第6章:届かない名前
環は通知のない朝に目を覚ました。机の端に伏せられた端末は、夜の間に何も告げなかった顔をしていた。窓の外では雲が低く垂れ込め、建物の輪郭をやわらかくぼやけさせていた。遠くを走る車の音だけが、湿った布の下から聞こえるように鈍く響いていた。
応募した曲はもう自分の手の中にない。送信した瞬間からそれは誰かの耳へ向かうものになった。わかっているのに、環の胸にはまだ送った後の空白がそのまま残っている。
机の上のキーボードには触れなかった。触れればまた直したくなる。直せないものを直したくなるのは音楽に限らず苦しいことだ。環は椅子に座ったまま、指先を膝の上で軽く開いて鍵盤を押さえる形を作った。
鳴らない音が朝の部屋に浮かんでいる。
「待つだけって、こんなに疲れるんだ」
声に出すと少し情けなかった。待っているのは結果なのか、景都が聴いてくれたという確かさなのか、自分でもうまく区別がつかなかった。どちらも欲しくて、どちらも欲しいと認めるのが怖かった。
顔を洗う水は生ぬるく、湿気のせいで肌に残る水滴がなかなか乾かなかった。環はタオルで頬を押さえながら鏡の中の自分を見た。
大丈夫そうな顔をしているが、本当に大丈夫な人はこんなに何度も端末を見ない。環は鏡越しに机を振り返り、すぐに目を逸らした。
今日は広場へ行く。弾くかどうかは決めていないが、行かなければ自分の中にある音がまた部屋の隅で小さく縮んでしまう気がした。
バッグに端末を入れる際、画面を見ないようにした。通知が来ていないことは分かっているが、見れば来ていない事実だけが新しくなる。バッグの口を閉じて、環は深く息を吸った。
外へ出ると、東京の空気はいつもより近く感じられた。湿った風が首筋に触れ、雨になりきれなかった匂いが舗装から上がっていた。ビルの下を流れる人の気配も朝の光も、少しずつ重たかったが、どこか優しさを感じさせた。
景都は机の前で、環の曲をもう一度聴いていた。正式な評価資料は昨夜のうちに送ったから、今朝の再生に仕事上の必要はほとんどない。そうわかっていながら、彼はヘッドホンを外せなかった。
名前よりも先に聞こえる旋律。曲名が画面に表示されるたびに胸の奥が静かに痛んだ。彼女はどんな気持ちでその名前をつけたのだろう。朝の会話のあとに生まれた曲なら、自分の存在が少しだけ反映されているのだろうか。
そう思うこと自体が危うい、と景都は自分の考えをそこで止めようとした。音楽プロデューサーとして、彼女の曲を冷静に扱わなければならない。胸が動いたことを理由にしてはいけない。
けれど、胸が動かない音をどうやって人に届けられるだろう。
景都は再生を止めた。部屋の空調音が戻り、画面の白さが急に事務的に見えた。彼は指先でこめかみを押さえ、しばらく目を閉じた。
昨夜送った評価には嘘はない。曲の構成も、映像との距離感も、余白の扱いも、仕事として推薦できる理由がある。だが、それだけではない何かがあることを、自分だけは知っている。
それを彼女にどう伝えるべきなのか、あるいは伝えないべきなのか、朝の湿った光の中でも答えは見つからなかった。
景都は窓辺へ立った。広場はまだ遠い。高層階から見る東京は静かに整っているが、見下ろすほどに自分だけが少し乱れている気がする。
今日は会えるだろうか。
そう思った後で、彼は小さく息を吐いた。会えることを期待している。それを否定するのはもう難しかった。
環が広場に着くころ、空は薄い灰色のまま明るさだけが増していた。中央広場の石は乾いているのに表面にかすかな湿り気を残し、靴底に柔らかい感触を返す。植栽の葉は重たげに揺れ、街の音はいつもより少し低く聞こえた。
ピアノの前には誰もいなかった。環はそれを見て胸の奥で息を整えた。今日の空気には華やかさよりも沈むような深さがあり、こういう朝には強い旋律は似合わない。
椅子に座ると、手のひらが少し汗ばんでいることに気づいた。結果を待つこと、景都に会えるかもしれないこと、昨日送った曲のこと。いくつもの緊張がひとつの形にならず、指先の温度だけを上げていた。
