第5章:戻る音の輪郭
環は朝の部屋で、音を消すところから始めた。夜の間に重ねた旋律は、端末の中でまだ淡く光っていた。しかし、聴き返すほどに、余計な言葉が混じっている気がした。窓の外では、空が薄い灰色から柔らかな白へとほどけていた。遠くの道路を渡る車体の震えが、床の奥へかすかに響いていた。
消すことは諦めることとは違う、と環は思いたかった。不要な音を削るたびに自分の中の弱さも削られていくようで少し怖かったが、残ったものだけが本当に必要な呼吸になることも環は知っていた。
机の上には飲みかけの水と開いたままの小さなノートがあり、そこには言葉にならない断片がいくつか残っていた。朝の残響、待つ人、届ききらない音、硝子の向こう。どれも曲名にはならないのに消すことができなかった。
環はペンを取り、最後の行に短く書いた。
もう一度、広場で弾く。
書いた瞬間、胸の奥が小さく鳴った。決意というには細いけれど、昨日までの迷いだけで歩く朝とは違っていた。自分で書いた文字なのに、その言葉に背中を押される。
顔を洗う水は肌に触れた後、すぐに冷たさを失った。鏡の中の環は疲れていたが、目の奥に沈んでいた色が少しだけ戻っていた。夢を諦めた顔ではなく、まだ怖がっている顔だった。
怖がっているなら、まだ終わっていない。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
景都は、朝の高層階へ着く前に下の階の通路で足を止めていた。上へ行けば仕事が始まる。資料を開き、候補曲を聴き、言葉に変え、責任の形に整える時間だ。しかし、今朝の体は窓辺よりも広場の空気を求めていた。
昨日、八雲原 環の名前を正式な候補に加えた。仕事として間違ってはいないと思う。音源を聴いた上で必要な理由も書いたが、資料に名前を入れた後から胸の内側に細い緊張が残っている。
彼女にまだ言っていない。
その事実だけが朝の空気を少し苦くしていた。言えば会話の温度が変わるし、言わなければ自分だけが距離の形を知っていることになる。どちらも正しくない気がして、景都はエレベーターの前で一度目を伏せた。
外に出ると、麻布台ヒルズ中央広場に柔らかな風が吹いていた。植栽の濃い緑は昨日よりも光を含み、舗装された石には淡い乾きが広がっていた。人の流れはまだ少なく、街が本格的に動き出す前の空白が広場の中心に静かに残っていた。
景都は、ピアノに近づきすぎない場所で立ち止まった。待っていると知られたら、彼女は弾きにくいかもしれない。そう思って少し離れたのに、離れたことで余計に待っていることがはっきりしてしまう。
自分は本当に不器用だと思った。
環が広場に入ってきたとき、空気の色が少し変わった気がした。景都は、その変化に気づいてしまった自分をもう笑えなかった。環は、昨日までのように足を止めたり遠くから見たりせず、まっすぐピアノに向かっていた。
環は景都に気づいていた。朝の声の人が視界の端にいる。けれど今日は、そちらを先に見なかった。見ると指が余計に震える気がした。先に音を置く、と決めていた。
椅子に座ると、広場の高さが少し変わった。通り過ぎる靴音が低くなり、葉擦れの音が上から降って来るように聞こえる。鍵盤の白さは朝の光を受け、指の影を薄く映していた。
環は息を吸った。胸の奥に、部屋で削った旋律がある。まだ完成ではないが、今ここで鳴らさなければこの音は机の上だけで萎んでしまう気がした。
最初の音は昨夜よりも澄んでいた。弱く始まったのではなく、小さく始まっただけだった。音は舗装の冷たさを少し撫で、植栽の湿りへ触れ、広場の空気に静かに溶けていった。
景都は、その一音で呼吸を忘れた。朝のざわめきの中でも音の芯だけがまっすぐ届き、高層階から聞いていた時とは違っていた。近くで聴く環の音には、指先が鍵盤に沈む瞬間の迷いまで含まれていた。
