第3章:触れない距離
朝の部屋には雨ではない湿り気が残っていた。窓の外は白く曇っているのに空気の奥にはかすかな熱があり、ガラスの縁に指を置くと夜のうちに閉じ込められた街の息が薄く伝わってきた。環は机の前に座って鍵盤ではなく閉じた端末の黒い面を見つめていた。
昨日の夜、広場でこぼした言葉は思い出すだけで胸の奥が熱くなる。「誰か一人でよかったのに」と言ってしまった。誰にも聞かれていないはずなのに、声にした瞬間その言葉は自分のものではなくどこかへ渡ってしまった気がした。
環は指先で机をなぞった。白鍵の幅をまねるように、親指から小指まで少しずつ開いていく。音は鳴らないが、指の腹には夜の広場の冷たさがまだ残っていた。
「今日も、弾かない」
そう言ってからすぐに、それは違うと思った。弾かないのではなく、弾けないのだ。自分で決めた沈黙のはずなのに、そこに閉じ込められているような気がして、環は軽く唇を噛んだ。
朝の支度は静かに進んだ。鏡の前で髪を整え、薄い上着を羽織り、バッグに端末を入れる。楽譜のデータを持っていかない選択もできたのに、手はいつものようにそれを確かめていた。
部屋を出る前、環は小さなキーボードを振り返った。光の弱い部屋の中で鍵盤だけが白く浮かび上がっている。触れないまま離れるたびに、自分の一部を置き去りにしているようで少し息が詰まった。
景都の朝は、広場ではなく画面の中の名前から始まった。「八雲原 環」。昨夜から何度も開いた資料の文字は、朝の光の中でもまだ新しい傷のように目に残る。彼は出社前の部屋でコーヒーを冷ましていた。
音源をもう一度聴くべきか迷った。仕事としてなら、朝から個人的な感覚を持ち込むのはよくない。けれど、あの曲は昨日のうちに仕事の外側へ少しだけのはみ出し方をしていた。
景都はヘッドホンを手に取ったが耳には当てず、代わりに端末の画面を伏せた。聴けばまた広場に立つあの人影を思い出す。名前を知ってしまった以上、もうただの演奏者としては考えられない。
「落ち着け」
自分へ向けた声は思ったより硬かった。落ち着くべき理由はある。音楽プロデューサーとして誰かの才能を公平に扱わなければならないからだ。しかし、公平であろうとすればするほど、昨日の音だけが胸の中で少しずつ特別な場所を占めていく。
空は明るさを増し、カーテンの隙間から差し込む光が床に淡い線を引いていた。景都は、その線を見つめながらまだ会ったことのない相手の指先を想像した。
環は麻布台へ向かう道をいつもよりゆっくり歩いた。朝の街にはまだ舗装の匂いが薄く漂い、ビルの足元にたまった風が人の流れをそっと押し分けていた。どこかの店から漂う焼けた粉の香りと、通り過ぎる靴音が湿った空気に柔らかく沈んでいた。
中央広場へ向かわないつもりだった。そう思っていたのに、歩き慣れた角を曲がると、体は自然にそちらを選んでしまう。心よりも先に、街が道を覚えているのだ。
広場が見えた瞬間、環は足を止めた。ピアノは今日もそこにあった。黒い面が曇り空の光を受け止め、鍵盤の白さは遠目にもひどく静かだった。
誰も座っていない。誰も弾いていない。その光景に安心するのはおかしいと思ったが、もし誰かが代わりに弾いていたら自分はきっともっと傷ついていただろう。
景都は出社すると、高層階へ直行しなかった。エレベーターの前で一度立ち止まり、上へ行く人の流れを見送る。朝の広場へ降りる理由は、今日もどこにもなかった。仕事前にわざわざ下へ向かうほどの用事はない。
それなのに足は下に向かっていた。自分でも呆れるほど不器用な選択だった。理由を探す前に体がもう決めている。
広場へ続く通路には外気の湿気がわずかに混じっていた。床の石は磨かれているのに雨上がりにも似た温度を含んでおり、景都は歩きながら昨日聴いた曲の最初の音を思い出した。
あの音は、深く沈むのではなく、沈みかけた場所へ手を差し出すようにして始まった。救いと言い切るには静かで、痛みと言い切るにはどこかあたたかい。言葉にしようとすると、いつも少し逃げていく。
広場に出ると、風が頬をかすめた。景都はピアノの方に視線を向けた。そして、少し離れた場所に立つ人影に気づいた。