環は鍵盤に触れた。音はまだ鳴らない。白鍵の冷たさが指の熱を静かに受け止めた。
最初の音を出す前に、景都の名前が浮かんだ。朝比良 景都。呼び慣れない名前なのに、心の中ではもう何度も口にした。声には出さない。出したら、音が別の意味を持ってしまいそうだった。
環は低い音から始めた。それは、昨日演奏した曲ではなく、もっと手前の曲だった。その曲は、待つ時間の重さをなぞるような響きで、音は湿った朝に沈み、すぐに消えることなく広場の床の近くをゆっくり漂っていた。
景都はその音を高層階で聞いた。細部は届かないが、今日は下から深い音が上がってきたことがわかった。窓ガラスに手を触れると、冷たさが掌に移った。
彼女は弾いている。
その事実だけで胸が少しほどけた。結果を待つ時間は彼女を苦しめているかもしれないが、それでも音は止まっていなかった。景都は、それを救いのように受け取ってしまう自分を戒めた。
曲は短かった。途中で晴れることもなく、かといって沈み切ることもなく、朝の雲の下で息を保つための音だった。景都は最後の音の余韻が消えるまで窓辺を離れなかった。
広場では、環が鍵盤から手を離した。拍手はほとんどなく、立ち止まる人も今日は少なかったが、それでもよかった。今朝の音は誰かを振り向かせるためのものではない。
結果を待つ自分を、どうにか一日の中へ置くための音だった。
環が立ち上がろうとしたとき、背後に気配を感じた。振り返る前に、それが景都だとわかった。足音ではなく、息の置き方にも覚えがあった。
「おはようございます」
景都の声は朝の湿気に溶けるように低かった。環は振り返って少し目を細めた。
「上から聴いていたんじゃないんですか?」
「聴いていました」
「それなのに、降りてきたんですか?」
「聞いた後で、会いたくなりました」
景都はそう言ってから、一瞬だけ動きを止めた。言葉が近すぎたと気づいたのだろう。環もすぐには返せなかった。湿った風が視線のあわいを静かに抜けていく。
「それは、仕事としてですか?」
環は少し意地悪な口調で聞いた。自分で言いながら胸が痛んだ。この問いを繰り返すほど彼を困らせることはわかっているが、確認せずにはいられなかった。
景都は逃げなかった。
「今の言葉は、仕事ではありません」
環は鍵盤のふたに視線を落とした。うれしいと思うには怖く、こわいと思うには少しあたたかい。感情は相変わらず、名前をもらう前に胸の中で揺れている。
「そういうことを言うと、また『ずるい』って言いますよ」
「言われると思いました」
「なら、言わなければいいのに」
「言わない方が不誠実な気がしました」
環は小さく息を吐いた。景都の言葉はいつも少し遅れてやってくる。早すぎない分、こちらの奥深くに響く。だから困る。
「曲、届きましたか?」
環は聞いた。
景都の表情が変わった。柔らかさの奥に仕事の責任感が戻る。環はその変化を見て胸のどこかがきゅっと縮まるのを感じた。
「届きました」
「聴きましたか?」
「聴きました」
「どうでしたか?」
問いは思ったより真っすぐ出た。怖い。けれど、回り道を続ける方がもっと怖かった。環は景都の目を見た。話す前に相手を見る癖が今日は自分を逃がしてくれなかった。
景都はすぐに評価を言わなかった。言葉を選んでいるのだ。その沈黙は優しさでもあり、仕事の壁でもあった。
「正式なことはまだ何も言えません」
環の胸に、予想していた冷たさが落ちた。わかっている。そういうものだ。まだ選考中で、彼ひとりが決めることではない。
「そうですよね」
「でも」
景都が続けた。
「最後まで、止めずに聞きました」
環は顔を上げた。評価としては曖昧すぎるが、その言葉には数字や順位よりも近い温度があった。
「それは、褒めていますか?」
「僕にとっては、かなり」
「わかりにくいです」
「すみません」
環は笑わなかったが、肩の力は少し抜けた。最後まで止めずに聞き、その言葉を今は胸のどこかに置いておきたいと思った。