旋律は前へ進みすぎず、立ち止まり、戻り、少しだけ別の道を探る。そのたびに景都の胸には言葉にしそこねた感情が薄く広がった。悲しみとも希望とも決められないその手前の温度。
通りかかった人がひとり足を止め、続いて別の足音が少しだけ速度を落とした。誰かがスマートフォンを取り出しかけてすぐに下ろし、音を邪魔しないための小さな遠慮が広場の端に生まれた。
環は目を伏せたまま弾いた。人が立ち止まる気配は感じたが、それを喜ぶ余裕はなかった。鍵盤の上で音を見失わないようにするだけで精一杯だった。
一度、右手が遅れた。ほんのわずかな揺れだった。普通なら誰も気づかないような間だったが、環にははっきりとわかった。そこには昨夜、削りきれなかった迷いが表れていた。
それでも止まらなかった。
止まらずに次の音へ進めたことが環には少しだけ奇跡に思えた。
景都は、そのわずかな揺れに気づいた。完璧ではない。しかし、完璧でないからこそ、景都は目を離せなかった。音は生きている。今この場で、環自身の呼吸と一緒に形を変えている。
最後の音が広場の奥に溶け込んだとき、朝の空気は少しだけ違う質感になっていた。しばらく誰も動かなかったが、やがて控えめな拍手がひとつ落ち、それに続いていくつかの拍手が柔らかく重なった。
環は鍵盤から手を離した。拍手は大きくないが、その小ささがかえって胸に響いた。大げさに祝われるよりも、今日の音にはそれくらいの温度が合っていた。
景都は拍手をしなかった。手を動かせなかったわけではない。拍手より先に、その音を胸の中へ落とし込みたかったのだ。しかし、環が顔を上げた瞬間、彼は自然に小さく手を叩いていた。
環はその音を見つけた。拍手の中に景都の手があるとはわからなかったが、目が合う前からそこに彼がいることはわかっていた。
「弾けましたね」
景都はほかの人が離れてから近づいてきたが、近づきすぎず声が届く距離で止まった。環は鍵盤のふたに触れたまま少しだけ顔を上げた。
「弾いてしまいました」
「それは、後悔ですか?」
「まだ、わかりません」
環は正直にそう言った。嬉しいとは言えないし、怖くなかったとも言えない。けれど、弾かなければよかったとは思っていなかった。
景都はうなずいた。
「わからないままでも、今朝の音は残ります」
その言い方が環の胸を少しだけ柔らかくした。景都は結論を急がないし、名前をつけたがらない。だからこそ、彼の言葉は不思議と胸に響く。
「朝比良さんはいつもそうやって聴くんですか?」
「どういう意味ですか?」
「答えを急がない感じです」
景都は少し考えた。広場の風がスーツの袖口を揺らし、朝の光は昨日よりも明るく環の横顔に触れてから、鍵盤の上に落ちた。
「急いで答えを出す仕事でもあります」
「映画の音楽ですか?」
「はい」
「でも、あなた自身は急いでいないように見えます」
景都は返す言葉に迷った。急いでいないわけではない。急ぐことが怖いのだ。早く決めるほど見落とすものが増える気がして、そのせいで仕事でも私生活でもいくつかの言葉を言いそびれてきた。
「急いで間違えるのが怖いだけかもしれません」
環はその答えを聞いて鍵盤に目を落とした。自分にも似たところがある。期待して間違えるのが怖い。信じて届かなかった時の痛みを先に想像してしまう。
「私も、期待して間違えるのが怖いです」
と言ってから、環は少し息を止めた。本音が近すぎたのだ。景都に向けて言ったのか、音楽に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。
景都は、その言葉を軽く受け取らなかった。彼女が今朝弾いた曲の震えがそのまま言葉になったように感じた。
「間違えても音は残ると思います」
「きれいな言い方ですね」
