第二十五話 マッチポイント
元トップテニスプレーヤー、神崎隆之。
かつて世界ランキング一桁台にまで上り詰めた実力者だったが、七年前、ドーピング疑惑によって、そのキャリアに大きな影を落とした男だった。
当時、疑惑そのものは、明確な証拠がないまま立ち消えになった。だが、一度ついた疑いの目は、簡単には晴れない。神崎は、その後、めっきり成績を落とし、三年前に静かに現役を引退していた。
その神崎が、今シーズン、慈善目的のチャリティーエキシビションマッチへの出場を決めたことは、大きな話題となった。
『神崎隆之、復帰戦は〈恩返し〉のコートへ』
『ドーピング疑惑を乗り越え、新たな一歩』
メディアは、こぞって「名誉挽回の舞台」として、このチャリティーマッチを取り上げていた。
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その対戦相手として選ばれたのが、現役の人気プレーヤー、明石涼だった。
明石は神崎より十歳若く、今や国内ランキング上位の常連。快活な人柄と、歯切れの良いコメントで、メディア受けも良い選手だった。
だが、神崎にとって、明石は、単なる対戦相手ではなかった。
七年前、あのドーピング疑惑を、最初にメディアにリークしたのが、当時まだ駆け出しだった明石涼だったのだ。
当時、明石は、神崎と同じ強化合宿に参加していた若手選手の一人だった。合宿中に見聞きした、神崎の不自然な体調管理――禁止薬物に関連する噂を、匿名を条件に、スポーツ紙の記者へ伝えた。それが、疑惑の発端だった。
真相は、藪の中のまま終わった。だが、神崎の選手生命は、その一件によって、確実に蝕まれていった。
この事実を、神崎は、長年、公にはしてこなかった。だが、心の奥底では、決して消えることのない、深い恨みとして、燻り続けていた。
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――事件の二週間前。
神崎は、練習拠点となっているテニスクラブのロッカールームで、偶然、明石と二人きりになった。
「久しぶりだな、神崎さん」
明石は、屈託のない笑顔で声をかけてきた。
「今回のチャリティー戦、楽しみにしてます。神崎さんと、こうしてコートに立てる日が来るなんて」
「ああ、そうだな」
神崎は、努めて平静を装いながら答えた。
「明石。一つ、聞きたいことがある」
「何です?」
「七年前の、あの記事のことだ」
明石の表情が、わずかに強張った。
「……あの件、ですか」
「お前が、リークしたんだろう」
神崎の声は、静かだったが、鋭さを帯びていた。
明石は、しばらく沈黙したあと、小さく頷いた。
「……すみません。あの頃、僕は、まだ何も分かっていなくて。合宿中に見た、あなたの様子が、どうしても引っかかって。誰かに相談したくて、記者の先輩に、軽い気持ちで話しただけだったんです。まさか、あんなに大きな問題になるとは」
「軽い気持ち、か」
神崎の拳が、静かに握りしめられた。
「あの一件で、俺のキャリアが、どれだけ傷ついたか、分かるか」
「……本当に、申し訳なく思っています。ずっと、いつか謝りたいと思っていました」
「謝って、済む話か」
神崎の声が、初めて低く、鋭くなった。
「俺は、あの疑惑のせいで、スポンサーを失い、代表選出からも外され、最後は誰にも見送られることなく、コートを去った。お前の〈軽い気持ち〉のせいで」
「神崎さん……」
明石は、深く頭を下げた。
「本当に、すみませんでした」
神崎は、それ以上、何も言わなかった。だが、その胸の内では、静かに、しかし確実に、一つの決意が固まりつつあった。
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神崎は、かつて、選手時代に交際していた女性が、看護師をしていたことを思い出していた。
彼女とはすでに疎遠になっていたが、当時、体調管理の一環として、彼女から、インスリンの扱いについて、詳しく教わったことがあった。糖尿病患者向けの薬剤ではあるが、健康な人間に過剰投与すれば、急激な低血糖を引き起こし、意識障害や心停止に至る危険性があることも。
そして、それは、注射痕さえ丁寧に処理すれば、事後の発見が難しい毒物でもあった。
神崎は、古い伝手を辿り、密かに、その薬剤を入手した。
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チャリティーマッチ当日。
都内の大規模テニスコート施設には、多くの観客と、メディア関係者が詰めかけていた。
