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名前より先の旋律  作者: reika1021


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第4章:明けない譜面

環の朝は、広場へ向かう前の小さな机から始まった。窓の外にはまだ薄い白さが残り、建物の隙間を流れる風が遠くの車音を少しずつほどいていた。机の上のキーボードには昨夜の指の熱は消え失せ、鍵盤の白だけが眠らなかった考えを静かに受け止めていた。


端末の画面には落選した曲のデータが開かれているが、再生はしていない。ただ波形の線を眺めているだけで胸の奥に、昨日まで言えなかったものがゆっくり戻ってくる。終わりにすると決めたはずの音は、こちらの決意を無視してまだ朝の中に残っている。


環は椅子に浅く腰掛け、指先で机の縁をなぞった。木の表面には細かな傷があり、その凹凸が低い音のように皮膚に伝わってくる。音楽は鍵盤の上だけにあるものではないとわかっているからこそ、余計につらかった。


「最後に、もう一回だけ」


と声に出すと、自分でも驚くほど頼りない響きだった。最後という言葉はいつも本当の終わりより少し手前に置かれる。環はその弱さを知っていたが、それでも今朝はそこにすがるしかなかった。


新しいコンペの募集要項は昨日の夜遅くに見つけた。劇場公開予定の小さな映画で予算も大きくはないが、説明文の「余白を重視した音楽」という言葉が環の胸に小さな火を灯した。


応募期限までは長くない。提出できる曲を作るには、今までの断片を組み直し、足りない部分を新しく書かなければならない。諦めると決めた手で、もう一度だけ夢の扉を叩くことになる。


怖いと思った。期待することが怖いのではなく、期待している自分に気づくことが怖かった。夢は遠くにあるうちは美しいのに、手を伸ばした瞬間、指先の震えまで見えてしまう。


環は端末を閉じてバッグに入れた。広場で弾くかどうかは、まだ決めていなかった。ただ、今日の朝を何もなかったことにはしたくなかった。胸の内側に生まれた小さな火を、風に消される前にどこかへ運びたかった。


外へ出ると、東京の空気は少し湿っていた。舗装の匂いに夜の冷たさが残り、建物の足元には風の薄い層が揺れている。人の流れはまだ完全には濃くなく、靴音も言葉も、朝の中でどこか控えめだった。


環は麻布台へ向かう道を歩いた。いつもの道なのに、今日の足取りは昨日までと少し違っていた。弾くために向かっているのか、弾けないことを確かめに向かっているのか、自分でも分からなかった。


角を曲がる前に、朝の声を思い出した。


わからないまま待っています。


その言葉は不思議だった。約束ではないし、励ましでもない。けれど、環の中にある曖昧なものを曖昧なまま許してくれる響きがあった。


中央広場が見えてくると、ガラスに映る空は淡くほどけ始めていた。植栽の緑には光が薄く差し、風が通るたびに葉の裏が一瞬だけ白く返る。ピアノはいつもの場所にあったが、今朝は遠く感じなかった。


環は椅子の前まで歩み寄り、座る前に一度だけ高層ビルを見上げた。窓は多すぎてどこに誰がいるかはわからないが、朝の声を聞いた人がどこかで耳を澄ませているかもしれないと思うだけで、手の中の緊張が少し和らいだ。


座る。鍵盤に触れる。音はまだ鳴らない。


指先は少し冷えていた。白鍵の表面は思ったより滑らかで、夜の部屋で触れた小さなキーボードとはまるで違っていた。広場の空気が指の間に入り込み、胸の奥まで静かに満ちていく。


最初の音を置くまでに、環は長く息を吸った。街が少しだけ遠ざかり、人の足音や車道の低い響き、葉擦れの音は消えずにひとつの背景に沈んでいった。


音は静かに始まった。


昨日まで弾いていた旋律とは違っていたし、落選した曲の断片でもなかった。もっと細く朝の湿気に溶けるような音で、強く言い切らずどこかでためらいながらも次の音を探しているようだった。


環は目を伏せた。弾き始めてしまえば、体は思ったよりも正直だった。指は迷いながらも進み、低い音の上に淡い旋律を置いていく。 風が楽譜のない空白のページをめくり、音は高層ビルの壁に当たって少し遅れて戻ってくるように聞こえた。


