第二十五話 マッチポイント(下編)
証拠を揃えた井森は、その足で神崎隆之のもとを訪ねた。
「神崎さん、今日は、少し込み入った話をさせていただきたく」
神崎は、いつものように、応接室で井森を迎えた。だが、その表情には、以前のような余裕は、すでになかった。
「まだ、何か?」
「事件当日、神崎さんの控室のゴミ箱から、使い捨ての注射器と、インスリン製剤の空アンプルが見つかりました」
井森は、静かに続けた。
「製造番号を調べたところ、五年前、木村理恵さんの勤務先の病院で扱われていたロットと、一致することが分かりました」
神崎の顔から、血の気が引いた。
「それが……何だと言うんです」
「ボトルのキャップには、注射器で穿刺したような、微細な傷が残っていました。神崎さんは、明石さんに渡す前、リカバリードリンクのボトルに、キャップの隙間から、注射器でインスリンを注入されたんですね」
「証拠にはならない」
神崎は、絞り出すように言った。
「ゴミ箱に、注射器があった。それだけです。誰が使ったかまでは、分からないはずだ」
「そうですねぇ。注射器そのものからは、指紋は検出されませんでした。丁寧に、拭き取られていましたから」
井森は、頷いた。
「でも、もう一つ、気になることがあるんです」
「まだ、あるのか」
「明石さんに、リカバリードリンクを差し入れたのは、いつ思いつかれたんですか」
「……当日、その場の思いつきです。和解の印として」
「そうですか。でも、私が調べたところ、あのボトル――専属のスポーツ用品店に、事件の三日前に、特別に発注されていたことが分かりました。〈来週のチャリティー戦で使いたい〉という理由で」
神崎は、答えなかった。
「三日前から、準備されていたんですね。〈その場の思いつき〉ではなく」
⸻
「神崎さん」
井森の声が、それまでの飄々とした調子から一転、静かだが揺るぎない響きを帯びた。
「動機について、伺ってもよろしいですか」
神崎は、長い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「明石は、七年前、俺のキャリアを壊した」
「本人は、後悔していたと伺いました。合宿の一ヶ月前にも、直接、謝罪をされていたようですね」
「謝罪で、済む話じゃない」
神崎の声が、震えた。
「俺は、あの疑惑のせいで、すべてを失った。スポンサーも、代表の座も、コートに立つ資格も。それなのに、明石は、何事もなかったかのように、順調にキャリアを重ねていった」
「妬み、だったんでしょうか」
「妬みじゃない」
神崎は、強く否定した。
「あいつが、〈軽い気持ちで話しただけ〉と言ったこと、それが、俺には、何より許せなかった。俺の人生を壊した一言が、あいつにとっては、〈軽い気持ち〉だったのかと」
「でも、明石さんは、ずっと、謝りたいと思っていたそうです」
「知っている」
神崎の目から、涙がこぼれ落ちた。
「合宿の時、あいつは、本当に、心から謝ってきた。あの時、俺は、許そうと、思ったんだ」
「なのに、なぜ」
「許そうとすればするほど……七年間、俺が失ってきたものの大きさが、鮮明になっていった」
神崎の声は、絞り出すようだった。
「明石を許すことは、俺が失ったものを、〈仕方なかった〉と認めることのように、感じてしまった。それが、どうしても、できなかった」
⸻
「神崎さん」
井森は、静かに続けた。
「あなたは、七年間、〈疑惑を晴らせなかった選手〉として、生きてこられた。今回のチャリティー戦は、その汚名を、少しでも払拭するための、大切な舞台だったはずです」
「……そうです」
「でも、あなたは、その舞台を、復讐のために使ってしまった。皮肉なことに、あなたが本当に晴らしたかった〈疑惑〉は、これで、決定的な形で、現実になってしまいましたね」
神崎は、両手で顔を覆った。
「明石さんは、コートで、あなたと再びプレーできる日を、楽しみにしていたそうです」
井森は、静かに言った。
「あなたにとっての〈マッチポイント〉は、コート上の勝敗ではなく、もっと別の場所にあったんじゃないですか」
神崎は、もう何も言わなかった。
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その日の夕方、神崎隆之は、殺人容疑で正式に逮捕された。
かつて世界ランキング一桁台にまで上り詰めた名選手が、手錠をかけられてテニスクラブを出ていく光景を、報道陣のフラッシュが、激しく照らし出した。
彼の「復帰」は、二週間と持たなかった。
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事件から一ヶ月後。
井森は、明石涼の追悼として開かれた、小さなテニスクリニックを訪れていた。子どもたちに、無料でテニスを教える催しだった。
「明石さんが、生前、企画していたイベントだそうです」
主催者が、井森に説明した。
「子どもたちに、テニスの楽しさを伝えたい、と。彼、いつも言ってたんです。〈自分がコートに立てるのは、色々な人の支えがあってこそだ〉って」
「そうですか」
井森は、子どもたちが、笑いながらラケットを振る様子を、しばらく眺めていた。
「刑事さん。神崎さんは、明石さんを、許せなかったんでしょうか」
「許そうとは、していたと思いますよ」
井森は、静かに答えた。
「でも、〈許す〉というのは、時々、〈自分が失ったものを、認める〉ことと、同じくらい難しいことなのかもしれません」
「難しい、ですか」
「ええ。特に、七年という時間を、失ったと感じている人には」
井森は、小さく笑った。
テニスコートには、子どもたちの、明るい笑い声が響いていた。
その音を聞きながら、井森は、ふと空を見上げた。
雲一つない、晴れた空だった。
それでも、井森は、いつものように、ビニール傘を、片手に提げていた。




