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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第四話 饗宴の死角 (上編)

一 死体は笑わない

冷たい、とフランシス・ウェルズが書いている。死体はつねに冷たい。それは生者の温もりを奪われた後に訪れる、静謐な事実だ。

だが、井森敬一(45)が対面したそれは、冷たさの意味が根本から違った。

午前八時二十分。東京・港区、ベイエリアを望む四十二階建てタワーマンション最上階の一室。キッチン・スタジオと呼ぶのが正確な、その空間に踏み込んだ瞬間、井森は足を止めた。

広さはおよそ五十平米。ステンレスの調理台が三列、業務用の冷蔵庫が四台、天井から吊り下げられた銅製の鍋が整然と並ぶ。どこもかしこも磨き上げられ、外科手術室のように清潔だった。香辛料の香りすら残っていない。まるで、人間の気配だけを丁寧に消し去ったかのような部屋だった。

その中央に、小林恵は倒れていた。

三十八歳。料理研究家・一文字麗子の筆頭アシスタント。床に散らばった食材の破片に囲まれ、うつ伏せのまま動かない。顔色は青白く、唇はかすかに開いていた。

「ふむ」

井森は眼鏡の縁を指で押し上げ、小さく鼻を鳴らした。ヨレヨレのトレンチコートから手帳を取り出し、何かを書いたようでもあり、何も書かなかったようでもあった。

「先生。一つ伺いたいんですが」

振り返ると、その「先生」がいた。

一文字麗子(55)。

国内最大手の料理系出版社が「現代の料理の神」と称した女。テレビレギュラーが七本、書籍の累計発行部数は三百万部を超える。その顔は、いまハンカチで静かに涙を拭っていた。

「恵さんは、大変に優秀な方だったんでしょう?」

麗子は、顔を上げた。目が、わずかに動いた。

「ええ。私の右腕でしたわ」

その一言を、井森はメモ帳に記さなかった。ただ、じっと麗子の手元を見つめた。彼女の爪は、完璧に整えられていた。昨夜激しく何かを掴んだ痕跡は、どこにもない。

「そうですか、そうですか。それはつらいですね」

彼はもう一度、室内をゆっくり見回した。

何かがおかしい。

この部屋は、どこかが余りにも——整いすぎている。

二 完璧な城の主

事件の二十時間前。

麗子のスタジオに珍しく緊張が走っていた。

「先生、今回の煮物なんですが……少し塩気が強すぎませんか?」

小林恵が口を開いたのは、ちょうど麗子がダマスカス鋼の包丁をまな板に置いた瞬間だった。金属音が静寂に鋭い亀裂を入れる。

麗子は、恵を見た。ゆっくりと、値踏みするように。

「恵、あなたは十五年も私の隣にいて、まだ理解できないの? 私が作っているのは料理ではない。『一文字麗子』という幻想なのよ。大衆が求めているのは、正しさではなく、私の選ぶ味よ」

師弟の情など、微塵もない声だった。

恵はうつむいた。しかし、今日の彼女は違った。

「……先生、一つ申し上げなくてはなりません。私は来月、独立します。そして、これまでのレシピ開発への関与を、書籍という形で世に問うつもりです」

麗子の瞳に、初めて別の色が灯った。

「小林恵の名によるレシピ本」。それは単なる出版の問題ではなかった。十五年にわたって麗子の影として生きてきた女が、光の中に踏み出そうとしている。それは麗子の帝国を根底から揺るがす、叛乱だった。

麗子はゆっくりと微笑んだ。

「そう。それは面白いわね」

その笑みの意味を、恵は最後まで読み解けなかった。

三 真空の殺意

麗子が実行に移したのは、その夜、深夜のスタジオだった。

彼女は恵を呼び出し、独立計画を冷酷に詰った。

「あなたが私を裏切るなら、この業界のどこにも居場所はないと思わせるわ」

だが麗子の本当の目的は、脅しではなかった。

絶望に震える恵が背を向けた瞬間、麗子は背後から重厚な鋳物鍋を振り下ろした。鈍い衝撃音と共に、恵の意識は暗転する。

麗子は冷静だった。

彼女は最新鋭の調理器具を、殺人の装置へと変えた。

恵の遺体を、業務用の巨大な真空包装機チャンバーバキュームにかける。空気が抜かれ、透明なフィルムが肉体に密着していく。その異様な光景は、まるで現代アートのようでもあった。

麗子はそれを、超低温のブラストチラー(急速冷却機)へと放り込んだ。

「これで、あなたの時間は止まったわ。私の都合の良い時まで」

麗子の狙いは、法医学の盲点を突くことだった。

急速に冷却し、一定時間後に解凍する。そうすることで、死後硬直や腐敗の進行を狂わせ、死亡推定時刻を自分がテレビ番組の生放送に出演している時間帯へと「移動」させる。温度が、完璧なアリバイになる。

解凍設定を終えた麗子は、スタジオの照明を落とした。

翌朝、彼女は通報者として警察を呼ぶ。コンロの不具合による事故死、という筋書きを携えて。

四 異物混入

しかし、井森敬一という男は、世間が思うほど愚かではなかった。

現場に踏み込んだ彼は、麗子の涙と演技を眺めながら、別のことを考えていた。

(この部屋……煮物の鍋が出ている。砂糖、塩、醤油が同じ比率で几帳面に並んでいる。だが、冷蔵庫の中に……)