高層階の窓辺に景都が立っていた。カップは持っておらず、今朝は両手を空けたままガラスの向こうを見ていた。広場に環の姿を見つけた瞬間、胸の奥が強く鳴ったが、音が始まったとたんにその鼓動は静かに収まっていった。


戻ってきた。


そう思ったが、口には出さなかった。戻ってきたという表現は、自分勝手すぎる。彼女は誰かのために戻ってきたわけではないのかもしれない。しかし、その音が朝の中に生まれたという事実だけで、景都の呼吸は昨日よりも深くなった。


旋律は救いを急がず、傷を癒やすためではなく、傷があることを隠さずに歩き始めるための音だった。景都はガラスに映る自分の顔を見ずに、ただ広場の一点に耳を澄ませた。


すべては届かない。高層階まで来るころには音の細部は風や壁や街のざわめきに削られてしまうが、それでも削られたあとに残るものがある。景都はその残り方から、環という名前の輪郭を少しだけ感じた。


環は一曲を終えた。最後の音が消えた後も、指は鍵盤の上に残っていた。拍手はない。立ち止まる人もほとんどいない。けれど、今朝はそれでよかった。


自分の音がまだ鳴ることを確かめたかっただけだった。


鍵盤から手を離すと、指先がわずかに震えていた。そこで初めて、怖かったのだとわかった。弾けなくなることではなく、弾いたのに何も感じられないことが怖かったのだ。


けれど、音は胸の中に残っている。広場の空気にも少しだけ残っている気がする。


環が立ち上がろうとしたとき、背後から足音が近づいた。急ぎすぎず、ためらいすぎもしない歩幅だった。振り返る前に、あの声だとわかった。


「聴こえました」


景都は少し離れた場所で足を止めていた。近づきすぎない距離で、環はそこに彼の不器用な配慮を感じた。


「全部は聞こえなかったんじゃないですか?」


「全部ではありません」


景都は昨日と同じように答えた。


「でも、今朝の音は途中で迷っているところまで届いた気がしました」


環は思わず笑いそうになり、すぐに息を整えた。そんなところまで届かなくていい、と思うのに少しだけ嬉しかった。もし迷いごとを聞かれたのなら、それはもう隠しようがない。


「迷っている音なんて、普通はよくないです」


「そうでしょうか」


「仕事で聴くなら、もっと完成しているほうが良いと思います」


景都はすぐには答えなかった。朝の光がスーツの肩に淡く当たっている。彼の視線は鍵盤に落ち、それから環に戻った。


「完成している音がいつも心に残るとは限らないと思います」


その言葉は環の胸を静かに打った。評価の言葉でもなく、慰めでもなく、景都自身が何度も音を聴いて選んできた人の声だった。


「映画の音楽に関わっているって言っていましたよね」


「はい」


「作曲家を選ぶ仕事ですか?」


景都の表情がわずかに固まった。環はその変化を見逃さなかった。踏み込んではいけない場所に触れてしまったのかもしれないと考え、すぐに目を伏せた。


「すみません。言いたくなければ」


「言いたくないわけではありません」


景都はゆっくりと言った。


「ただ、今ここでその話をすると、あなたの音の聞こえ方が変わってしまう気がしました」


環はその言葉の意味をすぐには理解できなかったが、彼が何かを隠していることだけはわかった。それは悪意ではなく、むしろ、言うべきか言わないべきか迷っている人の沈黙だった。


「私の音を、仕事として聴いているんですか?」


問いは少しだけ鋭くなった。環は、言ったあとで自分の声に傷ついたような響きが混じっていることに気づいた。景都もそれを感じたのか目を伏せた。


「今朝は、違います」


「今朝は?」


「少なくとも、ここでは」


曖昧な答えだったけれど、嘘ではなかった。環はその曖昧さから、彼が何かを大切に扱おうとしていることを感じた。


風が広場を渡り、鍵盤の上に残っていた温度を少しずつ奪っていく。環はピアノのふたに手を置いたまま、景都を見た。名前は知らないが、もうただの通行人ではない。


「あなたの名前を、まだ聞いていません」


景都は短く息を吸った。名前を名乗るだけのことが、こんなにも重いものだとは思わなかった。彼女の名前を先に知っているという事実は、胸の奥で小さな罪悪感として存在していた。


「朝比良 景都です」


環はゆっくりその名前を受け取った。朝比良 景都。声の温度よりも後に来たその名前は、思ったよりも静かに胸に落ちた。


「八雲原 環です」


景都は知っていた名前を、初めて本人の声で聞いた。その瞬間、資料の上の文字が完全にほどけて人の名前になった。彼は表情を動かさないようにした。しかし、胸の奥では何かが深く沈んだ。


