表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/31

第四話 饗宴の死角 (下編)

八 罠の食卓



井森が一文字麗子のスタジオを再訪したのは、事件から四日後の午後だった。

「先生、少しよろしいですか。実は……困ったことになりまして」

麗子は応接のソファに腰を下ろし、紅茶のカップをゆっくりと置いた。喪に服す意味なのか、今日は黒いカシミアのセーターを着ている。しかし目の奥は、冷たく澄み切っていた。

「困ったこと、とは」

「恵さんのノートのことです」井森はコートのポケットに手を入れたまま、立ったままで話し始めた。「自宅のアパートから出てきまして。先生のレシピ配合の変遷とか、出版印税の推移とか、丁寧に記録されていましてね」

麗子の指先が、わずかに止まった。

「それが困ることなの? 恵は几帳面な子でしたから」

「ええ、几帳面で。弁護士への相談予定まで書いてありました。著作権の帰属について、だそうです」

沈黙。

「……それで」

「いえ、ただ」井森はのんびりした口調で続けた。「そのノートを、出版社の担当者も見たいと言っていまして。恵さんとの間で、個人名義での企画についてやりとりがあったそうで。遺品として整理するにも、関係者に確認が必要でしょうと」

麗子はゆっくりと足を組んだ。「それは……当然の手続きでしょう」

「そうですよね。ところが先生、ひとつ妙なことがありまして」

「妙なこと?」

「ノートの最後のページが、破り取られているんです」


その瞬間、麗子の目が動いた。

ほんの一瞬、瞳の奥に何かが走った。それを見逃さなかった。

「破り取られた?」麗子は静かに繰り返した。「それは……彼女自身が?」

「さあ、どうでしょう」井森は首をかしげた。「鑑識に調べてもらっています。破り方の角度とか、残った繊維の向きとか、本人が破ったのか、他の誰かが破ったのか、意外とわかるものらしいですよ」

嘘だった。ノートに破り取られたページなどない。

しかし麗子は知らない。


九 崩れる城



翌朝、麗子のマネージャーから連絡が入った。「先生が弁護士を立てたいと……」

井森は「そうですか」と答え、電話を切った。

動いた。

弁護士を立てるということは、麗子が何かを守ろうとしているということだ。守ろうとするものがあるということは——失うものがある、ということだ。

同日午後、令状を取った。ゴミ収集日の前日、麗子のマンションの管理人に協力を求め、専用ゴミ置き場を確認する。黒いゴミ袋の中に、食材の包装材に混じって、手書きの紙片が数枚あった。

鑑識が広げると、破られた紙の断面が揃う——ノートの紙と同じ罫線。同じインク。

そこには、こう書かれていた。

〈真空包装の手順、チャンバー設定温度メモ〉

〈ブラストチラー 急速冷凍プログラムNo.7 マイナス八十度 三時間〉

〈解凍後の体温推移の計算式〉

麗子が自ら破り捨てたページだった。


「なんで捨てたんですかね」

捜査本部で、中田が首をひねった。

「ノートにそんなものが挟まっていると知られたくなかった。でも捨てれば、捨てたことがわかる」

「ジレンマですね」

「そう。でも彼女には、もうひとつ選択肢がなかった」井森はお茶を一口飲んだ。「ノートの最後のページが破り取られていると聞いた瞬間、彼女は焦った。私が言ったのは嘘なんだが——彼女には確かめる術がない。万が一、あのメモが残っていて発見されたら終わりだと思った。だから捨てた」

「じゃあ、最初から嘘をついて揺さぶったわけですか」

井森はコートを羽織りながら、少し苦い顔をした。

「揺さぶる、なんて大層なものじゃないよ。ただ……人は隠したいものを持っていると、どんな小さなことにも反応してしまう。それだけのことです」


十 完璧な城の終わり



逮捕状が執行されたのは、その翌日の早朝だった。

一文字麗子は、港区の超高層マンションの自室で、眠れなかったのか台所に立っていた。コンロの前に、磨き抜かれたダマスカス鋼の包丁が一本。その手が、空を切っている。

「先生」

井森が声をかけると、麗子はゆっくりと振り返った。

化粧をしていない顔は、どこか意外なほど若く見えた。それとも——疲弊した人間の顔というのは、年齢を剥ぎ取るものなのか。

「……来ましたか」

「ええ」

麗子は包丁をまな板に置いた。静かな音がした。かつてあの音が、小林恵の運命を切り裂いた。今は、ただ夜明け前の台所に、金属の余韻だけが残る。

「証拠は、何があるの」

「破り捨てたノートのページ。手首の火傷。それから——」井森は少し間を置いた。「ブラストチラーのプログラム履歴です。機器のマイコンに、使用ログが残っていました。事件前夜、午後七時十四分に急速冷凍プログラムが起動しています。先生が生放送に入る、四十六分前です」

麗子は動じなかった。ただ、窓の外の夜明けを見ていた。

「恵は……優秀でしたか、という質問をしましたね。スタジオで」

「ええ」

「あの子は、私より才能があったかもしれない」麗子は静かに言った。「だから——怖かった」

初めて、本物の感情が言葉に滲んだ気がした。


連行の際、麗子は一度だけ足を止めてキッチンを振り返った。

スチールラックの包丁たちが、朝の光を受けてきらりと光っている。

あれほど完璧に磨き上げられたものが、結局は凶器の証拠になった。

完璧さとは、ときに最大の弱点だ——と、井森は思った。

冬の朝日が、港区のビル群に差し込み始めていた。


エピローグ



捜査本部に戻った井森は、コーヒーを一杯もらって窓際に立った。

小林恵のレシピノートは、いずれ遺族のもとへ返却される。そのなかに記された無数のレシピは——一文字麗子の名義で世に出たものも含め——実質的には恵が作り上げたものだったかもしれない。

しかしそれを証明する機会は、もう誰にもない。

「刑事さん」中田が声をかけた。「一文字先生、最後に何か言いましたか」

「怖かった、って」

「怖かった……才能が、ですか」

「そうかな」

井森はコーヒーを一口すすり、少し考えた。

「自分が怖かったんじゃないかと、私は思っているけどね。自分の城を守るためなら、何でもできてしまう自分が」

中田は黙った。

窓の外では、師走の風が東京湾を渡っていた。港区のビル群は今日も冷たく聳え、その頂上付近に、麗子のスタジオがあった部屋の窓が、朝日を反射して白く光っている。

もうあの台所で、誰かが料理をすることはない。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