「きれいに聞こえましたか?」
「少し」
「なら、半分くらい失敗です」
環は思わず笑った。景都はまじめな顔をしているのに、言葉の端が少しだけ不器用に緩んでいた。その緩みは環の警戒を解いた。
「半分だけ?」
「全部失敗では困るので」
「そういうところ、やっぱり変です」
「受け止めます」
同じような言葉なのに、今日は少し響きが違っていた。昨日までの距離よりもほんの一歩だけ近いけれど、近づきすぎない。呼吸が届きそうで届かない朝の空気に似た距離だった。
環はバッグから端末を取り出し、迷った末に画面を開き、昨夜作った仮の曲を表示した。景都に見せるつもりはなかったが、彼の前で隠すこともできなかった。
「新しい曲を作り始めました」
景都の目がわずかに動いた。
「コンペの曲ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ出せるか分からないので」
環はすぐに画面を閉じた。見せるにはまだ早すぎる。誰かに触れられたら壊れてしまいそうなほど、曲はまだ柔らかかった。
景都はその動きを責めなかった。
「無理に聴かせなくていいです」
「仕事の人なのに?」
「仕事の人だから、今ここで無理に聴かないほうが良いと思います」
環は景都を見た。「仕事の人」その言葉を自分で使ったのに、彼の口から似たような線引きが返ってくると、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。
「朝比良さんは、私の曲を仕事で聴くかもしれないんですよね」
景都は逃げなかった。ここで曖昧にすれば、後で取り返しがつかなくなる、とわかっていた。
「はい」
環の指先が端末の縁を少し強く握った。
「もう聴いたんですか?」
景都は少しだけ沈黙した。嘘をつく選択肢はなかったが、言い方を間違えれば今朝戻ってきた音源まで傷つけてしまう。
「過去に提出された音源を聴きました」
環は目を伏せた。胸の中に冷たいものが小さく落ちた。知らないうちに聴かれていた。資料の中の名前として扱われていた。その事実に恥ずかしさと怖さが混ざった。
「だから、私の名前を知っていたんですね」
景都は答えなかった。答えないことが答えになった。
環は小さく息を吸った。怒っているのか、傷ついているのか判断がつかないが、昨日名乗ったときに彼が少しだけ動揺した理由が今ならわかる。
「先に言ってほしかったです」
「すみません」
景都の謝罪は短かったが、言い訳をしないことがかえって胸に響いた。しかし、それで何もかもが平気になるわけではない。
広場の光が少し濃くなり、人の流れが増えていく。環はピアノから離れて植栽のそばへ移り、景都はすぐには後を追わず、少し間を置いて同じ方向へ歩き出した。
並んだ影の合間を朝のざわめきが通り抜ける。近すぎれば苦しく、遠すぎれば声が届かない。その曖昧な距離を互いに手探りしていた。
「仕事として聴いたなら」
環は言った。
「今朝の音も、そういう風に聞いていましたか」
「違う、と言いたいです」
景都は正直に答えた。
「でも、完全に切り離せているとは言えません」
環はその言葉にすぐには返せなかった。きれいに否定されるよりも苦いけれど、きれいに否定されるよりも信じられる気がした。
「ずるいですね」
「そうだと思います」
「そこは否定しないんですね」
「否定できるほど器用ではないです」
環は景都を見た。彼の表情には困ったような誠実さが表れていた。自分の立場の曖昧さを理解した上で、それでもなお、その場に立ち続けている人の顔だった。
「私、評価されるのが怖いです」
環の声は低かった。
「落ちたことより、聴かれて何も残らないことが怖い」
