第四話 饗宴の死角 (下編)
八 罠の食卓
井森が一文字麗子のスタジオを再訪したのは、事件から四日後の午後だった。
「先生、少しよろしいですか。実は……困ったことになりまして」
麗子は応接のソファに腰を下ろし、紅茶のカップをゆっくりと置いた。喪に服す意味なのか、今日は黒いカシミアのセーターを着ている。しかし目の奥は、冷たく澄み切っていた。
「困ったこと、とは」
「恵さんのノートのことです」井森はコートのポケットに手を入れたまま、立ったままで話し始めた。「自宅のアパートから出てきまして。先生のレシピ配合の変遷とか、出版印税の推移とか、丁寧に記録されていましてね」
麗子の指先が、わずかに止まった。
「それが困ることなの? 恵は几帳面な子でしたから」
「ええ、几帳面で。弁護士への相談予定まで書いてありました。著作権の帰属について、だそうです」
沈黙。
「……それで」
「いえ、ただ」井森はのんびりした口調で続けた。「そのノートを、出版社の担当者も見たいと言っていまして。恵さんとの間で、個人名義での企画についてやりとりがあったそうで。遺品として整理するにも、関係者に確認が必要でしょうと」
麗子はゆっくりと足を組んだ。「それは……当然の手続きでしょう」
「そうですよね。ところが先生、ひとつ妙なことがありまして」
「妙なこと?」
「ノートの最後のページが、破り取られているんです」
その瞬間、麗子の目が動いた。
ほんの一瞬、瞳の奥に何かが走った。それを見逃さなかった。
「破り取られた?」麗子は静かに繰り返した。「それは……彼女自身が?」
「さあ、どうでしょう」井森は首をかしげた。「鑑識に調べてもらっています。破り方の角度とか、残った繊維の向きとか、本人が破ったのか、他の誰かが破ったのか、意外とわかるものらしいですよ」
嘘だった。ノートに破り取られたページなどない。
しかし麗子は知らない。
九 崩れる城
翌朝、麗子のマネージャーから連絡が入った。「先生が弁護士を立てたいと……」
井森は「そうですか」と答え、電話を切った。
動いた。
弁護士を立てるということは、麗子が何かを守ろうとしているということだ。守ろうとするものがあるということは——失うものがある、ということだ。
同日午後、令状を取った。ゴミ収集日の前日、麗子のマンションの管理人に協力を求め、専用ゴミ置き場を確認する。黒いゴミ袋の中に、食材の包装材に混じって、手書きの紙片が数枚あった。
鑑識が広げると、破られた紙の断面が揃う——ノートの紙と同じ罫線。同じインク。
そこには、こう書かれていた。
〈真空包装の手順、チャンバー設定温度メモ〉
〈ブラストチラー 急速冷凍プログラムNo.7 マイナス八十度 三時間〉
〈解凍後の体温推移の計算式〉
麗子が自ら破り捨てたページだった。
「なんで捨てたんですかね」
捜査本部で、中田が首をひねった。
「ノートにそんなものが挟まっていると知られたくなかった。でも捨てれば、捨てたことがわかる」
「ジレンマですね」
「そう。でも彼女には、もうひとつ選択肢がなかった」井森はお茶を一口飲んだ。「ノートの最後のページが破り取られていると聞いた瞬間、彼女は焦った。私が言ったのは嘘なんだが——彼女には確かめる術がない。万が一、あのメモが残っていて発見されたら終わりだと思った。だから捨てた」
「じゃあ、最初から嘘をついて揺さぶったわけですか」
井森はコートを羽織りながら、少し苦い顔をした。
「揺さぶる、なんて大層なものじゃないよ。ただ……人は隠したいものを持っていると、どんな小さなことにも反応してしまう。それだけのことです」
十 完璧な城の終わり
逮捕状が執行されたのは、その翌日の早朝だった。
一文字麗子は、港区の超高層マンションの自室で、眠れなかったのか台所に立っていた。コンロの前に、磨き抜かれたダマスカス鋼の包丁が一本。その手が、空を切っている。
「先生」
井森が声をかけると、麗子はゆっくりと振り返った。
化粧をしていない顔は、どこか意外なほど若く見えた。それとも——疲弊した人間の顔というのは、年齢を剥ぎ取るものなのか。
「……来ましたか」
「ええ」
麗子は包丁をまな板に置いた。静かな音がした。かつてあの音が、小林恵の運命を切り裂いた。今は、ただ夜明け前の台所に、金属の余韻だけが残る。
「証拠は、何があるの」
「破り捨てたノートのページ。手首の火傷。それから——」井森は少し間を置いた。「ブラストチラーのプログラム履歴です。機器のマイコンに、使用ログが残っていました。事件前夜、午後七時十四分に急速冷凍プログラムが起動しています。先生が生放送に入る、四十六分前です」
麗子は動じなかった。ただ、窓の外の夜明けを見ていた。
「恵は……優秀でしたか、という質問をしましたね。スタジオで」
「ええ」
「あの子は、私より才能があったかもしれない」麗子は静かに言った。「だから——怖かった」
初めて、本物の感情が言葉に滲んだ気がした。
連行の際、麗子は一度だけ足を止めてキッチンを振り返った。
スチールラックの包丁たちが、朝の光を受けてきらりと光っている。
あれほど完璧に磨き上げられたものが、結局は凶器の証拠になった。
完璧さとは、ときに最大の弱点だ——と、井森は思った。
冬の朝日が、港区のビル群に差し込み始めていた。
エピローグ
捜査本部に戻った井森は、コーヒーを一杯もらって窓際に立った。
小林恵のレシピノートは、いずれ遺族のもとへ返却される。そのなかに記された無数のレシピは——一文字麗子の名義で世に出たものも含め——実質的には恵が作り上げたものだったかもしれない。
しかしそれを証明する機会は、もう誰にもない。
「刑事さん」中田が声をかけた。「一文字先生、最後に何か言いましたか」
「怖かった、って」
「怖かった……才能が、ですか」
「そうかな」
井森はコーヒーを一口すすり、少し考えた。
「自分が怖かったんじゃないかと、私は思っているけどね。自分の城を守るためなら、何でもできてしまう自分が」
中田は黙った。
窓の外では、師走の風が東京湾を渡っていた。港区のビル群は今日も冷たく聳え、その頂上付近に、麗子のスタジオがあった部屋の窓が、朝日を反射して白く光っている。
もうあの台所で、誰かが料理をすることはない。
了




