第四話 饗宴の死角 (中編)
四 温度の証言
スタジオの床に広がった食材の破片を踏まないよう、井森刑事は足元を選びながら歩いた。
鑑識が番号札を立て、フラッシュが光るたびに、彼の眼は飽きることなくキッチンの細部を舐めた。業務用の六口ガスコンロ。天井まで届くスチールラックに整然と並んだ無数の調理道具。すべてが新品同然に磨かれ、指紋ひとつ残さぬほど清潔だった。
そのなかに、ひとつだけ、場違いなものがあった。
「あれは……」
井森は鑑識員の肩越しに目を細めた。業務用急速冷凍庫——ブラストチラーと呼ばれる機器——の外壁に、うっすらと白い霜の痕跡が残っている。まるで最近まで稼働していたかのように。
「先ほど計測しました」鑑識員が手帳を開いた。「庫内温度、マイナス八十一度。遺体発見時、小林さんの体温は通常死後経過に見合わない水準で低下していました」
「通常じゃない、というのは」
「死後経過の割に、冷え方が……尋常ではないということです」
井森は「ふむ」と鼻を鳴らし、ブラストチラーの前にしゃがみ込んだ。機器の底部に、ほんのわずかな水滴の跡。解凍されたものが、ここに置かれていた。
彼はゆっくり立ち上がり、スタジオの窓の外に目を向けた。港区の冬空が、鉛色に広がっている。
(移動、か)
心のなかで、その言葉を転がす。死体は動かせる。温度は操作できる。だとすれば、死亡推定時刻もまた——。
一文字麗子は、鑑識が作業を続けるスタジオの隅で、ハンカチを目に当てていた。
「信じられない……」
嗚咽を混じらせた声。しかし井森の目には、その涙腺がついに一粒の水滴も生まない事実がやけに鮮明に映った。
「先生、少しよろしいですか」
麗子は顔を上げた。整いすぎた悲嘆の表情。
「昨晩——正確には昨夜八時から十時の間、先生はどちらに?」
「テレビ局です」麗子はきっぱりと言った。「毎週火曜日は生放送があります。八時から九時半まで、スタジオで本番。その後、プロデューサーと打ち合わせが十時まで。終わってから帰宅しましたが、そのときすでに恵の靴がありませんでしたから、先に帰ったのだと……まさかこんなことになっているなんて」
「生放送ですね」
「ええ。全国ネットです。映像は局に残っているはずですわ」
完璧だ、と井森は思った。完璧すぎる、とも。
五 冷たい時間
捜査本部に戻った井森は、椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。
「小林恵の死亡推定時刻は、昨夜七時から九時。麗子のアリバイは八時から十時の生放送。完全に重なっている」
向かいに座った若い刑事——中田が、書類から顔を上げた。「じゃあ麗子は白ですね」
「そうかな」
「だって生放送ですよ。全国に顔が映って——」
「中田くん」井森は静かに遮った。「推定時刻って言葉の意味、知ってるよね」
中田が眉をひそめる。
「法医学の死亡推定時刻は、体温の低下速度から逆算する。でも、死後に体を冷やしたら?」
「……冷やす?」
「急速に。たとえばマイナス八十度のブラストチラーで」
中田の顔から血の気が引いた。「死後硬直や腐敗が止まる……死亡時刻が見かけ上、後ろにずれる」
「逆だよ。解凍したあとに発見されれば、推定時刻は実際より後に見える。たとえば七時に殺して、解凍してから発見させれば——死亡推定時刻は実際の死の何時間も後になる」
沈黙が落ちた。
「でも立証できますか」中田がおそるおそる言った。「ブラストチラーを使ったという証拠は……」
「それが問題でね」
井森は立ち上がり、コートを掴んだ。「もう一度、テレビ局に行ってみよう」
六 生放送の傷
渋谷のテレビ局は夕暮れの中でもけたたましく動いていた。受付で名刺を出すと、担当者がすぐに現れた。プロデューサーの矢野——四十代の、目の下に隈を作った男だった。
「刑事さん、麗子先生は本当に昨夜の生放送に出ていましたよ。疑いようがない」
「ええ、わかっています。録画を見せていただけますか。特に、八時台の映像を」
矢野が怪訝な顔で案内してくれたのは、モニタールームだった。
画面に映し出された映像——一文字麗子が笑顔でカメラに向かっている。白いエプロン。流れるような手さばき。彼女は鯛の塩釜焼きを作りながら、軽やかにトークをこなしていた。
井森はじっと見ていた。
「少し巻き戻してもらえますか。八時七分あたり」
矢野が操作すると、画面が少し前に戻る。麗子が塩を計量している場面。
「そこで止めてください」
井森は立ち上がり、画面に近寄った。麗子の左手——エプロンの袖口のわずか上、手首のあたりに、かすかな赤み。
「矢野さん、先生はこの日、収録前に何か——怪我の申告はありましたか」
「さあ……メイクの松本さんに聞いてみますが」
しばらくして呼ばれてきたメイクアップアーティストの松本は、きっぱりと首を振った。
「手首の傷ですか? 先生、何も仰ってませんでしたよ。でも確かに、ファンデーションで隠したところはあります。炊事の火傷にしては変な場所だな、と思いましたが……聞けない雰囲気で」
井森は「ふむ」と鼻を鳴らした。
チャンバーバキューム。真空包装機のフィルムを密着させるとき、高圧の蒸気が漏れることがある。あの手首の赤みは——熱傷だ。
七 小林恵という人
翌日、井森は小林恵の自宅アパートを訪ねた。荻窪の古い2DK。部屋には恵の私物がそのまま残されていた。
押し入れを開けると、ファイルが几帳面に並んでいた。その一冊を手に取り、中をめくる。
レシピだった。丁寧な手書き文字で書き込まれた料理の記録。しかしそれだけではない。余白に、びっしりと注釈が入っている。
〈先生の配合、砂糖と醤油の比率が先月から変わっている〉
〈初版本のレシピと食べ比べ。微妙に違う。「一文字流」は今や私が作っている〉
〈出版社から連絡。私名義での企画、打ち合わせの件〉
井森はファイルを閉じ、部屋の中央に立った。
小林恵は、ただのアシスタントではなかった。一文字麗子の「料理」を実質的に作り続け、やがてその功績を自分のものとして世に出そうとしていた。
麗子にとって、それは帝国の崩壊を意味する。
しかし——と、井森は思う。
それだけで人を殺すか。
次の棚に目が止まった。黄色い付箋が貼られたノート。開くと、さらに細かい記録がある。
〈先生の収支、出版印税の推移〉
〈テレビ出演料、スポンサー料——合計推定〉
金だ、と井森は悟った。恵は麗子の財産規模を調べていた。そして——次の一行。
〈弁護士に相談予定。著作権の帰属について〉
これが引き金だったのか。
アパートを出ると、冬の夕暮れが街を橙色に染めていた。
井森はコートの襟を立て、しばらく歩いた。思考が静かに積み上がっていく。
麗子には動機がある。麗子には機会がある。そして麗子には、死亡推定時刻を操作できる道具があった。
しかし、証拠がない。
ブラストチラーを使ったという物証は状況証拠に過ぎない。手首の傷は「料理中の怪我」と言い逃れできる。恵のノートは動機の存在を示すが、それが麗子の関与を証明しない。
このまま進めば、麗子は微笑みながら無罪になる。
井森は立ち止まった。
(ならば、動かすしかない)
麗子自身を。
― 中編 了 ―