景都の胸にその言葉が深く沈んだ。彼女の曲を聴いたときに感じたものは、まさにその恐れの裏側にあった。残りたい。誰かの中にほんの少しでいいから残りたい。音源の奥でその願いが、声にならないまま鳴り響いていた。
「残っています」
景都は言った。
環が顔を上げた。
「少なくとも、僕には」
その言葉は朝の広場に強く響いたわけではなく、むしろ静かすぎるほどだった。しかし、環にはまっすぐ届いた。仕事としての評価なのか、個人的な感情なのかはわからなかった。
わからないからこそ、余計に胸が揺れた。
「そういうことを簡単に言わないでください」
「簡単ではないです」
景都はすぐに返した。声にわずかな熱があった。環はその熱に驚き、言葉を失った。
「簡単に言えるなら、もっと早く言っていました」
景都はそこで口を閉じた。言い過ぎたかもしれない。仕事の立場を持つ自分が今の言葉をどう扱うべきなのか、もう分からなかった。
環は目を逸らした。胸の奥が熱い。怒りの熱ではない。傷ついた場所に別の温度が触れたような感覚だった。
「今日の曲」
環は小さく言った。
「完成したら、ちゃんと出します」
景都は静かにうなずいた。
「聴きます」
「仕事として?」
その問いは少し意地悪だった。自分でもわかっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。
景都は環を見たが、すぐに答えなかった。その沈黙の長さは、答えの誠実さを探っている時間だと思われた。
「仕事として、責任を持って聞きます」
環の胸に、ほんの少しの寂しさが落ちた。
景都は続けた。
「それとは別に、朝比良景都としても待っています」
環は息を止めた。名前を自分で添えたその言葉は、仕事の線引きと個人的な気配をぎりぎりのところで分けていた。ずるい、やっぱりずるい、と思ったが、今度はそのずるさに救われる部分もあった。
「本当に、変な人ですね」
声が少し震えた。
「今日も受け止めます」
景都の返事に、環は笑わなかった。笑えなかった。ただ、胸の奥にあった硬い結び目が少しだけ解けるのを感じた。
昼に向かう街の気配が濃くなるころ、景都は仕事に戻った。環は広場に残り、もう一度だけピアノの前に座った。今度は短い曲ではなく、昨夜作り始めた旋律の断片を弾いた。
音はまだ荒く、途中で形を探し、迷い、また戻るが、今朝の環は迷うことを隠さず、迷いながら進む音としてそのままにした。
立ち止まる人が増え、ささやき声が生まれ、離れていく足音が少し遅くなった。誰かが聴いている、そう感じるたびに怖さは増したが、不思議と指は止まらなかった。
景都は高層階に戻る途中でその音を背中で聞いた。全部は聞こえないが、低い音の揺れと上へ伸びる旋律のかけらが風に乗って届いた。エレベーターに乗る直前に彼はわずかに足を止めた。
この音を、ちゃんと届けなければならない。
それはもう、ただの願いではなかった。
環が演奏を終えるころ、広場には朝の明るさがすっかり満ちていた。拍手はさっきより少し増え、知らない人の手の音が少しずつ重なっていった。環は戸惑いながら頭を下げた。
嬉しいより先に怖い、怖いより先に胸が熱い。感情の順番がうまく並ばないまま、環は鍵盤の上に残った指の熱を見つめた。
音が戻ってきた。広場に、そして自分の中に。
それが今は、何より信じがたいことだった。
午後、環は部屋に戻り、広場で弾いた旋律を録音データに移した。外の光は白さを増し、部屋の壁に柔らかな反射を作っていた。窓を少し開けると、遠くから人の声と車の低い音が入り、作業中の音に現実の湿り気を加えていた。
指は朝よりも動いたが、迷いは消えていなかった。しかし、迷いを削るのではなく音の中へ折り込む方法を少し思い出した。この旋律なら、映画の中で何も言えずに立ち尽くす誰かに寄り添えるかもしれない。