「怖いです」
環は言った。
景都は何も遮らなかった。
「もう送ってしまったのに、ずっと怖い。聞かれるのも、選ばれないのも、選ばれるかもしれないのも」
景都は少しだけ視線を落とした。選ばれるかもしれないことの怖さ。そこまで言葉にする人は少ないが、彼にはその怖さがわかる気がした。届く場所へ近づくほど、音は自分だけのものではなくなる。
「怖いままでも、いいと思います」
「また、きれいなことを言う」
「きれいではなくて」
景都は言葉を探した。
「怖くない音より、怖がっている音のほうが僕は信じられることがあります」
環は黙った。湿った朝の風が髪の先を揺らし、景都の言葉は慰めの形をしているのにどこか痛かった。自分の弱さを見られているようで逃げたくなった。
「朝比良さんは」
環はゆっくりと言った。
「どうしてそんなに聴く側のことばかり考えるんですか?」
景都はすぐには答えられなかった。その問いは仕事の説明では済まないところへ触れていたからだ。彼は広場の舗装に視線を落とし、自分の靴先が薄く濡れた光を踏んでいるのを見た。
「作れないからだと思います」
「作れない?」
「はい。音を作れないから、聴くことだけは雑にしたくないんです」
環は、その言葉を静かに受け止めた。彼の中にも劣等感に近いものがあるのだと、初めてはっきりとわかった。いつも冷静に見える人が、見えないところで何かに引け目を感じている。
「作れない人にしか聴けない音もあると思います」
環は言った。
景都は顔を上げた。
「私、作っているのに自分の音が何なのかわからなくなることがあるんです。だから聴いてくれる人が必要なんだと思います」
と言ってから、環は少し恥ずかしくなった。「必要」という言葉が近すぎた。景都もその言葉に触れたように、わずかに呼吸を変えた。
「それは」
景都は言いかけて止めた。
環は待った。今度は自分が、彼の言葉を急がせない側にいる。
「それは、僕がそうであってもいいという意味ですか?」
空気が少し止まった。広場の音は続いている。人の足音も、葉擦れの音も、車道の響きも消えていない。それなのに、その問いだけが環の胸のすぐ近くに置かれた。
答えるには早すぎる、と環は思った。
けれど、否定するには遅すぎた。
「まだ、わかりません」
環は言った。
景都はうなずいた。
「はい」
「でも、朝比良さんの聞き方は嫌じゃないです」
景都の目がほんの少しだけ揺れ、環はその変化を見て胸の奥に熱が差すのを感じた。言い過ぎたかもしれない、と思ったが、言わなければ朝が進まない気がした。
「ありがとうございます」
景都の声は低く、少し掠れていた。
環はピアノから離れた。これ以上そこにいると、もう一曲弾いてしまいそうだった。弾いてもよかったのかもしれないが、今は音よりも会話の余韻が指先に残っていた。
「仕事、行かなくていいんですか?」
「行きます」
「いつも私のせいで遅れてませんか?」
「そうですね」
「否定してください」
「否定できる材料がありません」
環は思わず笑った。景都もわずかに目を細めたが、笑い合うというほどではなかった。しかし、並んだ呼吸の間に朝の湿りとは別の温度が生まれた。
景都がビルに戻る前に、環は彼女を呼び止めた。
「朝比良さん」
彼はすぐに振り返った。名前を呼ぶ声が思っていたよりも自然だったことに、環は少し驚いた。
「結果がどうであれ」
そこまで言って言葉を探した。結果がどうであれ大丈夫、そんなことは言えない。大丈夫ではないかもしれない。きっと傷つくし、期待もする。
「今日、聞いてくれて良かったです」
景都はしばらく黙っていた。何かを言えばその言葉を壊してしまうような、そんな沈黙だった。
「僕も、降りてきて良かったです」
それだけを返して、景都は歩き出した。
環はその背中を見送った。入口のガラスに朝の光が反射して景都の輪郭を一瞬だけ白く縁取った。彼が振り返らないことに環は少し安心すると同時に、少し寂しくなった。