環はピアノを見ていた。昨日の夜と同じように、触れられる距離から少しだけ離れた場所に立ち、近づくことも去ることも決めきれずにいる。景都は足を止めた。
顔はまだはっきりと見えないが、胸の奥がすでに知っていた。あの曲の余白を作った人だと。
環は誰かの視線に気づいたわけではなく、ただ朝の広場の空気が少し変わった気がしてゆっくり顔を上げた。すると、高層ビルの入口近くにスーツ姿の青年が立っていた。
見知らぬ人だったけれど、ただ通り過ぎる人の立ち方ではなかった。こちらを見るでもなく、ピアノを見るでもなく、その間にある沈黙を確かめているように見えた。
環は視線をそらすべきだと思った。見られて困ることをしているわけではない。それでも、弾けない自分を見つけられたような気がして、胸の奥が小さくこわばる。
景都は一歩だけ近づいた。突然声をかけるべきではない、と考える一方で、今ここで何も言わなければまた見失うような気がした。自然な会話のきっかけになる言葉は、どこにも落ちていない。
風が植栽を揺らし、葉擦れの音が入り込んだ。車道の響きが遠くから聞こえ、ビルの壁に当たって柔らかく戻ってくる。東京の朝は騒がしいはずなのに、その瞬間だけ広場の中心に小さな空白があった。
景都は、その空白へ声を置いた。
「今朝も、音がないんですね」
環はすぐには答えられなかった。言葉の意味よりも先に、その声の温度が耳に残った。責めるような響きではなく、残念がるよりも確かめるような、少しだけ寂しさを含んだ言い方だった。
「……待っていたんですか?」
問い返してから、環はしまったと思った。見知らぬ相手に向けるには少し近すぎる言葉だったが、もう取り消すことはできない。
景都は静かに目を伏せてから、広場のピアノに視線を移した。答えを急がない人の沈黙だった。その間、環は自分の呼吸が少し乱れていることに気づいた。
「待っていたというほど大げさではないと思っていました」
景都の声は低く、朝の空気の中で余韻を残した。
「でも、聞こえないと気になるくらいには毎朝聴いていました」
環は胸の奥を指先で押されたような気がした。誰か一人でいい、待っていてほしかった。昨夜こぼした言葉が遠回りをして、目の前に返ってきたようだった。
「私の音だと、どうして?」
と言いかけて、環は言葉を止めた。まだ自分が演奏者だとは言っていなかったし、相手も確かめてはいない。けれど、もう隠しきれていない気もした。
景都は環の表情を見た。初めてきちんと見る顔だった。朝の光のせいで輪郭は柔らかく、しかし、目の奥には何かを手放そうとしても手放せない人の、静かな強さがあった。
「違っていたら、すみません」
景都は言った。
「でも、ピアノを見ているときの表情が、ただ通り過ぎる人とは違っていたので」
環は返事を探した。表情という隠しているつもりのものを見られたことに戸惑うが、怒るほどではない。しかし、平気なふりをするには言葉が少し深く届きすぎていた。
「見ていただけです」
「はい」
「弾いていません」
「それも、見ていました」
その返事に環は思わず相手を見た。景都はすぐに言い訳をせず、変に距離を詰めようともせずにただこちらの言葉が落ちる場所を待っていた。その静けさは少し怖かったが、同時に少しも楽だった。
「弾けない日もあります」
環の声は、自分が思っていたよりも細かった。
「そういう日は、誰にも気づかれないほうが良いんです」
景都はすぐに答えなかった。風は、互いの呼吸が届く距離を静かに通り抜けていった。環は、その沈黙に身構えたが、返ってきた言葉は思いがけず穏やかなものだった。
「気づかれないほうが楽なことはありますね」
その言い方に環は少しだけ肩の力を抜いた。同情でもなく、慰めでもなく、ただ自分の中にも似た感情がある人の声だった。
「音楽の仕事をされているんですか?」
環は尋ねた後でまた少し後悔した。踏み込みすぎたかもしれない、と。しかし、景都の言葉にはただの通行人ではない耳の使い方が感じられた。
景都は短く迷った。自分の職業を言えば相手の態度が変わるかもしれないし、音楽を選ぶ立場だと知られた瞬間、今の会話は別の意味を帯びてしまう。