「環さん」


景都がその名を呼ぶと、環はほんの少し目を見開いた。名前を呼ばれることに慣れていないわけではないが、その声で呼ばれると音よりも先に自分自身が見つけられたような気がした。


「名前で呼ぶの、早くないですか?」


「すみません」


景都はすぐに謝った。


「今のは、少し」


「少し?」


「自然に出ました」


環は呆れたように息を吐いたが、怒っている様子はなかった。むしろ、その不器用な正直さに頬の奥が少し温かくなった。


「変な人ですね」


「昨日も言われました」


「今日も言います」


「受け止めます」


そのやりとりの後、短い沈黙が生まれた。気まずさではなく、声を重ねすぎないための間だった。環は鍵盤から手を離し、バッグの持ち手を握った。


「私、もう一回だけ応募しようと思っています」


言ってしまってから、環は自分で驚いた。誰にも話すつもりはなかった。まだ決めたばかりで、うまくいく保証などどこにもない。それなのに、景都の前では言葉が少しだけ外へ出やすくなる。


「映画のコンペですか?」


景都の声は静かだった。驚きよりも、深く受け止める響きがあった。


「はい、小さな作品ですけれど」


「小さい作品だからこそ、音が深く残ることもあります」


「そういう言い方、ずるいですね」


「ずるいですか?」


「もう少し諦めにくくなる」


環は笑わずに言った。景都はその言葉を軽く扱わなかった。自分が背中を押していい立場なのかまだ分からなかったが、目の前の人がもう一度音に向かうなら、それを止める理由はどこにもなかった。


「諦めにくくなるなら、言って良かったです」


環は返事をしなかったが、その沈黙は拒絶ではなかった。朝の空気に、さっきの旋律の余韻がまだ細く漂っているようだった。


景都は仕事に戻るため広場を離れなければならなかったが、足を動かす前に、もうひとつだけ伝えたいことがあった。職業としての立場を隠したまま応援することに後ろめたさがないわけではない。


「もし、応募するなら」


彼は言いかけて止まった。


環が見る。


「聴く人はたぶんいます」


景都は言葉を選び直した。


「少なくとも、ここにはいました」


環は息を止めた。ここにはいました。その言葉の中に昨日まで自分が一番欲しかったものがあった。それは、大きな拍手でも実績でもなく、たったひとりの耳だった。


「それ、応援ですか?」


「そう聞こえたなら、そうです」


「回りくどい」


「すみません」


環は今度は少し笑った。小さな笑みだったが、景都には十分だった。朝の広場に音とは別の温度が生まれた気がした。


景都がビルに戻ると、環はしばらくピアノのそばに残ったが、鍵盤にはもう触れなかった。しかし、弾いた後にそこへ立つ感覚は、弾く前とはまるで違っていた。


音は消えたのに、広場が少しだけ自分のものに戻っている。いや、自分だけのものではない。上のどこかで聴いている人がいて、その人は「朝比良 景都」という名前を持っていた。


環はその名前を心の中で一度だけ繰り返した。声に出すにはまだ早いけれど、忘れるにはもう遅かった。


昼に近づくにつれ、街には朝よりも人の気配が濃く漂っていた。広場を離れた環は、近くの道をゆっくりと歩いた。風は湿気を失い、石の舗装からは乾いた熱がわずかに立ち上っていた。コーヒー、土、金属の香りが、ビルの谷間で混ざり合っていた。


帰ったら作ろう、と環は思った。その瞬間、体の奥で何かが動いた。新しい曲の最初の音ではない。もっと手前の、机に向かうための小さな覚悟だった。


作れるかどうかはわからないし、選ばれるかどうかもわからない。けれど、わからないまま待つという人がいるなら、わからないまま書いてみてもいいのかもしれない。


景都は執務室に戻り、すぐに資料を開いた。机の上には、今日中に確認すべき候補曲が並んでいた。その中には、八雲原環の過去の応募音源も含まれていた。正式に候補に入れるには、手順を踏む必要があった。


彼はまだ環に、自分の具体的な役割を告げていなかった。映画制作会社の音楽部門にいることは話したが、劇伴の発注や選定に関わっていることは言わなかった。その沈黙は時間が経つほどに重みを増していた。