昼に近づくにつれて広場は人の熱を帯びていき、環はそのままピアノに戻らず近くの道を歩いた。湿りを含んだ空気が少しずつ軽くなり、店先から漂う香ばしい匂いが街の表情を変えていく。
結果はまだ出ない。けれど、待つ時間の中に景都の言葉がある。それだけで、完全な孤独ではなくなっている。環はその変化を「嬉しい」と呼ぶのがまだ怖かった。
部屋に戻る前に小さなカフェに立ち寄り、壁際の席に座った。隣の席との距離がちょうどよく、誰にも見られずに息を整えることができた。木のテーブルには細かな傷があり、指で触れると朝の鍵盤とは違うざらつきがあった。
端末を見るが、通知はまだない。環は画面を閉じた。
見ないでいられた自分を少しだけ褒めたいと思った。そんな小さなことでも今日の自分には必要だった。
景都が仕事に戻ると、午前の会議で環の曲について質問を受けた。曲名、方向性、映像との相性、作曲家の実績。どれも想定していた問いだった。彼はひとつずつ必要な言葉で答えた。
環の名前を発音するたびに朝の声が胸に蘇る。仕事の場では彼女は候補作曲家の一人だが、景都の中では朝の湿った広場で「怖い」と言った人でもある。
それを混ぜてはいけない、と彼は思った。
しかし、完全に分けてしまえば、彼女の音の一番大切な部分を見落としてしまうような気がした。人が音を作るという当たり前のことを無視した評価は、どこかで空っぽになってしまう。
景都は資料を示しながら、声の温度を抑えた。
「技術的に派手な曲ではありませんが、映像の後ろにある呼吸を消さない強さがあります」
言い切った後、会議室の空気が少し変わった。誰かが資料に視線を落とし、誰かが短くメモを取る。景都は、自分の言葉が環の曲を少しだけ前に押し出したことを感じた。
その責任が肩へ静かに乗った。
午後、環は部屋で別の仕事に取りかかった。企業映像の短い修正作業だった。依頼文には、明るめに、わかりやすく、テンポよくと書かれていた。環は、その通りに音を整えながら、自分の曲とはまるで違う呼吸に少し救われた。
誰かの希望に合わせて音を作ることは嫌いではない。むしろ、そういう仕事に支えられてきたが、指示通りの音を作るほど自分が本当に書きたいものの形が見えてくるのだった。
昼の光が部屋の壁を滑り、カーテンの影が床に細く落ちる。作業用の音が繰り返し流れ、何度も止まり、また始まる。その規則正しさの中で、朝の景都の言葉だけが不規則に混じった。
「僕がそうであってもいいという意味ですか?」
環は手を止めた。あの問いにまだ答えられていない。嫌じゃないとしか言えなかった。それ以上の言葉は今の自分には怖すぎた。
でも、もし彼が聴いてくれる人だったら。
そこまで考えて、環は頭を振った。期待しすぎてはいけない。彼は仕事の関係者であり、自分の曲を評価する立場の人間でもある。その線引きを忘れれば、どこかで傷つく。
けれど、線があるからこそ、触れない距離がこんなに濃くなるのかもしれない。
夕方が近づくころ、景都は社内の廊下で立ち止まった。会議は終わり、次の判断は少し先になる。今日中に結果が出るわけではないし、それを環に伝える術もないし、伝える立場でもない。
それでも彼女は待っているだろう。端末を見ないようにして、きっと何度も見たくなっているだろう、と。そう想像してしまう自分に、景都は苦く笑った。
想像しすぎている。まだそこまで相手のことを知っているわけではないが、朝の言葉を聞いた今、知らないふりはできなかった。
窓の向こうでは空の色が少しずつ深くなり、建物の影が広場に降りてきていた。景都は下を見た。ピアノの周りには人の流れがあったが、誰かが座っている様子はなかった。
環は来るだろうか。
待つことが癖になっていく。景都は、その事実をもう否定しなかった。
環は仕事を一段落させると部屋を出て、端末はバッグの中に入れたままにした。通知を見るためではなく、見ないために持っているようなものだった。
外の空気は朝よりも少し乾いており、湿りの奥に舗装の熱がまだ残っている。街路樹の葉は夕方の光を受け、昼間の緑とは異なる深さで揺れていた。