環は同じ箇所を何度も弾いた。違う、まだ言い過ぎている、もう少し沈める、少しだけ明るさを残す。自分に向けた小さな言葉が部屋の中に落ちていく。
途中で景都の言葉を思い出した。
「仕事として、責任を持って聴きます。
朝比良景都としても、待っています」
思い出しただけで指が止まった。「待つ」という言葉は、どうしてこんなに危ういのだろう。支えにもなるし、重さにもなる。けれど、今の環にはその重さごと必要だった。
景都は午後の会議で環の候補資料を正式に提出し、過去音源に加え新規デモが届き次第確認したいという条件を添えた。言葉は仕事の形をしていたが、選ぶ一語ごとに緊張が走った。
彼女を特別に扱ってはいけない、と思うほどに、特別に扱わないための丁寧さが必要になる。景都は資料の説明で感情的な言葉を避け、代わりに音の構造や余白の使い方、映像との距離感について具体的に説明した。
語れば語るほど、朝の広場の環が遠ざかる気がした。仕事の言葉は便利で必要だが、同時に少し冷たい。しかし、その冷たさを通らなければ、彼女の音は正式な場所へ届かない。
景都は自分の声を整えながら胸の奥で小さく祈っていた。どうか音そのものが残ってほしい、自分の言葉ではなく彼女の旋律が判断されてほしい、と。
会議が終わると窓の外の光は少し傾いており、景都は資料を閉じて息を吐いた。肩に遅れて疲労感が押し寄せる。仕事としてやるべきことをしただけなのに、妙に心が削られていた。
スマートフォンに触れかけ、連絡先を知らないことに気づく。だから何も送れない。その不便さに、景都は少しだけ安心した。伝えられない距離が、今はギリギリの線を守っている。
環は夕方までに短いデモを一度書き出し、音源を聴き返した。まだ粗かったが、朝の広場で弾いた時の呼吸は残っていた。これは消さなくていい、そう思えた。
ファイル名を変えた。「朝の残響」では少し内側を向きすぎている気がした。画面の文字を消し、新しい名前を入れた。
名前より先の旋律。
入力した瞬間、環は指を止めた。自分で付けた名前なのに、どこか景都の存在が混じっている気がした。名前を知るより先に届いた音、名前を呼ぶより先に残った声、そういうものが今の曲の奥にある。
少し恥ずかしかったが、消すことはできなかった。
夕方の街には昼の熱と夜の湿気が混ざり始めていた。環は端末をバッグに入れて広場に向かった。提出前にもう一度だけ、外の空気の中で聴きたかった。部屋の中で整えた音が街の中で息ができるか、確かめたかったのだ。
中央広場に着くと、まだ灯りが主役になる前の淡い時間だった。空は少しずつ暗くなり始め、ビルのガラスには雲の端が薄く映っていた。ピアノの周りには朝とは異なる人の流れがあった。
環は椅子に座った。今度は高層階を見上げなかった。見上げると音の前に景都を探してしまうので、今は先に曲に向き合いたかったからだ。
最初の音を置くと、朝よりも深く午後の熱を含んだ響きになった。旋律は少しずつ広がり、途中で立ち止まり、また細く進んでいく。環は、その音の中に落選の痛みも景都への揺れもまだ名前をつけられない期待も全部少しずつ混ぜた。
聴いている人がいる。今度ははっきりとわかる。近くで足を止める気配、遠くで会話が途切れる間、誰かが息を潜めるような静けさ。
環は怖かったが、逃げなかった。
景都は高層階でその音を聞いていた。窓を開けることはできないが、わずかに届く旋律の輪郭と広場に生まれた空気の変化から、彼女が弾いていることがわかった。景都は画面の資料を閉じ、しばらく立ったまま耳を澄ませた。
朝とは違う音だった。少し深くなっている。人に聞かれることを恐れながらも、聞かれる場所へ進んでいる音。景都は胸の奥で、その変化を静かに受け止めた。
音が終わると、広場の下で拍手が起こった。高層階までは届かないはずの手の音が、景都には見えるような気がした。ガラス越しに、頭を下げる環の小さな姿がかろうじて見えた。