景都は画面の名前を見た。八雲原 環。今朝、本人の声で聞いたばかりの名前だ。資料の中にある文字は、もはや仕事の対象だけではないことを彼は認めざるを得なかった。


だからこそ、慎重でなければならない。特別に扱ってはいけない。だが、特別に感じたことまで消すことはできない。


景都は音源を再生した。昨日聴いた曲とは別の、短編映像用に提出された古いデモだった。最初の数秒で彼は目を伏せた。まだ粗い。音の処理も今ならもっと良くできるだろう、と思う部分があった。


それでも、場面の後ろに隠れている感情に手を伸ばす感覚はすでにあった。表面を飾る音ではなく、映像が口にしなかったものを拾おうとしている。景都は、その姿勢に今朝の環の横顔を思い浮かべてしまう。


彼は資料の余白に前日とは違う言葉を書いた。「未完成だが、沈黙の扱いが深い。感情を断定しない。映像の余白と相性がある」


彼はペン先を止めた。これは仕事の評価だ、と自分に言い聞かせる。今朝の会話とは切り離して考えるべきだ。


しかし、切り離せないからこそ、今の判断が本物なのかもしれないと思った。音楽はいつも完全に冷静な場所でだけ選ばれるわけではない。胸が動いた理由を言葉に変え、責任を持てる形に整えていく。それが自分の仕事だと景都は知っていた。


環は部屋に戻るとすぐに上着を脱がずに机の前に座った。外の風を持ち帰った服から広場の葉と石の匂いが微かに立ち、部屋の空気は朝よりも乾いていて、キーボードの白鍵が少しだけまぶしく見えた。


端末を開き、新しいファイルを作る。タイトルは空白のまま。名前を付けると急に曲が固まってしまいそうだった。今はまだ形になる前のものとして置いておきたい。


最初の音を探す。朝に弾いた旋律をそのまま使う気はなかった。あれは広場のための音だった。コンペに出す曲にはもっと違う呼吸が必要だ。


映画の資料には、都市の中で孤独を抱える若い人物の物語だと書かれていた。派手な事件はなく、季節の移ろいと小さな会話で心が動いていく作品だ。環は説明文を読みながら少しだけ胸がざわついた。


まるで自分の今を遠回しに差し出されているようだった。いや、そんな都合のいい偶然はない、と環は思いながらも、指はすでに鍵盤の上で短い音を探し始めていた。


最初の和音は柔らかすぎた。次は暗すぎる。環は何度か弾き直し、音を消し、また置いた。部屋の中に小さな試行錯誤が積もっていく。


午後の光がカーテンの布目を透かすころ、環はようやくひとつの短い動機を見つけた。上へ行ききれない旋律、しかし、沈み込むのではなく途中で誰かの気配に気づいて立ち止まるような音。


景都の声を思い出した。


聴く人は、たぶんいます。


その言葉をそのまま信じるのは怖いけれど、完全に疑うにはあの人の声はまっすぐすぎた。


環は録音ボタンを押した。


景都は午後の会議で候補作曲家の方向性について意見を求められていた。部屋には何人かの担当者がいたが、物語の中心に新しい人物たちの顔は必要ない。彼らは資料をめくり、映像のトーンや予算感を淡々と確認している。


景都は、自分の番が来るまで環の音源について考えていた。推すには理由が必要だ。音に惹かれただけでは足りない。映画の呼吸に合うと説明しなければならない。


「今回は、強い主題よりも場面の温度を保つ音が必要だと思います」


景都は静かに話し始めた。


「感情を先回りしない作曲家がいい。観客に泣く場所を指示するのではなく、後から残る余韻を作れる人です」


言葉にしながら、彼は朝の広場を思い浮かべた。弾く前に迷っていた環の指、そして、音が始まった瞬間の空気の変化。あれは感情を押しつける音ではなかった。


資料の上に八雲原 環の名前を出すかどうか、まだ少し迷うが、迷ったまま黙ってしまえばそれこそ見落としになってしまう。


景都は息を整えた。


「ひとり、候補に加えたい作曲家がいます」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥に責任の重さが落ちた。これは応援ではない。仕事として提案するのだ。そう自分に言い聞かせても、朝の会話が指先に残っている。