中央広場に向かう道で、環は景都に会ったら何を話そうか考えた。曲の結果のことは聞かないほうがよい。仕事のことも、これ以上は踏み込まないほうがよい。そう思うほど、話したいことが減っていく。
それでも会いたいのだと、どこかで思っている。
その気づきは環の歩幅を少し乱した。恋という言葉を置くにはまだ早いけれど、会えるかもしれないと思うだけで空気の温度が変わるなら、それはもうただの習慣ではない。
広場に着くと、夕方の光がビルの側面を薄く染めていた。ピアノには誰も座っていなかった。環は少しだけ迷い、椅子に向かった。
今日は弾くためではなく、待つために座ったのだ。そう思った瞬間、自分でも少しおかしくなった。待つ側になることに、こんなにも落ち着かなさを感じるとは思わなかった。
環は鍵盤に触れずに手を膝に置き、周囲の音を聞いた。人の話し声、紙袋の擦れる音、遠くから聞こえる車の低い振動、植栽に触れる風。どれも音楽ではないのに、今は全部が前奏のように聞こえた。
「今日は弾かないんですか?」
という声がして、環は顔を上げた。景都が少し離れた場所に立っていた。朝と同じスーツを着ているのに、夕方の光の中では少し疲れて見えた。
「今日は待っていました」
と言ってから、環は自分の言葉に驚いた。景都も一瞬だけ目を見開いた。視線の間に、夕方の風がゆっくり入り込む。
「僕を、ですか?」
「そう聞き返さないでください」
「すみません」
景都は少しだけ困ったように笑った。その表情を見て、環の胸の奥が柔らかくなった。困らせたいわけではない。けれど、少し困った顔を見ると、なぜか距離が近くなった気がした。
「結果は聞きません」
環は先に言った。
「まだ何も言えないと思うので」
景都は静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
「でも、聞いたかどうかは聞きます」
「聞きました」
「最後まで?」
「最後まで」
環は小さく息を吐いた。朝に聞いた答えなのに、夕方になってもう一度聞くと、違う場所へ届いた。最後まで聴かれた曲は、もう自分だけのものではない。
「怖いけど、少し嬉しいです」
環は言った。
景都はその言葉を慎重に受け取った。
「嬉しいと感じる気持ちがあるなら、良かったです」
「朝比良さんは?」
「僕ですか?」
「聞いて、どう思いましたか? 仕事の評価じゃなくて」
景都はすぐには答えなかった。環はその沈黙を待った。答えにくいことを聞いた自覚はあるが、どうしても仕事とは関係のない感想が聞きたかった。
夕方の広場は朝よりも人の声が低く、足音も急ぎすぎず、灯りが点く前の時間だけが柔らかくにじんでいる。景都はその空気の中で言葉を選んだ。
「聴き終わった後、少し黙っていたくなりました」
環の目が揺れた。
「それは、いい意味ですか?」
「僕には、かなり」
「またわかりにくい」
「でも、本当です」
景都は続けた。
「すぐに別の音を聴きたくなかったんです。あの曲のあとに残った静けさを、しばらくそのままにしたかったんです」
環は返事ができなかった。自分が曲に込めようとしたものを、彼は言葉にしすぎない形で拾ってくれる。嬉しい、怖い、苦しい、その全部が胸の中で重なり、どれかひとつに決められない。
「そういう聴き方をされると」
環は言った。
「また作りたくなります」
景都の視線がやわらかくなる。
「それは、困りますか?」
「困ります」
「でも?」
「でも、少しだけ助かります」
景都はそれ以上何も言わなかった。言えば、今の言葉を追い詰めてしまう気がしたからだ。環もまた、これ以上説明したくなかった。
広場の灯りが少しずつ目立ち始め、鍵盤の白さは夕方の色を失って淡い光だけを受けて浮かんでいた。環はゆっくり手を伸ばして一音だけ鳴らした。
短い音だった。曲ではなく、会話の続きのような音だった。
景都はその音を近くで聞いた。胸の奥が静かに震える。言葉よりも近く、触れるよりも遠い。環はすぐに手を離し、少し気まずそうに笑った。
