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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第二十五話 マッチポイント(中編)

 明石涼の死から五日が経った。


 所轄の見立ては、当初「試合中の急病」から、司法解剖の結果を受けて、殺人事件として、正式に捜査へと切り替わっていた。だが、神崎隆之には、生放送のインタビューという、完璧すぎるアリバイがあった。


 井森正一だけは、そのアリバイの外側を、まるで散歩でもするかのように調べ続けていた。



「明石選手の、専属トレーナーさんですよね」


 テニスクラブの練習コート脇で、井森はへらへらと笑いながら、一人の男性に声をかけた。


「あ……はい、そうですけど」


「捜査一課の井森です。すみませんね、お忙しいところ。ちょっとだけ、お時間よろしいですか」


 トレーナーの名は、笠原といった。明石とは、デビュー当時からの付き合いだという。


「明石さん、亡くなる直前、何か変わった様子はありませんでしたか」


「変わった様子、というか……」


 笠原は、少し言い淀んだ。


「神崎さんからドリンクをもらった時、明石さん、ちょっと驚いてました。〈まさか、神崎さんから差し入れをもらえるとは〉って。あの二人、昔から、微妙な空気があったので」


「微妙な空気、というのは?」


「詳しくは知りません。でも、七年前の疑惑報道の件、業界では、みんな薄々知ってたんです。あのリークをしたのが、明石さんだったんじゃないかって」


「なるほど、なるほど」


 井森は、手帳に何かを書きつけた。


「明石さんご自身は、その件について、何かおっしゃっていましたか」


「一度だけ、酔った時に、ぽつりと。〈神崎さんには、ずっと謝りたいと思ってた〉って」


「謝りたい、ですか。それは、当日のことですか」


「いえ、事件の一ヶ月ほど前です。合同練習の後、二人きりで話す機会があったみたいで」


 井森は、静かに頷いた。


(――神崎さんと明石さんは、事件のずっと前から、あの疑惑について、直接向き合っていたのか)



 井森は、その足で、神崎の交友関係を洗い直すことにした。


 選手時代の関係者に話を聞いて回る中で、一人の女性の名前が浮かび上がった。看護師の、木村理恵。神崎が現役時代、五年ほど交際していたという。


「木村さん、神崎さんとは、いつ頃まで、お付き合いされていたんですか」


 電話越しに、井森は尋ねた。


「三年前くらいまでです。今は、もう、連絡も取っていません」


「神崎さんの体調管理について、何か相談を受けたことは?」


「昔、少しだけ。糖尿病患者向けの薬について、興味を持たれていた時期がありました。〈勉強のためだ〉って、おっしゃっていましたが」


「インスリンについても?」


 電話の向こうで、木村が息を呑む気配がした。


「……はい。過剰投与すると、どうなるかも、聞かれたことがあります。当時は、深く考えずに、答えてしまいました」


「その時期は、いつ頃でしたか」


「五年ほど前です。ちょうど、彼が、疑惑報道のあと、精神的に不安定になっていた頃で……」


 井森は、静かに礼を言い、電話を切った。


(――神崎さんは、五年も前から、インスリンの知識を、蓄えていたのかもしれない)



 夕方、井森は再び、神崎のもとを訪れた。


「神崎さん、少し伺いたいことが」


「まだ何か」


「明石さんに渡されたリカバリードリンクなんですが。あのボトル、どちらでご用意されたんですか」


「いつも使っている、専属のスポーツ用品店です。特に、変わった点はないはずです」


「そうですかぁ。ただ、ボトルのキャップ部分から、ごく微量の穿刺痕――針を刺したような、小さな傷が見つかりましてね」


 神崎の表情筋が、わずかに強張った。


「……それが、何か」


「注射器のようなもので、キャップの隙間から、中身に何かを注入した痕跡じゃないかと、鑑識が言っています」


「私は、そんなことはしていません」


「ええ、そうでしょうねぇ」


 井森は、へらりと笑った。


「ところで神崎さん。木村理恵さんという方、ご存知ですよね」


 神崎の顔から、はっきりと血の気が引いた。


「……昔、付き合っていた人です」


「彼女から伺ったんですが、五年ほど前、神崎さんは、インスリンの過剰投与について、興味を持たれていたそうですね」


「それは……体調管理の勉強の一環です。アスリートとして、あらゆる知識を持っておくのは、当然のことです」


「なるほど、なるほど」


 井森は、静かに頷いた。


「ただ、五年前というと、ちょうど、疑惑報道の後、神崎さんが、精神的に辛い時期を過ごされていた頃だと伺いました。そんな時期に、なぜ、インスリンの知識を?」


 神崎は、答えなかった。



 その夜、神崎は自宅で、一人、静かに震えていた。


(――あの刑事、どこまで気づいている?)


 証拠は、何一つ、残していないはずだった。薬剤の入手経路も、慎重に、辿れないルートを選んだ。ボトルへの注入も、細心の注意を払った。


 だが、あの井森という男の、飄々としながらも、決して逃さない視線を思い出すと、神崎の背筋に、冷たいものが走った。



 翌日。


 井森は、鑑識からの新たな報告を受け取っていた。


 鑑識が、事件当日、神崎の控室ゴミ箱から回収した廃棄物を再検証した結果、使い捨ての注射器と、インスリン製剤の空アンプルが見つかった。製造番号から、その薬剤が、五年前に木村理恵の勤務先の病院で扱われていたロットと、同一であることが判明した。


「五年間、保管していたということでしょうか」


 所轄の若い刑事が言った。


「そうかもしれませんねぇ」


 井森は、報告書を見ながら、静かに頷いた。


「あるいは、五年前に手に入れたのをきっかけに、その後も、同じ伝手で、手に入れ続けていたのかもしれません」


 井森は、ゴミ箱から見つかった注射器を、じっと見つめた。


(――これで、入手経路と、混入の手段は、揃った)



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