「映画の音楽に関わる仕事をしています」
それ以上は言わなかった。発注や選定という言葉は、まだここへ置くには硬すぎる気がした。 環は少し驚いたように目を動かし、それからピアノへ視線を戻した。
「映画、ですか?」
その声の中に隠しきれない揺れがあり、景都はそれを聞き逃さなかったが、あえて追及することはなかった。今にも崩れそうなものを壊してしまう気がしたのだ。
「映画音楽、好きなんですか?」
「好き、というより」
環は言葉を選んだ。話す前に一度だけ相手の目を見る癖がある。景都の視線は急かさず、逃げず、こちらの沈黙ごと受け止めている。
「そこに映っていない感情を、少しだけ照らせる気がして」
と言ってから、環は目を逸らした。自分の本音に近い言葉を、見知らぬ人へ言ってしまったことが恥ずかしかった。しかし、景都は軽くうなずいただけだった。
「わかる気がします」
「本当に?」
問いには少しだけ棘が混じっていた。環自身もそれに気づいた。好きなものの話になると、どうしても慎重になる。誰かに簡単にわかると言われるのが怖い。
景都はすぐに訂正した。
「わかる、というのは少し違いました」
彼は言葉を探すように一度だけ、広場の床に視線を落とした。
「そういう音を、探しています。作ることはできませんが」
環はその言葉を聞いて相手の手を見た。細く整った指先。鍵盤を弾く手ではなく、紙や資料を扱うことに慣れた手に見えたが、その手も何かを選ぶたびに別の何かを取り落としてきたのかもしれない。
「作れないことは悪いことじゃないと思います」
環は思わずそう言っていた。
景都が顔を上げた。
「音をちゃんと聴く人がいなかったら、たぶん音は、どこにも行けないので」
環は、自分の声が少し震えていることに気づいた。これは相手に向けた言葉のようで、本当は自分に向けた言葉だったのかもしれない。
景都は、その言葉を胸のどこかで静かに受け止めた。「あなたの音を聴いていた」と言いたかったが、それを言えばまだ名乗ってもいない関係に余計な重さを置いてしまう。
「そう言ってもらえると、少し救われます」
景都はそれだけを言った。
環は小さく笑った。笑おうとしたというより、息が少し柔らかくなった結果、表情がそうなっただけだった。景都はそのわずかな変化から目をそらすのが少し遅れた。
広場の空気が動き始めた。人の流れが増え、朝の静けさが少しずつ解けていく。ピアノの前を通る何人かの人が視線を向けるが、足を止める人はいない。
環はバッグの持ち手を握り直した。
「仕事、行かなくていいんですか?」
「行かないといけません」
「なら、行った方がいいですよ」
「そうですね」
会話はそこで終わってもよかったが、終わらせたくない気配が薄い糸のように残った。景都も環もそれを口にすることはなかった。
「明日は、弾きますか?」
景都の問いは静かだった。期待を押しつける響きではないが、待っていることを隠しきれない声音だった。
環は鍵盤を見た。朝の光が、白い部分を淡く浮かび上がらせていた。弾くと約束すれば、また自分を縛り付けてしまう。弾かないと言えば、目の前の声を少しだけ傷つけてしまう気がした。
「わかりません」
正直な答えだった。
景都はうなずいた。
「では、わからないまま待っています」
環は返す言葉を失った。そんな風に待ってほしいと言われたのは初めてだった。約束を求めず、結果も急がず、ただ余白ごと置いておくような言い方だった。
胸の中で昨日まで凍っていた何かが、少しだけ動き出した。
「変な人ですね」
環は言った。
景都はわずかに目を細めた。
「よく言われます」
「本当に?」
「いえ、あまり言われません」
その答えが少しだけ不器用で、環は今度こそ小さく笑った。笑い声は風に溶けるほど短かったが、景都にははっきりと届いた。
名前を聞くべきだろうか、と景都は思った。けれど、自分はもう名前を知っている。資料の中で先に知ってしまったことを、この場でどう扱えばいいのかわからなかった。
環もまた、名乗らないまま会話が進んでいることに気づいていた。普通なら最初に交わすはずの名前のやりとりを飛ばして、音の話をしている。それが少し不自然ではあったが、不思議と嫌ではなかった。
