第三話 幽玄の断絶(下編)
1. 握りしめられた絶望
「証拠なんて最初からなかったんだ。……ハッタリだ、すべては!」
輝明の叫びが、能楽堂の天井に反響し、幾重にも重なって彼を責め立てる。井森は困ったように眉を下げ、鑑識に預けていた家元の扇子を、さながら聖遺物のように慎重に提示した。
「輝明さん。お父様が薬を蹴り飛ばされたあの瞬間。お父様が抱いた絶望、そしてあなたへの怒りが、この扇子に刻まれていました。……あなたの理屈では説明できない、肉体の記憶です」
井森は、ルーペ越しに扇子の竹の骨を指し示した。そこには、不自然なひび割れと、内側へと鋭く抉れたような湾曲があった。
「能楽師にとって扇子は命。それを、ここまで壊れるほど握りしめることは、常軌を逸している。……法医学で言う『死体痙攣』。極限の精神状態で亡くなる際、筋肉は生前を凌駕する怪力で物を握りしめ、そのまま固まることがあるんです」
2. 芸の重み、血の重み
「あなたが家元のそばに寄り、冷たく死を見届けようとしたその刹那、ひび割れた竹の骨が、あなたの衣服の繊維を貪欲に喰い込んだ。さらに、この扇子の握り跡……。お父様の成分の下から、あなたの『皮脂』が、暴力的な圧力によって繊維の奥深くまで押し込まれている。お父様が死の瞬間に固く閉ざした扉を、あなたは無理やりこじ開けようとした……その証拠だ」
輝明の顔から、人間らしい色彩が完全に剥げ落ちた。
「そんな……父上が、これほどの力で……」
「ええ。あなたが華やかな偽りの夢を演じていた時、お父様はこの扇子と共に、地獄の底からあなたを告発していた。……そして、その『違和感』を最初に見抜いたのは、あなたが蔑んでいた芳春さんでした。彼は言った。『輝明さんの型は美しいが、この扇子の持ち方は……あまりにも醜い』とね」
3. 幕引き
輝明は、自分の震える両手を見つめた。その指先には、もはやどんな栄光も掴み取る力は残っていない。外からはパトカーの赤色灯が、檜の舞台を赤黒い血の池のように染め上げていた。彼は、抵抗することさえ忘れ、静かに闇へと連行されていった。
数日後。
井森は、一人能楽堂の客席に佇んでいた。
舞台の上では、新しく家元を継ぐことになった芳春が、何もない空間を相手に、静かに、しかし力強く謡を刻んでいた。その声は、かつての源三郎のように、重厚で、曇りがない。
「……いい声だなぁ」
井森はコートのポケットから、古びた扇子を不器用に、しかしどこか慈しむように広げた。
「パチン」
その乾いた音が、静寂に波紋を広げる。
「いやぁ、私には、能なんて高尚なものはやっぱり……。さて、目黒のどこかで、不格好なラーメンでも食べて帰りますかね」
井森はコートの襟を立て、鏡板の松に背を向けた。
その足取りはドタドタと不格好であったが、檜の床を踏みしめるその一歩一歩が、迷宮の幕を引く、確かな足音であった。