景都は手を叩かなかった。代わりに窓に手を置いた。冷たいガラスの向こうで音を取り戻し始めた人がいる。その距離が今は苦しいほどに大切だった。
環は演奏後、ピアノの前でしばらく座っていた。拍手が消え、人の流れが戻っても鍵盤から手を離すのに時間がかかった。胸の中には、疲れと熱が混ざっていた。
誰かに聴かれるのは怖いけれど、聴かれないよりずっと生きている感じがした。
その感覚が、環を少し泣きそうにさせた。
夜が近づく前に、環は端末からデモを送信する準備をした。応募フォームの画面は無機質で、名前、連絡先、曲名、作品へのコメントを淡々と求めてくる。今日の朝も夕方も、こんな小さな欄に入るはずがない。
コメント欄で手が止まる。
「この曲は、名前を知るより先に残る気配を描いたものです」。
そこまで書いて、環は少し考えた。説明しすぎている気がする。もっと短くていい。音が伝えるべきことを、言葉で先に奪いたくなかった。
書き直す。
届ききらない音の余白を、大切にしました。
それだけを送信した。画面が切り替わり、応募完了の文字が表示された。あまりにもあっけない。何日も胸の中で揺れていたものが指先ひとつで外に出ていく。
環は端末を伏せた。部屋の中が急に静かになった。外からは夜の車音が聞こえ、窓の隙間から湿った空気が入り込んできた。
送ってしまった。
その事実が胸に遅れて広がった。怖い。けれど、少しだけ心が晴れている。落選の通知を受け取った朝とは違う。結果はまだ何も出ていないのに、自分の音をもう一度外へ渡せたことが今は小さな救いだった。
景都のもとには夜に近いころ、新規デモの提出通知が届いた。「八雲原 環」。曲名、名前より先の旋律。画面に表示されたその文字を見た瞬間、景都はしばらく動けなかった。
名前より先。
それが偶然なのか、朝の会話の後に生まれたものなのか、彼には分からなかったが、分からないまま胸が静かに熱を帯びた。
今すぐ聴きたいと思ったが、すぐには再生しなかった。仕事として聴く準備が必要だった。朝比良 景都として待っていた自分を少しだけ席の外へ置かなければならない。
景都は水を飲み、ヘッドホンを整え、資料を開いた。部屋の明かりを少し落とした。外の夜景がガラスに淡くにじみ、遠く下の広場が小さな灯りの中に沈んでいた。
再生する。
最初の音が鳴った瞬間、景都は目を伏せた。朝の広場で聞いた音よりも夕方の深さを含んでいたが、核は同じだった。言い切らない、急がない、触れられない距離をそのまま響きに変えている。
景都は最後まで一度も止めなかった。
終わった後、部屋の空調音だけが戻ってきた。景都はしばらく動けなかった。仕事として評価しなければならない、そう思う前に胸の中に残ったものがあった。
届ききらない音の余白。
彼女がコメントに書いた言葉そのものが曲の中で鳴っていた。
景都は資料に評価を書き始めた。場面の感情を先取りせず、観客の呼吸を残す構成。主題の反復が控えめで映像の余白を消さない、未完成さではなく意図的な余韻として機能している、と。
彼は冷静に言葉を並べたが、最後の一行で手が止まった。ここに私情を入れてはいけない、そう思いながらも、どうしても書くべきだと感じる言葉があった。
この曲は聴き終えた後に沈黙を残す。
景都はその一文を入れた。仕事としての評価だった。けれど、その奥には確かに、自分自身の朝があった。
環は夜の広場には行かなかった。部屋の窓を少し開け、外の音に耳を傾けていた。遠くを走る車の音、どこかで閉まる扉の音、空調の唸り、歩道を渡る靴音が残る。都市は夜になっても完全には眠らない。
机の上にはキーボードがある。今日はもう弾かなくていいと思った。音を外へ渡したあと、体は静かな疲れに包まれていたが、その疲れは嫌なものではなかった。