「あなたは」
環が言いかけた。
景都は待った。
「毎朝、上から聞いていたんですか?」
名前ではなく別の問いが投げかけられ、環は自分でも少し驚いた。聞きたかったのはたぶんそちらで、どこの誰かよりも、どんなふうに聞いていたのかを知りたかったのだ。
「はい」
景都は答えた。
「窓辺でコーヒーを持って、仕事を始める前に」
環の中に、見たことのない景色が生まれた。高層階の窓、遠いガラス、そしてそこから広場を見下ろす誰か。自分の音はあんなに高い場所まで届いていたのだろうか。
「聞こえるんですか、あそこまで」
「全部ではありません」
景都は正直に答えた。
「でも、全部聞こえないから、残るものもあります」
その言葉は、環の胸に深く響いた。音が届ききらない場所でも、何かが残っていたのだ。自分が誰にも待たれていないと思っていた朝、ガラスの向こうで誰かが耳を澄ませていた。
環は目を伏せた。泣きたくはなかった。泣くにはまだ早いし、相手の前で泣く理由としては説明のしようがない。しかし、目の奥が少し熱くなった。
「それなら」
環は言った。
「昨日、弾かなくてすみませんでした」
景都はすぐに首を振った。
「謝ることではないです」
「でも」
「音を待っていたのはこちらの勝手なので」
その言い方が環には少し切なかった。勝手に待つ、勝手に寂しくなる、勝手に救われる。人の心は案外、そういう身勝手な優しさでできているのかもしれない。
景都は時計を見なかったが、背後の人の流れとビルへ吸い込まれていく靴音の速さから、仕事に戻る時間が近づいていることはわかっていた。ここに長くいるほど、言えないことが増えていく。
「そろそろ行きます」
「はい」
「また」
景都はそこで言葉を止めた。また、何なのか。会えるのか、聴けるのか、待つのか。どれもまだ名前を持たない。
環はその続きを急かさなかった。
「また、朝に」
そう言ったのは景都だった。環は驚いて彼を見た。朝という言葉が急に、誰かと共有する場所になった気がした。
「……はい」
環の返事は小さかったが、景都には十分だった。
景都がビルへ戻っていく。環はその背中を見送った。スーツの肩先に朝の光が薄く乗り、入口の影へ入る直前に彼が一度だけ振り返るのではないかと思った。
振り返らなかった。だからよかった。もし振り返っていたら、自分がまだそこに立っていることがバレてしまう。
環はしばらく動けなかった。広場の音が戻ってくる。人の声、風の擦れる気配、遠い車体の振動。けれど、その中にさっきの声だけがまだ残っている。
わからないまま待っています。
そんな言葉を、どう受け止めればいいのだろう。
昼に向かう光が広場の色を少しずつ変えていくころ、環はピアノの前に近づいた。座るつもりはなかったが、足は椅子の横で止まった。鍵盤の白さが朝よりも少しまぶしく感じられた。
指を置けば鳴る。鳴れば上へ届くかもしれないし、届かないかもしれない。それでももう、誰にも待たれていないとは言えなかった。
環は鍵盤に触れなかったが、今日は逃げるようにその場を離れることもなかった。ただそこに立ち、音が始まる前の場所を見つめた。
景都は執務室に戻ると、窓辺ではなく机に向かった。仕事をしなければならない。しかし、手元の資料を開いても、広場で交わした短い会話が頭から離れない。
「弾けない日もあります」
その声は資料よりも鮮明だった。景都はペンを持ち、作曲家候補の欄に目を通した。八雲原 環の名前を正式に候補に入れるべきかどうか。仕事として判断しようと思えば思うほど、さっきの表情が邪魔をする。
「邪魔」という表現は適切ではないかもしれない。むしろ、あの表情があったからこそ、音の輪郭が見えた気がした。音源だけではわからない迷い、曲の奥にある諦めきれない人の呼吸。
景都は資料の余白に小さく「沈黙を壊さない音、言い切らない強さ」と書いた。
その言葉を書いた瞬間、胸の中で何かが定まった。
環は午後に仕事用の短い楽曲の修正作業に向かっていた。映像の尺に合わせて数秒だけ音を削り、低音の位置を変える。作業は淡々としているのに、朝の会話が何度も手を止めさせた。