「先生、少し失礼しますよ」

井森は業務用冷蔵庫のひとつを、遠慮なく開けた。

庫内の温度設定が、通常の食品保存とは明らかに異なっていた。マイナス三十度を超える超低温。さらに、ドアパッキンに微細な結露が残っていた。最近まで、何か大きなものが入っていた証拠だった。

「……先生、この冷蔵庫、いつもこの温度で使ってらっしゃるんですか?」

麗子の表情が、一瞬だけ止まった。

「ええ、まあ……食材の長期保存に」

「なるほど、なるほど」井森はうなずいた。「私、実は料理がまったくできないんですが。このくらいの温度だと、お豆腐なんかも凍ってしまいますよね?」

「そうね。用途によっては使いますけれど」

「そうですか」

彼はもう一度メモ帳に何か書いた。麗子からは、それが何であるか読めなかった。

「ところで先生、昨夜のテレビ出演は何時から何時でしたっけ。念のため確認させてください」

麗子は即座に答えた。完璧な答えを。

その完璧さが、井森には少し引っかかった。

五 悲劇の師弟

捜査の合間、井森は廊下の隅で部下に小声で告げた。

「法医学の先生に連絡してくれ。遺体の……凍結痕と、解凍後の組織変化について意見を聞きたい」

「凍結、ですか?」

「うん。たとえばだよ、たとえば。魚は冷凍して解凍すると、細胞が壊れるだろう。人間の体だって、同じはずなんだ」

部下が去ったあと、井森はスタジオに戻り、もう一度小林恵の遺体を見た。

床に散らばった食材の破片。煮物の鍋。砂糖と塩と醤油。

恵はここで、いったい何を言おうとしていたのだろう。

「あなたは、先生に何か伝えたかったんでしょうね」

遺体は、もちろん答えない。

井森はため息をついた。コートのポケットから飴を一つ取り出し、口に入れた。甘さが口に広がる。

砂糖、塩、醤油が同じ比率で並んでいる。だが、恵の遺体の周囲にはもうひとつ、微細な異物があった。

ステンレスの床面に、ほんのわずかな水の痕跡。

(冷凍されたものが、解凍されたとき……)

井森の目が、細くなった。

やがて彼はゆっくりと立ち上がり、麗子が待つリビングへと向かった。足取りは相変わらずのらりくらりとしていたが、その目の色だけは、確かに変わっていた。

六 刑事の晩餐

「先生、もう少しだけよろしいですか。つまらない話で申し訳ないんですが」

麗子は優雅にソファに腰掛け、ハンカチを手に持ったままうなずいた。

「もちろんですわ。恵のためになることなら、何でも」

「ありがとうございます。実はですね……」

井森は頭をかいた。照れているようにも見えた。

「私の妻が料理好きなんですよ。先生のテレビ、毎週見てまして。ところで先生、昨夜の放送で作ってらした煮物。砂糖と醤油、どちらを先に入れるのが正解なんですか?」

麗子は一瞬、拍子抜けしたように息を抜いた。

「砂糖が先ですわ。分子の大きな糖分を先に加えることで、食材にしっかりと染み込みます」

「そうですか! 勉強になります」井森はニコニコした。「では、もう一つだけ。恵さんが、先生の元を離れようとしていたという話を耳にしたんですが、それは本当ですか?」

麗子の顔が、かすかに変わった。ほんの一瞬だけ。

「……そのような話が出ていたのは確かですが、私は全力で引き止めるつもりでした」

「そうですか。じゃあ昨夜、先生はスタジオには?」

「おりません。生放送のあと、そのまま局の控室で翌朝の準備を」

「控室に、ずっといたんですね。一人で?」

「スタッフが出たり入ったりしておりましたが……なぜですか?」

「いえいえ」井森は立ち上がった。「念のためです。また伺うかもしれませんが、よろしいですか?」

麗子は微笑んだ。動じていない、という表情で。

だが、刑事がドアを閉めた後、彼女は初めて、テーブルのコーヒーカップを強く握りしめた。

七 温度のアリバイ

三日後、法医学の鑑定結果が届いた。

小林恵の遺体には、通常の変死では生じ得ない細胞レベルの損傷が確認された。凍結と解凍の過程で細胞膜が破壊された際に特有の、氷晶痕。そして、遺体の核心部が、表皮とは異なる速度で腐敗しかけていた形跡。

「二段階の温度変化、ということです」鑑定医は告げた。「急速冷却と、その後の解凍。自然状態では起こり得ない」

井森は手帳に書いた。

〈温度のアリバイ、崩れたり〉

あとは証明だ。

チャンバーバキュームのシールログを解析すると、前夜の作動記録が残っていた。設定温度、マイナス三十五度。稼働時間、四時間十七分。解凍モード起動、翌朝六時。

一文字麗子が生放送に出演していた時間帯と、ぴたりと重なる。

「先生は完璧な料理人だ」と井森はつぶやいた。「すべてを計算して、レシピ通りに実行した。ただ一つだけ……料理人というのは、道具の痕跡を消すのを忘れることがある」

翌朝、彼は再び、あのスタジオへと向かった。

一文字麗子は、玄関で彼を出迎えた。今日も完璧に身支度を整え、穏やかな微笑みをたたえて。

だが、井森の目には、その笑みが昨日と少し違って見えた。硬い、と思った。陶器のように硬い。

「おはようございます、先生。少し、お話があるんですが」

彼は帽子を脱いだ。

「チャンバーバキュームのログを確認しましたところ……面白いことがわかりまして」

麗子の顔から、微笑みが消えた。

完璧な城の、最後の壁が崩れる音を、この瞬間だけ、二人は聞いた。

〈上編・了〉


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