環は端末を見ないようにした。応募完了の画面を何度も確認しても結果が早く来るわけではないとわかっているのに、手は何度か画面へ伸びかけた。
そのたびに景都の声を思い出した。
「朝比良 景都としても、待っています」
「待つ」と言われたことが今夜は少しだけ支えになった。結果ではなく音そのものを待ってくれた人がいた。その事実だけで今日の自分を責めずに済む。
高層階で景都は評価資料を送信し、画面が切り替わると肩から力が抜けた。これで一段階正式な段階へ進んだのだ。しかし、採用が決まったわけではない。むしろ、これからいくつもの判断が待っている。
それでも、環の音はもう彼の胸の中だけに留まっていない。仕事の机の上へ出て、ほかの耳にも届く場所へ向かい始めた。
景都は窓辺に立った。下の広場には誰も弾いていないピアノがあり、夜の灯りを受けて黒い表面が静かに光っていた。今朝戻ってきた音を彼は忘れないだろう。
スマートフォンを手に取る。連絡先はまだない。だから何も送れない。けれど、送れないことに今日は少し救われた。言葉より先に仕事を進めるべきだと思った。
環は部屋の明かりを落とし、窓の外を見た。高層ビルの光は遠く、どの窓に景都がいるのかはわからないが、今夜はその遠さが少しだけやわらかく感じられた。
音はもう届いたのだろうか。
まだ聴かれていないのだろうか。
考え始めると胸が落ち着かなくなり、環は窓枠に指を置いて冷え始めた金属の感触を確かめた。鍵盤とは違う冷たさだった。しかし、指先はまた音を探し始めていた。
「待つのって、怖いな」
と、小さく言った。自分が待つ側になるとは思っていなかった。誰かに待っていてほしかったはずなのに、今は自分もまた景都が聴くことを待っている。
そのことが少し可笑しくて、少し苦しかった。
夜の東京は、湿った青さを深めていく。 舗装の熱はゆっくり抜け、 ビルのガラスには街灯の輪がにじみ、 広場の木々は風のたびに静かに揺れる。 音は鳴っていない。 けれど、音が戻ってきた後の沈黙は、 もう以前のものではなかった。
環は机の上のノートを開き、朝書いた言葉をもう一度広場で弾く、と記した。その下に新しい行を足す。
誰かの中に残る音を書く。
文字は少し震えていたが、消さなかった。
景都は評価資料を閉じた後、最後にもう一度だけ曲名を見た。名前よりも先に浮かぶ旋律。その言葉は彼と環の距離をそのまま映し出しているようだった。名前を知った今でも、音のほうが先に胸に響く。
彼は目を閉じて最初の音を思い出した。朝の広場で戻ってきた音、夕方に深くなった音、そして夜の資料の中で正式な候補として響いた音。
明日、彼女に会ったら何を言うべきだろう。聴きましたと言うべきか、よかったですと言うべきか、それともまだ何も決まっていないから黙っているべきか。
答えは出ない。
けれど、答えが出ないまま朝を待つことに景都は少し慣れ始めていた。
環は眠る前に端末を伏せたまま机の端に置き、通知が来てもすぐには見ないと決めた。そんな決意はたぶん簡単に破れるだろうが、決めないよりはましだった。
ベッドに入っても耳の奥には今日の拍手が残っていた。小さくて控えめな音だが、確かに誰かの手から生まれた音だった。景都の拍手がその中にあったかどうかはわからない。
わからないままでもよかった。
窓の外では夜の風がビルの間を抜け、遠いどこかで同じ曲を聴いている人がいるかもしれない。そう思うと胸の奥にある不安の輪郭が少しだけやわらぎ、ぼやけてきた。
音は戻った。
しかし、戻った音はもはや環だけのものではなかった。広場に残り、誰かの耳に残り、景都の仕事の中に入り、まだ見ぬ映画の暗がりへと向かおうとしていた。
そのことが怖くて誇らしくて眠れないほど、胸が静かに満たされた。