「今のは何ですか?」
景都が尋ねる。
「わかりません」
「わからない音ですか?」
「たぶん」
「いいですね」
「何でも良いって言いそうですね、朝比良さんは」
「何でもよくはないです」
景都は少し真面目に返した。
「今の音だったから、いいと思いました」
環は目を逸らした。簡単な言葉ではないとわかるから、余計に受け止め方に困る。彼の言葉は、こちらの胸の手前で止まらず少し奥へ入ってしまう。
「そういうところです」
「どこですか?」
「ずるいところ」
景都は何か言おうとしてやめた。「受け止めます」と言うには、今の空気は少し近すぎた。代わりに彼は、鍵盤の端を見つめた。
「今日は隣に座ってもいいですか?」
環は息を止めた。椅子には余裕があるが、その一言は思っていたよりも大きかった。隣、音のすぐそば、呼吸が届く距離。
「弾きませんよ」
「弾かなくてもいいです」
「何もしないですよ」
「はい」
環は少しだけ横へずれた。景都はゆっくり座った。肩が触れるほどではなかったが、並んだ気配が鍵盤の前に置かれるだけで、広場の見え方が変わった。
環は前を向いたまま手を膝に置き、景都も鍵盤に触れない。音の前に座る沈黙が互いの間に静かに満ちていく。
「変な感じです」
環が言った。
「僕もです」
「朝比良さんでも?」
「かなり」
「少し安心しました」
景都は、環の横顔を見ないようにした。見れば何かを言いたくなるし、言えないことが多すぎる今、視線さえ慎重に扱う必要があった。
環は、見られていないことに気づいていた。彼はいつも、踏み込みすぎないようにしてくれる。けれど、それが時々寂しくもある。矛盾していると思った。
近づかれるのは怖いし、離れられるのも怖い。
その矛盾は恋の手前にあるものなのかもしれない、と環は考えたが、すぐに心の中で打ち消した。まだ早い、まだ名前をつけなくていい、と。
夜が広場の端から降りてきて、ビルの灯りが濃くなり、舗装の上には人影がやわらかく伸びていた。ピアノの前に並ぶ沈黙は、音が鳴っていないのにどこか演奏の途中のようだった。
「結果が出るまで」
と、景都は静かに言った。
「落ち着かないと思います」
「はい」
「でも、結果が出る前の時間だって、曲の一部になる気がするんです」
環は景都を見た。
「また、きれいなことを」
「今回は少し本気です」
「いつも本気じゃないんですか?」
「本気です。ただ、うまく言えないだけです」
環は、彼の不器用さに胸が緩んだ。彼は多分、たくさんの音を言葉にしてきた人なのに、自分のことになるとこんなにも言葉が下手になる。
その下手さが信じられる気がした。
「じゃあ、私も本気で言います」
環は鍵盤を見たまま言った。
「選ばれなかったらたぶん落ち込みます。朝比良さんの前で平気なふりをするのも、あまりできないと思います」
景都は静かに聞いていた。
「それでも、今度は演奏をやめないようにしたいです」
その言葉を口にした瞬間、環の胸が熱くなった。これは景都への宣言であると同時に、自分自身への約束でもあった。前の落選で止まった音を、今度は結果だけに委ねない。
景都はゆっくり息を吸った。
「その朝も聴きます」
環は景都を見た。彼の横顔は夜の明かりを受けていつもより少し近くに見えた。近いのは距離ではなく言葉の置き場所なのかもしれない。
「約束みたいに言いますね」
「約束にしてもいいなら」
環はすぐに答えられなかった。約束は怖い。守られることも破られることも。けれど、何も約束しないままでは進めない場所もある。
「じゃあ、軽めの約束で」
「軽め」
「破ったら少しだけ怒るくらいの」
景都はわずかに笑った。
「それなら、守れそうです」
環も少しだけ笑った。笑いは声にならず、息の形だけで広場の空気に溶けた。
その後、景都は仕事に戻らず、少しだけそこにいた。環も弾かなかった。近すぎない距離で並び、夜になりかけた東京を前に、音のない時間を共有した。
言葉を交わさなくても退屈ではなく、むしろ言葉を使わないほうが伝わるものがある気がした。環は、その静けさが怖くない自分に少し驚いていた。