「全部ではありません。でも、全部聞こえないから、残るものもあります。」
あの言葉が妙に耳に残る。作曲家としてなら全部届かないことは不完全さのように感じるが、彼はそれを欠けたものとは捉えていなかった。
環は作業を止め、窓を少し開けた。外から湿った風が入り、部屋の中のこもった熱を押し流した。遠くの車の音、どこかで閉まる扉、隣室からかすかに漏れる生活の気配。音楽ではない音が部屋を満たしていった。
その中に、広場の朝が混ざっていた。
彼の名前を聞かなかったことに気づいたのは、午後の光が傾き始めたころだった。聞く機会はあった。むしろ普通なら聞いているはずなのに、なぜか名前より先に声の温度だけを覚えてしまった。
環は椅子の背もたれに体を預け、目を閉じた。名前を知らない相手のほうが心に残ることもある。名前を知れば説明できる気がするが、説明できないまま残るもののほうが長く胸の奥に居座る。
景都もまた午後の間ずっと、名乗らなかったことを考えていた。自分は相手の名前を知っているが、相手は知らない。その非対称さが思っていた以上に苦かった。
正体を隠したかったわけではないが、音楽の選定に関わる立場だと告げた瞬間、朝の会話が仕事の気配を帯びることを恐れた。待っていたという言葉まで何かの評価のように聞こえてしまうかもしれない、と。
それだけは嫌だった。
景都は夕方の会議を終え、誰もいない廊下で立ち止まった。足元に落ちる照明の輪が少しずつ等間隔に続いていた。高層階の空気は整いすぎていて、感情を置く場所が少ない。
彼は窓の方へ歩みを進めた。外はすでに柔らかい色を失い始め、ビルの隙間から夜が降りてきていた。広場を見下ろすと、ピアノの周りに夕方の影が集まりかけていた。
環はまだ来ていなかった。
来ると思っている自分に景都は気づいた。朝だけではない。夜にもあの場所に戻るのではないかと、勝手に思っているのだ。そんな期待を持つ権利は、どこにもないのに。
それでも、待ってしまう。
環は夕方仕事を終えた後も部屋にいて、端末の画面には修正済みの楽曲データが表示されていた。納品のための音は整えられ、依頼された映像に合わせて必要な場所に必要な分だけ置かれていた。
しかし、自分のための音は、まだどこにも置かれていなかった。
外の空気が少し冷え始めるころ、環は上着を手に取った。広場へ行く理由はない。弾く約束もしていない。けれど、朝、彼が言った「また」という言葉が胸のどこかに、小さな灯りのように残っていた。
また、朝に。
朝ではない。今はもう夕方から夜へ向かう時間だ。それでも環は広場へ向かった。自分の中で終わりにしたはずの場所へ今日も戻ってしまう。
道の途中、街は昼と夜の境目であり、少しだけ湿った匂いが立ち込めていた。ビルの谷間を風が通り抜け、看板のないガラス面に人の影が淡く流れていた。地下から上がってくる空気には、金属と雨の名残に似た匂いが混じっていた。
環は歩きながら彼の顔を思い出そうとした。落ち着いた声、言葉を急がない呼吸、そして「見ていました」と言うときの少し申し訳なさそうな目。
名前は知らないのに、その人が今どこにいるのか考えてしまう。高層階の窓辺だろうか。まだ仕事をしているのだろうか。そんな想像をしてしまう自分に、環は少し戸惑った。
恋ではない、と環は言い切ろうとしたが、そう言い切る必要があること自体に嫌気がさした。
広場に着くころには、灯りが舗装の上に淡くにじんでいた。朝とは違い、人の流れはゆるく、会話の声も少し低かった。夜の空気の中で静かに佇むピアノは、誰かの指を待っているようにも、誰のものにもならないようにも見えた。
環は椅子の前に立った。朝よりも迷いは少なかったが、座るにはまだ何かが足りない。勇気なのか諦めなのか、自分でもよく分からなかった。
高層階の窓辺で景都は、その姿を見つけた。胸が静かに鳴る。「来た」と思った。来るはずがないと思いながら、来ることを待っていた自分がいた。
景都は窓に近づき、ガラスに自分の顔が重なって外の景色が少し見えにくくなった。彼は照明を落とすこともできず、ただその場に立ち尽くした。
