を待っていた。他の候補曲が場面と重なり、それぞれに異なる色を与えている。明るい曲は映像を前に押し、端正な曲は画面を整え、強い旋律は感情の輪郭を際立たせていた。


どれも悪くない。悪くないからこそ、選ぶことは難しい。景都はメモを取りながら自分が環の音だけを待っていることに気づき、ペン先を一度止めた。


待ってはいけない。聴かなければならない。


その違いを胸の中で確かめたが、待つことと聴くことは今の景都の中で完全に分けられるものではなかった。だからこそ彼は余計に慎重に背筋を正した。


環の曲が流れた瞬間、試写室の空気は大きくは変わらなかった。劇的な始まりではない。音は、画面の後ろから誰かの呼吸に遅れて、そっと入ってきた。それは、観客の心を奪うというよりも、映像の中で黙っていたものに場所を与えるような響きだった。


景都は手元の資料を見なかった。見れば文字に頼ってしまう。今は音が映像に触れる瞬間を逃したくなかったのだ。スクリーンの人物が何も言わずに横顔を伏せた時、環の旋律は感情を説明せず、その沈黙の縁だけを淡く照らした。


試写室のどこかで紙をめくる音がやみ、誰かが咳払いを飲み込む気配がした。景都は、その小さな変化を耳で捉えた。環の曲は少なくともこの部屋の空気を一度だけ静めたのだ。


曲が終わってもすぐには次の音に移らず、映像はそのまま進み、無音に近い間が残った。景都は、その沈黙を聴いていた。彼女の曲は鳴っているときよりも終わったあとに、強く残る。


それは景都の言葉ではなく、試写室そのものの反応としてそこにあった。


環は朝の部屋で、短い仕事の修正に取りかかっていた。提出した曲のことを考えないように、別の映像に合わせる明るい音の調整をする。画面の中では商品が光を受け、清潔でわかりやすい印象を与えるように求められていた。


こういう音も必要だ。誰かの暮らしを少し便利に見せる音、短い時間で伝わる音。環はそれを嫌いではないが、淡々と作業を進めるほど自分が昨日送った曲の静けさへ戻りたくなった。


窓から入る風に、近くの道を走る車の湿った音が混じっていた。タイヤが舗装をなでる響きは雨が降る前の街に似ていたので、環は一度だけ作業を止めて外を見た。


空はまだ雨は降っていなかったが、街全体が水の気配を含んでいた。結果を待つ胸の中にも、降る前の雨に似た重さがあった。


景都は試写後の打ち合わせに入っていた。資料が机に広がり、候補曲ごとの印象が短い言葉に変えられていく。音は鳴り終えた瞬間から評価と理由と比較の対象となる。それは必要なことだが、時として音の体温を奪う。


景都は環の曲について最初に口を開かなかった。他の候補への意見を聞き、映像との相性を確認し、議論の流れを静かに見守っていた。早く推せば私情に見えるし、遅すぎれば音の力を弱く見せてしまう。


頃合いを探すその時間が彼にはひどく長く感じられた。


「八雲原さんの曲はかなり控えめですね」


誰かの声が机の上に落ちた。景都は視線を上げた。責めている口調ではないが、控えめという言葉には作品として弱いのではないかという気配が少し含まれていた。


景都は資料の端を指で押さえた。


「控えめですが、弱いわけではありません」


部屋の空気が少し止まる。


「場面の感情を誘導しすぎず、観客が自分で沈黙に入る余地を残しています。今回の作品にはその余地が必要だと思います」


景都は、熱を入れすぎず、かといって冷たくなりすぎないように言葉を慎重に選んだ。自分の声の奥には、今朝の試写室で感じた静けさを少しだけ残した。


環は昼前に広場へ出た。朝の演奏のためではなく、ただ歩くためだった。部屋にいると端末が気になり、音に触れれば結果のことを考えてしまう。だから、街の中に身を置きたかったのだ。


麻布台ヒルズ中央広場には昼へ向かう人の流れができていた。ピアノの前を通り過ぎる人は多いが足を止める人は少ない。植栽の青い匂いと近くの店から漂う温かい飲み物の香りが混ざり合っていた。