景都は時計を見ずに立ち上がった。帰らなければならない時間は街の暗さでわかる。環もそれを察して鍵盤から手を離した。
「今日はありがとうございました」
景都が言った。
「何に対してですか?」
「待っていてくれたことに」
環は顔を伏せた。自分が言った言葉を彼はちゃんと覚えている。「待っていました」その一言を冗談にせず、受け取っている。
「たまたまです」
「はい」
「信じてないですよね」
「少しだけ」
環は小さく笑い、景都も目元を緩めた。夜の広場で、その小さなやりとりだけがやけに柔らかく残った。
別れる前、環は聞いた。
「明日も窓辺ですか?」
景都は少し考えた。
「たぶん最初は」
「最初は?」
「降りてくるかもしれません」
環は目を伏せた。期待してしまう。降りてこなかったら寂しいと思ってしまう。そういう自分をもう完全には責められなかった。
「じゃあ、私は弾くかもしれません」
「かもしれない、ですね」
「軽めの約束です」
景都はうなずいた。
「待っています」
その言葉は今日も環の胸に残ったが、昨日までとは違っていた。重さだけではなく、温度も感じられた。
景都が広場を離れた後、環はもう一度だけピアノの前に座った。夜の空気は柔らかく、鍵盤は少し冷たかった。彼が座っていた場所にはもちろん何も残っていなかったが、並んだ沈黙の感触だけがそこに薄く残っているようだった。
環は一音だけ鳴らした。さっきより少し低い音で、夜の底へそっと置くような響きだった。
その音は誰かに届いたわけではないが、明日の朝へ向かうためには十分だった。
部屋に戻る途中、環は端末を見なかった。通知がないことを確認するよりも、今日の会話を忘れない方が大事だった。街の湿気は夜に溶け、舗装された道には灯りが細く伸びていた。
胸の中には不安があり、結果への怖さもあり、景都への言葉にならない揺れもあった。
けれど、それらはもう環を止めるだけのものではなかった。音の中へ入れられるかもしれないものになっていた。
高層階で景都は遅くまで残っていた。評価資料は進み、次の判断へ渡されている。彼にできることは限られているが、できることはすべてやった。
窓の外を見ると、広場にはもう環の姿はなく、ピアノだけが夜の灯りの下で静かに置かれていた。そこに並んで座っていた短い時間を思い出すと、胸の奥が少し熱くなった。
仕事として守るべき線がある。越えてはいけない距離がある。しかし、守ろうとすればするほど、彼女の存在は自分の中で確かなものになっていく。
景都は小さく息を吐いた。
「明日も、待つのか」
自分に向けた声は答えを必要としていなかった。もうわかっている。待つ。窓辺で、あるいは広場で。音が鳴っても鳴らなくても。
環の部屋では、明かりを落とした机の上に端末が静かに置かれていた。通知はまだ来ていなかったが、環はそれを急いで確認することはなかった。
ベッドに入る前、ノートを開き、昨日書いた言葉の下に新しい一行を書き足した。
怖いまま、鳴らす。
それは今日の答えだった。結果を待つことも、景都と向き合うことも、自分の音を外へ渡すことも、全部怖い。けれど、怖くなくなるまで待っていたらきっと朝は過ぎてしまう。
環はペンを閉じた。窓の外では、東京の夜が低く揺れ動いていた。遠くで車の音が寝息のように街の底を流れていた。
名前を知った後も、音は先に来る。
景都の名前を思い浮かべる前に、彼が聴いてくれた静けさが浮かぶ。彼の顔を思い出す前に、わからないまま待つと言った声が残る。
その順番が環には少しだけ、大切に思えた。
夜が深くなる。高層階では景都が資料を閉じて広場から離れ、部屋では環が目を閉じて通知のない端末をそのままにして眠りへと向かう。
同じ東京の空気の中で、まだ言えないことだけが静かに積もっていく。仕事と夢、評価と願い、触れたい気持ちと踏み込めない距離。そのすべてが明日の朝に鳴るかもしれない一音のためにゆっくりと熱を持ち始めていた。