環は鍵盤のふたに触れた。軽く、確かめるだけの手つきだった。音は鳴らない。けれど、その動きだけで景都の喉の奥が熱くなった。
弾くのだろうか。
弾かないのだろうか。
どちらでもいい、と景都は思った。いや、正確には弾いてほしい。けれど、弾かないなら弾かないままでも、その人がそこに立っているだけで、今夜の広場は昨日と違って見えた。
環は椅子に座らなかった。代わりに、鍵盤の端に指先を置き、すぐに離した。触れたかどうかも分からないほど短い時間だったが、指が触れた場所だけ夜の光が少し動いたように見えた。
朝の彼に届く音はないが、彼がどこかで待っているかもしれないと思うだけで沈黙の質が変わる。誰にも待たれていない沈黙と誰かが待っているかもしれない沈黙は似ているようで、まるで違う。
環は小さく息を吸った。
音は鳴らなかった。
それでも胸の中で、旋律の入口だけが開いた。
景都は窓越しにそのわずかな動きを見ていた。音は届かない。何も聞こえない。しかし、聞こえないことが今夜は苦痛ではなかった。彼女が音の手前に立っている、そのことだけが不思議なほどはっきりと伝わってきた。
景都は胸の中で、朝に言えなかった言葉をもう一度浮かべた。
「あなたの音がない朝は、思っていたよりずっと寂しかった」。
まだ言えない。言うには早すぎる。けれど、その言葉はもう彼の中で、消えない場所に移っていた。
環はやがてピアノから手を離した。今日は弾かなかったが、逃げなかった。指先には鍵盤の冷たさがほんの少し残っており、それが体の奥へ細い灯りのように沈んでいく。
明日なら、弾けるだろうか。
答えはまだない。けれど、問いの形は昨日よりも柔らかかった。
夜の広場を離れる前、環はふと高層ビルを見上げた。無数の窓が光っていて、どこに誰がいるのかはわからない。けれど、そのどこかに朝の声を聞いた人がいるかもしれないと思うと、ガラス越しに感じる距離が少しだけ違って見えた。
景都は、見上げられた気がした。実際には目が合っていない。距離も高さも、ありすぎるほどだ。しかし、環の顔がわずかに上を向いた瞬間、彼の胸は静かに打たれた。
ガラスを隔てた視線は届いたのか届かなかったのかわからないが、わからないからこそ長く残る。
環はすぐに視線を戻して広場を出て行った。景都は、その背中が見えなくなるまで立っていた。夜のビルには室内の明かりが映り込み、自分の表情だけが少し遅れて返ってくる。
明日、彼女は弾くだろうか。
明日、自分はまた待つのだろうか。
問いはどちらも、もう答えを半分含んでいた。
環の帰り道には夜の湿気が薄く漂っていた。まだ昼の熱を完全に手放していない舗装から、靴底に微かな温度が伝わってくる。遠くでは車が流れ、建物の横から白くもない息のような空調の排気が吐き出されている。
胸の中には鳴らなかった旋律があったが、それは昨日までの沈黙とは違っていた。誰かに待たれているかもしれないという頼りない気配が、なぜか今夜は消えずに残っていた。
環は歩きながら、朝の声を思い出した。「わからないまま待っています」と。変な人だと思った。けれど、あの変さに少し救われたことも、もう否定できなかった。
部屋に戻ると、暗がりの中で机の上のキーボードが静かに待っていた。環は明かりをつける前にその前に座った。夜の広場から持ち帰った冷たさがまだ指先に残っている。
一音だけ鳴らす。
そう決めたわけではないが、指は自然に鍵盤へ下りた。低すぎず高すぎず、部屋の空気にそっと溶け込むような音。その音が鳴った瞬間、朝の広場とガラスの高層階、そして名前を知らない声が、一本の線でつながった気がした。
環はその音を長く聴いた。
終わりにすると決めたはずのものが静かに戻ってくる。戻ってきたことを今日は少しだけ許せる気がした。
夜が深まり、東京の音が窓の向こうで低く溶けていく。環は鍵盤から手を離し、指先を胸元へ近づけた。そこにはまだ触れたばかりの音の温度が残っていた。
名前より先に、声が残った。
名前より先に、「待つ」という言葉が残った。
そして、名前よりも先に、明日の朝が少しだけ怖く、少しだけ待ち遠しく感じられていた。