環はピアノに近づかなかった。今日は弾かないと決めたわけではない。弾かない時間をちゃんと自分に許したかったのだ。音を外へ渡した後の胸には空き地のような場所が必要だった。


高層ビルを見上げる。窓は多く、景都がどこにいるのかはわからない。けれど、彼は今きっと仕事の中にいる。自分の曲を誰かの前で言葉にしているかもしれない、と想像した瞬間、胸の奥が締め付けられた。


嬉しいよりも先に、怖さを感じた。自分の音が知らない場所で響き、自分のいない部屋で必要かどうかを決められている。それは当然のことなのに、体のどこかが置いていかれるようだった。


環は広場の端にある植栽のそばで立ち止まった。葉の表面に湿った光が乗り、風が入るたびに細かく揺れる。その揺れを見ていると試写室の空気まで想像してしまう。


見えない場所へ音を渡すこと。作曲家になるというのは、きっとそれを何度も繰り返すことなのだろう。自分の手を離れたものが知らない耳に触れ、知らない言葉に変えられていく。そのたびに傷つき、そのたびに少しだけ強くなるのかもしれない。


景都は打ち合わせの中で、環の曲をもう一度再生することを提案した。特定の場面だけでいい、と。それは、台詞のない短い箇所、主人公が誰にも見せない涙を飲み込む場面だった。


映像が再び流れ、室内の明かりが落とされてスクリーンだけが淡く浮かんだ。環の曲はさっきと同じ音なのに、二度目のほうが深く入ってきた。人は一度目で輪郭を聴き、二度目で余白を聴くのかもしれない。


景都は横の気配を見なかった。画面だけを見ていた。曲が終わった後、誰かが短く息を吐く音がした。


「たしかに、残りますね」


その言葉に景都の胸が静かに熱くなった。大きな賛同でも決定でもなかったが、音がひとつの耳を通った証しだった。


彼はうなずいただけにした。喜びを表に出してはいけない。ここではあくまで作品のための判断として進めなければならない。


しかし、胸の中では環の名前が一度だけ強く響いた。


環は昼過ぎに広場近くのベンチに腰を下ろした。そこは、人の流れから少し外れた場所だった。空は依然として厚く、風には水の匂いが増していた。遠くの車道から、湿ったタイヤの音が低く響いた。


バッグの中で端末が沈黙している。見ない、と決めたが、決めるたびに端末の存在が大きくなるのを感じた。環はバッグを膝から下ろし、足元へ置いた。


見ないことで待つ時間が軽くなるわけではないが、待つ姿勢を自分で選んでいると思いたかった。結果に振り回されるのではなく、結果が来るまで自分の呼吸を保つ。今の環には、それだけでも難しかった。


小さな子どもがピアノの方に近づき、鍵盤を一音だけ鳴らしてすぐに離れた。その音は明るく短く、何の責任も持たないまま空に跳ねた。環は、その音に少し笑みを浮かべた。


音は本来、そんな風に鳴っていいものだったのかもしれない。評価される前に、選ばれる前に、誰かの人生を背負う前に、ただ鳴ってしまったから鳴るという無邪気さで。


環はその明るさが少しうらやましかった。


景都の打ち合わせは長引いた。環の曲は候補に残ったものの、まだ確定ではない。別の作曲家の曲には実績があり、映画としての安定感もある。予算や納期の話題になると、音楽そのものとは別の現実がテーブルに重なった。


景都は、その現実を軽視しなかった。実績があることは大切だ。納期を守れることも、制作の現場では才能の一部だ。環は、まだ大きな映画の経験がない。それは事実だった。


しかし、今回の作品に必要な音を考慮するなら、実績だけで判断するのは適切ではない。景都は慎重にその言葉を形にした。


「経験の少なさはリスクです」


自分で言いながら胸が痛んだ。


「ただ、この作品には、完成された強さよりも未確定な揺れを持つ音のほうが合っていると思います。八雲原さんの曲にはその揺れがあります」


未確定な揺れ。言葉にすると危うく聞こえるが、景都にはそれが彼女の弱点ではなく今の作品に必要な質感だと思えた。


「最終判断の前に、追加で短い場面用のデモを依頼するのはいかがでしょうか?」


その提案が部屋に投げかけられた。景都は自分の指先が冷えていることに気づいた。これは環にとって負担になるし、新たな試みの場にもなる。期待を持たせてまた落とす可能性もある。