八雲原 環の音を仕事の場へ持ち込むことの意味を、景都は軽く扱わないと決めた。


環は夕方まで作業を続けた。音は少しずつ形になっていくが、完成にはほど遠い。旋律の入口は見つかったが、中盤に入ると急に説明的になり、感情を言い過ぎている気がして何度も消した。


窓の外では街の色が少しずつ傾き、建物の影が伸びていた。遠くの道路を走る車の音は昼よりも低くまとまって聞こえ、部屋の中には同じ数秒の旋律が何度も行き来していた。


環は背もたれに体を預け、目を閉じた。作れないわけではない。けれど、作りたいものに近づくほどどこかで怖くなる。もし本気で作ってまた届かなかったら今度こそ何を支えにすればいいのか。


その問いは重かったが、今朝の音はすでに鳴ってしまったし、景都に聞こえたと言われてしまった。待っている人がいるかもしれない朝を、知らないふりには戻れない。


環は立ち上がり、窓を開けた。夕方の風が部屋に入り、こもった音の熱を少し冷ました。外から人の声が細く届き、近くの道を走る車の振動が床に淡く伝わった。


この音を、ちゃんと映画の中へ連れていきたい。


初めて、そう思った。


景都は会議の後、窓辺ではなく静かな通路に立っていた。提案はすぐに決まるものではない。候補に加えることはできたが、そこから先は音源を聴いた上で判断される。彼ひとりの思いで決まるほど簡単ではない。


それでいい。むしろそのほうがよい。公平な場所に出して、それでも残る音でなければ意味がない。


しかし、心のどこかでは環の音が誰かに届いてほしいと願っていた。願うことと判断を歪めることは違う、と景都は自分に言い聞かせる。だが、その境目はいつも紙一重だった。


景都はスマートフォンを取り出しかけたが、すぐにしまった。環の連絡先は聞いていないし、聞くべきでもなかった。まだ今は朝の広場で会うだけの距離を壊したくなかった。


それでも、伝えたいことは増えていく。


「候補に入れました。


あなたの音を聴きました。


もう一度、書いてください。


どれも言えない。言えないから、景都は通路の窓から暮れていく空を見た。街の色が少しずつ深くなり、ガラスの向こうで広場の灯りがひとつずつ目立ち始めた。


環は夜になる前に短いデモを一度だけ書き出した。完成版にはほど遠いが、提出する曲の核になるかもしれないものだった。しかし、ファイル名を入れる欄で手が止まった。


名前を付けるのが怖い。名前を付けた瞬間、それは自分の外へ出ていく準備を始める。誰かに聴かれるものになり、選ばれるか選ばれないかの場所へ向かう。


環はしばらく考えた後、仮の名前を入れた。「朝の残響」。少しありきたりだと思ったが、今の自分にはそれ以上に正直な言葉が見つからなかった。


保存すると胸の奥が小さく鳴り、曲がひとつ自分の中だけのものではなくなった気がした。


部屋の外はすでに夜に近づいており、環は迷った末に上着を羽織った。広場へ行く理由はあるようでない。朝に弾いたから、もういいとも思える。しかし、景都がいるかもしれない高層階を今夜は見上げたかった。


街へ出ると、空気は昼よりも冷えていた。まだ舗装には熱の名残があり、靴底からほんのりと温度が伝わってくる。ビルの隙間を通り抜ける風には、飲食店の湯気と植栽の青々とした香りが混じっていた。


環は中央広場に向かった。朝とは違い、歩く速度はゆっくりだった。急ぐ理由はない。むしろ、少し遅れて着きたかった。誰かに会いたい気持ちと、会ったら何を話せばいいか分からない気持ちが同じ歩幅で胸の中に並んでいた。


広場には夜の灯りが落ちていた。ピアノの黒い表面には周囲の光が細く映り込み、鍵盤の白は昼よりも柔らかく浮かんでいた。人の流れは少なく、声も足音も少し遠く感じられた。


環は椅子に座らなかった。今朝弾いた場所の前に立ち、ただ鍵盤を見た。そこには朝の音の残り香などないはずなのに、指先は覚えている。


高層階では景都が広場を見下ろしていた。今日の会議の後、何度も資料を見返した。八雲原環という名前を候補に入れたことに後悔はないが、そのことを本人には言えないまま夜を迎えていた。