試合は三セットマッチで行われ、第一セットを終えたところで、恒例の休憩時間が設けられていた。この休憩時間中、両選手はそれぞれのベンチで、インタビューやリカバリーを行うのが通例だった。
神崎は、事前に、自分専用のリカバリードリンクのボトルに、大量のインスリンを仕込んでいた。もちろん、それは、自分が飲むためのものではない。
問題は、どうやって、そのボトルを、明石に飲ませるかだった。
神崎は、休憩時間の直前、明石のベンチ担当スタッフに、さりげなく声をかけた。
「明石、いつも同じメーカーのドリンク飲んでるだろう。今日は、俺が差し入れさせてくれ。これも何かの縁だ」
周囲には、和解のジェスチャーのように映った。明石本人も、素直に、その申し出を受け入れた。
「ありがとうございます、神崎さん。せっかくなので、いただきます」
休憩時間が始まると、明石は、自分のベンチで、そのボトルを手に取った。
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一方、神崎自身は、休憩時間の間、放送席近くのインタビューエリアで、テレビカメラの前に立っていた。
「神崎さん、七年ぶりの公式コート、いかがですか」
インタビュアーの質問に、神崎は、穏やかな笑顔で答えていた。
「懐かしい緊張感です。若い選手たちの成長を見ていると、自分も、まだまだやれると思わされますね」
その受け答えは、堂々としていて、少しの揺らぎもなかった。
カメラは回り続け、多くのスタッフが、その様子を記録していた。神崎は、完璧なアリバイの中に、自らの身を置いていた。
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インタビューが行われている、その裏側で。
明石は、ボトルの中身を、半分ほど飲み進めていた。
「あれ……なんか、変な感じが……」
明石は、突然、額に汗を滲ませ、手が小刻みに震え始めた。
「大丈夫ですか、明石選手?」
ベンチ担当のスタッフが、異変に気づいた。
「ちょっと……気分が……」
明石は、そのまま、ベンチの上に崩れ落ちた。
「明石選手!」
周囲は、瞬く間に騒然となった。
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救急隊が駆けつけた時には、すでに明石は意識を失っていた。
搬送先の病院で、懸命の処置が行われたが、明石涼は、その日のうちに、息を引き取った。
当初、現場は「試合中の急病」として処理されかけた。過度な運動による脱水症状や、心臓への負荷が、原因として疑われた。
だが、遺族の要望による司法解剖の結果、明石の体内から、異常に高濃度のインスリンが検出された。
事態は、殺人事件として、警察の捜査対象となった。
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捜査一課から、この案件を担当することになったのが、井森正一だった。
テニスコート施設のロビーに、よれたベージュのコートを着て、片手に安っぽいビニール傘を提げた男が現れたのは、事件から二日後のことだった。
「すみません、井森と申します。今日はお忙しいところ……。あの、神崎さんに、お話を伺えるでしょうか? 事件の件で、ちょっと確認したいことがありまして」
神崎は、憔悴した表情で、応接室に現れた。
「刑事さん。この度は、本当に……信じられません。明石とは、これから、良い関係を築いていけると思っていたのに」
「そうですかぁ。それは、辛いですねぇ」
井森は、深々と頭を下げた。
「神崎さんは、事件当時、ずっとインタビューを受けていらしたそうですね」
「ええ。放送局のインタビューでした。生中継だったので、時間も記録も、はっきり残っているはずです」
「拝見しました。休憩時間の間、ずっとカメラの前にいらっしゃいましたね。素晴らしいアリバイです」
神崎は、静かに頷いた。
「あんな事件が起きるなんて、思いもよりませんでした」
「明石さんに、リカバリードリンクを差し入れされたそうですね」
神崎の表情筋が、ほんの一瞬だけ強張った。
「ええ。ちょっとした、和解の印というか……昔、色々あった相手でしたので」
「色々、というのは?」
「若い頃の、ちょっとした行き違いです。もう、済んだ話です」
「そうですかぁ」
井森は、へらへらと笑いながら、手帳に何かを書きつけた。
「いや、すみませんね、つまらないことを伺って。今日のところは、これくらいで」
井森は、ぺこりと頭を下げると、コートの裾を揺らしながら、部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、神崎の額には、じっとりとした汗が滲んでいた。