それでも、採用に近づくためには必要な手順だった。


環は午後に部屋へ戻った。途中で小雨が降り始めたが、傘を差すほどではなかった。髪に細かな湿り気が付き、服の肩に淡い水滴の痕跡を残した。部屋に入ると、外の匂いがそのままついてきた。


まだ端末を見ていなかった。濡れた手を拭き、窓のそばに立つと、ガラスに小さな水滴が付いて外の景色を少しだけ歪ませていた。東京は雨に濡れると、輪郭よりも匂いのほうが先に立つ街になる。


環はキーボードの前に座った。待っているだけでは苦しい。それなら、何かを作るしかない。採用されるためではなく、結果を待つ自分を保つために。


短い和音を鳴らす。雨の粒が窓に触れる音と重なる。広場のためでも応募曲のためでもなく、ただ午後の湿気を逃がすための音だった。


そのとき、端末が震えた。


環の指が止まる。音は途中で切れ、部屋の空気が急に薄くなった。通知は一度だけだった。短い振動。それだけで心臓が音を立てた。


見るべきか。見ないでいられるわけがない。環は端末を手に取り、画面を開いた。


正式な結果ではなく、映画の特定場面に合わせた短い曲の追加デモ依頼だった。採用決定ではないが、まだチャンスが残っている知らせだった。


環は画面を見つめたまましばらく動けなかった。喜んでいいのか、怖がるべきなのか体が判断を迷っていた。次の扉が開いたが、その先にはまた選ばれるかどうかの場所があった。


息を吸うと胸が少し痛かった。


「まだ、終わっていない」


と声に出した瞬間、目の奥が熱くなった。終わっていないことがこんなにも怖く、こんなにも嬉しいとは。環は端末を握ったまま、机に額を近づけた。


景都は追加のデモ依頼が送られたことを確認した。自分から直接連絡する形ではなく、正式な窓口を通して送られていた。これでよかった。距離を守るためにも、仕事の手順としても。


それでも、彼女がその通知を見た瞬間を想像してしまう。驚くだろうか、怖がるだろうか、それとも少しだけ喜ぶだろうか。そのどれもが浮かんでしまい、景都の胸の奥は落ち着かなくなった。


直接言えないことが増えていく。けれど、直接言わないことで守れるものもある。景都は、その線の上に立っていた。


窓の外では雨が細く降り始め、広場の舗装は少しずつ色を深め、ピアノの周りに灯りが淡くにじんでいた。彼女は今どこで通知を見ているのだろう。


景都はスマートフォンを開きかけてすぐに伏せた。連絡先は知らないし、知らないままでよかったと思う。もし知っていたら、きっと今、余計な言葉を送ってしまう。


「おめでとう」と言うにはまだ早いし、「頑張って」と言うには無責任すぎる。「待っています」と言えば、重くなるかもしれない。


景都は何も送れないまま、雨の広場を見下ろした。


環は追加依頼の資料を読み込んだ。場面は、主人公が誰にも告げずに大切な場所を去る短いシーンだった。セリフは少なく、足音と雨の気配だけが残る。音楽は控えめだが、感情の奥行きを支えるものが求められている。


今の自分に近すぎる、と環は思った。去ること、言えないこと、残る音。環は資料を読みながら景都の顔を思い出さないようにした。


だが、無理だった。


彼はこの依頼を知っているのだろうか。きっと知っている。もしかしたら推薦してくれたのかもしれない。そう考えると嬉しいけれど、それが仕事として正しい判断なのか、自分への個人的な気持ちなのか確かめたくなってしまう。


確かめてはいけない気がした。今は曲を書くしかない。景都の気持ちではなく、映像の沈黙を聴かなければならない。


環は資料を閉じ、映像データを再生した。雨の中、人物が歩いている。濡れた舗装に足音が沈み、背中だけが画面の奥へ消えていく。去るという行為はこんなにも静かで、こんなにも取り返しがつかないものなのか。


環は鍵盤に手を置いた。


最初の音は鳴らなかった。指が迷う。自分が鳴らしたい音ではなく、映像が待っている音を探しているのだ。作曲家であるということは、自分を表現することだけではない。自分を消しすぎず、映像に寄り添うことだ。