環が広場に現れたとき、景都はすぐに気づいた。距離のせいで表情は見えないが、立ち方からわかった。音の前で迷う人の姿は、朝よりも少しだけ落ち着いているように見えた。


景都は窓に近づき、ガラスに映る室内の明かりと外の景色に自分の顔が重なるのを見た。彼は照明を少し落とし、広場が先ほどのよりもくっきりと見えるようにした。


環は高層ビルを見上げた。窓は無数に光り、景都がどこにいるかはわからない。けれど、どこかにいるかもしれないというだけで胸の中に灯りがひとつ増えるのを感じた。


景都は、見上げられた気がした。実際には目が合うはずもないが、環の顔が夜のガラスに向いた瞬間、朝に交わした言葉が彼の中で静かに響いた。


また、朝に。


その約束にも満たない言葉が夜になってもまだ消えていない。


環は鍵盤に一度だけ触れた。音は鳴らさない。今日はもう弾かないと決めていた。今朝の一曲と部屋で作り始めたデモだけで胸は十分に揺れている。


しかし、触れるだけでわかる。まだ終わっていないのだ。音楽も夢も、そして朝に名前を知った人との距離も、どれもまだ形になっていない。だからこそ恐ろしいし、だからこそ離れられないのだ。


「もう一回だけ、やってみます」


夜の広場に向けた声だった。誰かに聞かせるには小さすぎる声だが、自分にだけ言うには少し外へ出す必要があった。


高層階までその声は届かない。景都には、環が何かをつぶやいたことしか見えなかったが、その横顔の角度から、何かが決まったのだと感じた。


彼は窓の前でゆっくり息を吐き、応援したいと思った。仕事としてではなく、ただ朝の音を待ってしまうひとりの人間として。


しかし、今の自分にできる応援は言葉をかけることではなく、彼女の音を正しく聞き、必要な場所へ届けるために手順を踏むこと、近づきたい気持ちを近づきすぎない形に変えることだった。


景都は机に戻り、候補資料をもう一度開いた。八雲原 環の名前の横に追加で短いメモを入れた。「新規デモがあれば確認したい」「映像の余白に寄り添う可能性あり」


それは仕事の文章だったが、その行間には朝の声が隠れていた。


環は広場を離れた。夜風が頬を撫で、建物の明かりが舗装の上に淡く伸びていた。足元に落ちる自分の影は朝よりも短かったが、濃かった。


帰ったら続きを書こう、と彼女は思った。夜の部屋で広場の空気を思い出しながら映画の中へ入る音を探す。落選の痛みは消えないが、痛みの上からしか書けない音もある。


環は歩きながら、朝比良景都という名前を心の中で呼んだ。声には出さない。まだ出せない。けれど、その名前は今日作り始めた旋律のどこかに薄く混ざってしまっていた。


それを恋と呼ぶには早すぎるし、憧れと呼ぶのにも違う。ただ、音を待つ人がいるかもしれない朝を知ってしまった今、もう元には戻れない。


部屋に戻ると、暗がりの中で机の上のキーボードが待っていた。環は明かりをつけて端末を開く。朝の残響という仮の名が画面の端に小さく表示された。


指を置く。今度は迷いながらでも鳴らすために。


最初の音は夜に似ていた。沈み込むのではなく、灯りの下でゆっくり息をする音だった。環はそこへ朝の旋律を少しだけ重ね、不要な説明を削り、言えなかった言葉の隙間を残した。


音楽が戻ってくる。劇的ではない。救われたともまだ言えない。ただ、机の前に座る自分の背中を少しだけ前へ押すくらいの力だ。


それで十分だった。


高層階では景都が夜遅くまで資料を整えていた。画面の明かりが彼の指先を白く照らしている。候補として提案した以上、これからはさらに慎重になる必要がある。


彼女に言えないことが増えていくが、言えないまま守るべきものもある。景都はその矛盾を抱えたまま、もう一度だけ環の音源を聴いた。


夜の向こうの同じ東京のどこかで、今まさに新しい曲を書いている人がいるかもしれない、という想像だけで、景都の胸は静かに熱くなった。


窓の外では街灯の光が濃くなり、広場のピアノは眠るように沈黙している。音はしないが、今日の無音は昨日までの喪失感とは違っていた。


明日の朝、また何かが始まるかもしれない。


環の部屋では短い旋律が何度も生まれては消えていた。景都の高層階の提出資料の行間には、ひとつの名前が残っていた。ガラスと夜と距離を挟んで、まだ触れられない思いだけが同じ都市の空気の中でゆっくりと近づいていく。


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