景都ならどう聴くだろう。


その問いが浮かび、環は一度手を止めた。だめだと思った。景都の耳を想像しすぎると、曲が彼に向かってしまう。映画へ向かわなければならない。


けれど、彼の聴き方はもう環の中にある。完全に消すことはできない。それなら、その存在ごと音の奥へ沈めるしかなかった。


夕方が近づくころ、景都はもう一度試写室へ戻った。誰もいない室内は暗く、空調の音だけが低く響いている。彼は前方の席に座り、追加デモを依頼した場面を無音で再生した。


雨のシーン、去る背中、言えなかった言葉。景都は画面を見ながら、環がどんな音を置くのか想像してしまう。想像してはいけないと思うほど、まだ存在しない旋律が耳の奥に生まれかける。


彼女は感情を説明しないだろう。たぶん雨の音を消さないし、足音の重さも残すだろう。けれど何も置かないわけではなく、沈黙の底にほんの少しだけ熱を残すはずだ。


景都はそこで目を閉じた。


自分はもう、彼女の音を待つ聴き方になっている。


それは仕事として危険なのかもしれない。しかし、音楽を選ぶ仕事において、誰かの音を待ってしまうことが本当に間違いなのだろうか。景都にはまだ答えが出なかった。


環は夜の入口まで何度も短いデモを作っては消した。雨を強くすると映像が沈みすぎるし、旋律を明るくすると場面を裏切るし、無音に近づけすぎると自分がいる意味がなくなる。


机の上には水の入ったグラスがあり、外の光を受けて透明な影を作っていた。 部屋の空気は湿っていて、キーボードの表面にもわずかに指が吸い付くような感覚があった。 環はその感触を頼りに、低い音をひとつ置いた。


違う。


もう一度。


少しだけ高くする。


違う。


雨粒が窓を細く撫でる。その音に合わせるのではなく、その音の後ろに入る。環は何度も映像を見て、人物の歩幅を覚え、肩の動きと息の詰まり方を観察した。


やがてひとつの音が見つかった。去る人を引き止めない音、しかし去った後、場所の温度を残す音。


環がそれを鳴らした瞬間、胸の奥で景都の声が響いた。


聴き終わった後、少し黙りたくなった。


この曲もそうなればいい、と環は思った。景都だけではなく、映像を見る誰かにとっても。


景都は夜に近い会議室で次の資料を整えていた。追加デモの提出期限、確認手順、最終候補の比較表。画面には文字が並び、音楽はまだ届いていなかったが、彼の中にはすでに待つ姿勢ができていた。


待つということは、ただ何もしないことではない。相手の音が届く場所を空けておくことだ、と景都は思った。席を空けること、余白を残すこと、そして、受け取る準備をすること。


それは、環が音の中でしていることと似ているのかもしれない。


景都はペンを置き、手のひらを開いた。朝に空だった手、コーヒーカップを持っていない手、拍手をためらった手、ピアノに触れなかった手。


自分はこれまで何も作れないと思ってきたが、聴くことにも形があるのなら、そこへ責任を持ちたいと、環の音を通してその思いは少しずつ強くなっていた。


環はデモの短い形を保存した。まだ完成ではないが、核は見えた。ファイル名を入れる欄で少し迷い、「雨のあとに残る場所」と仮に書いた。


送るにはまだ早い。もう少し整えたいが、整えすぎると消えてしまうものもある。環はその怖さを知っていた。未完成の揺れを残すべきか、仕事としての完成度を優先すべきか。


景都なら、揺れを聴いてくれるかもしれない。


そう思った後、環は首を振った。彼に頼ってはいけない。選ぶ立場にいる人に、自分の不安を預けてはいけない。


それでも、彼を心の支えにしていることは否定できなかった。


夜が降りるころ、環は少しだけ外へ出た。雨は細く、傘を差すか迷う程度だった。建物の明かりは濡れた舗装に伸び、足元の影を淡く崩していた。街は昼よりも音が近く感じられ、車の走る水音が胸の奥まで響いた。


中央広場へ向かうつもりはなかったが、気づけばそこへ続く道を選んでいた。ピアノを弾くためではなく、今日、音がどこに向かっているのか確かめたかったのだ。


広場には雨のにおいがした。ピアノは濡れない場所に静かに置かれ、周囲の灯りを黒い面に含んでいる。人は少なく、足音は水気を帯びてやわらかく響いた。


環はピアノの前に立たず、少し離れた場所から見るだけにしていた。今夜の音は部屋に残してある。ここで鳴らすにはまだ早い。


高層階の窓を見上げる。無数の明かりの中に景都がいるかもしれない。今日、彼は自分の曲をどんな言葉にしたのだろう。追加の依頼に彼の意志はどれくらい反映されているのだろう。


知りたい。けれど、知ってしまったら書けなくなるような気もした。


環は雨の匂いを吸い込んだ。


「ちゃんと、曲で返す」


その言葉は雨に混じってすぐに消えたが、景都に言ったのか、それとも自分に言ったのかは分からなかった。しかし、それが今夜の答えだった。


同じころ、景都もまた高層階の窓辺に立っていた。雨の広場が下に見え、ピアノの近くには誰もいないと思っていたが、少し離れた場所に環の姿があった。


彼は一瞬息を止めた。こんな夜に来ると思っていなかったが、来ないとも思えなかった。彼女はピアノに触れず、ただ広場を見つめていた。


景都は窓に近づき、ガラスに映る自分の顔を見た。下の環には届かない距離だ。声も手も拍手も届かないが、彼女が今何かを決めていることだけはわかった。


降りるべきだろうか。いや、今は違う。追加デモを待つ身として、彼女の夜に不用意に踏み込むべきではない。景都はそのままその場に留まった。


留まることが今日の距離だった。


環はしばらくして広場を離れた。景都は、その背中が雨の灯りに溶けるまで見ていた。追いかけたいと思ったが、追いかけなかった。追いかけないことがこんなにも強い感情を伴うとは、知らなかった。


仕事と恋の手前にあるものは似ているのかもしれない。どちらも踏み込むべきところと、踏み込んではいけないところの境目で人を立ち止まらせる。


景都は窓から離れ、試写室で見た雨の場面を思い出した。環が今夜、あの場面にどんな音を置くのか、待つしかない。その待つ時間をも、自分が引き受けなければならない。


環は部屋に戻ると、濡れた上着を椅子にかけた。髪の先に残った水滴をタオルで押さえ、すぐにキーボードの前に座った。体は冷えているのに、指先だけが熱を持っていた。


雨のあとに残る場所。


仮の曲名が画面に表示されている。環は再生し、少しだけ音を削った。余計な旋律を消し、低い音を短くして雨の間を残す。足りないくらいで止める勇気が必要だった。


もう一度映像に合わせると、去っていく背中、水音、言えないまま残る場所の描写が続いた。音はその後ろへ細く入り、消える直前にほんの少しだけ温度を置いた。


環は画面を見つめた。これでいいのかはわからない。けれど、今の自分が嘘をつかずに置ける音はこれだった。


送信ボタンの前で、指が止まる。


まだ早い、もう少し直せる、そう思う。しかし、直し続ければ守りに入り、怖さを隠す音になってしまう。


環は景都の声を思い出した。


「怖がっている音のほうが、信じられることがあります。


あの言葉に甘えてはいけない。けれど、少しだけ背中を押されることは許してもいい気がした。


環はデモを送信した。


画面が切り替わり、提出完了の文字が現れた。部屋の中で、雨の音だけが急に大きく聞こえた。


景都の端末に通知が届いたのは夜が深くなりかけたころで、内容は「追加デモ提出。八雲原環」だった。彼はすぐに再生しなかった。


深く息を吸い、仕事として聴く準備をする。しかし、朝比良景都として待っていた自分を完全に消すことはできない。それなら、消せない部分も含めて責任を持って聴くしかない。


試写室ではなく自席の小さな画面で映像を開き、ヘッドホンをつけた。雨の場面が始まり、足音が水を踏んだ。


環の音はほとんど遅れて入ってきたが、場面を支配せず、雨を消さず、去る背中を引き止めず、ただ去った後も場所に残る温度を誰にも見えない高さでそっと灯していた。


景都は途中でメモを取れず、最後までただ聴き入った。映像が終わり黒い画面に変わっても、しばらくヘッドフォンを外せなかった。


彼女は、こちらの想像より先へ行った。


そう思った。


粗さはあるし、調整が必要な箇所もある。けれど、この場面に必要なものがあった。音が泣かせに来ないから、見ている側の感情が後からこみ上げる。


景都はメモを開いた。指が少し震えている。


雨音を残した判断は有効で、感情の誘導を避けて場面の喪失感を支えている。短尺ながら作品全体の音楽方針として展開可能。


仕事の言葉を並べるが、最後にひとつだけ、画面には書かない言葉が胸の中に残った。


「環さん、届いています。


もちろん送れない、言えない、だがその言葉は景都の中で確かに鳴っていた。


環は送信後、部屋の明かりを少し落とした。雨はまだ降っている。窓の外の灯りが水滴でにじみ、東京の輪郭は少しぼやけていた。端末を伏せた。もう見ない。今夜は見ないと決めた。


しかし、胸は落ち着かなかった。送った音が今どこにあるのか、誰の耳に向かっているのか、景都はもう聞いたのか。考えても答えは出ない。


環はキーボードに触れなかった代わりに、ノートを開き短く書き記した。


見えない場所へ音を渡した。


それだけを書いてペンを置いた。今日できたことはそれだけで十分だと思った。


高層階では景都が評価資料を更新していた。追加デモについての所見を入れ、最終候補として強く推す理由を整理する。言葉は冷静でなければならない。感情の熱をそのまま入れれば資料は弱くなる。


だが、熱のない資料では環の音を守れない。


景都は何度も文章を修正した。過剰な表現を削り、曖昧な賛辞を避け、具体的な場面との関係を記述した。雨音を残す構成、セリフのない間への入り方、余白を損なわない低音の処理。


書きながら、彼は自分が彼女の音を守ろうとしていることを認めた。仕事として、そしてひとりの聴き手として。その境目はまだ危ういけれど、どちらか一方だけではないことももうわかっていた。


夜の終わりに近い深さが窓の外に降りていて、景都は資料を送信する前に一度だけ広場を見下ろした。ピアノは雨に濡れない場所で静かに眠っていて、環の姿はなかった。


それでよかった。彼女は今、きっと部屋にいる。音を渡した後の疲れを抱え、届いたかどうか分からない夜の中にいる。


景都は資料を送信した。


画面が切り替わり、提出完了の文字が表示された。彼は椅子に深く座り、ようやく息を吐いた。


環の部屋では雨音が少し弱くなり、窓の水滴がゆっくり下へ流れて街灯の色を細く引き伸ばしていた。ベッドに入っても眠れない環は、天井の暗さを見つめていた。


選ばれる前の時間はこんなにも静かでこんなにも騒がしい。外は雨の音だけなのに胸の中では無数の問いが行き来している。


景都は聴いただろうか。


どう思っただろう。


仕事としてどう判断しただろう。


朝比良景都としては何を感じただろうか。


考えるたびに胸が苦しくなるが、もう戻したいとは思わなかったし、出さなければよかったとも思わなかった。怖いまま鳴らした音を、怖いまま渡せた。それだけが確かだった。


環は目を閉じた。景都の名前を思い浮かべる前に、彼が黙って音を聴く姿が浮かんだ。会議室でもなく、窓辺でもなく、どこかの暗い場所で、こちらの音を最後まで止めずに聴いている姿。


想像なのに胸に残る。


夜の東京は雨の匂いを抱えたまま、静かに沈んでいく。高層階では景都が資料の送信履歴を見つめ、部屋では環が通知のない端末を遠ざけたまま、眠りに落ちようとしている。


まだ結果は出ていない。名前は選ばれていない。音は途中にある。


しかし、見えない場所で確かに何かが進んでいた。環が渡した旋律は景都の言葉に支えられ、仕事の机の上に届き、映画の雨の場面に静かに触れていた。


触れない距離のまま、思いだけが先に進んでいく。


その夜、環は夢の中でピアノを弾かなかった。ただ雨の降る広場に立っていた。音はどこからも聞こえなかったが、高い窓のどこかに小さな灯りが残っていた。


それだけで、朝まで消えずにいられる気がした。


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