第二十四話 最後の乾杯(下編)
鑑識からの報告を受けた井森は、その足で美月麗華のマンションを訪ねた。
「女優さん、すみません。今日は、これで最後にしますので」
美月は、リビングのソファに座ったまま、静かに井森を迎えた。すでに、以前のような余裕は、その表情から消えつつあった。
「まず、パーティー当日のシャンパンの手配について、確認させてください」
井森は、ゆっくりと話し始めた。
「ケータリング会社に確認したところ、通常、ゲスト用のシャンパンは、すべてスタッフが開栓し、サービスすることになっていたそうです。でも、藤堂さん用の一本だけは、〈特別な思い出のヴィンテージだから、自分で開けたい〉と、女優さんご自身が、事前に申し出て、預かっていらした」
「……昔の思い出の品でした。自分の手で、渡したかっただけです」
「そうですかぁ。ただ、そのボトル、パーティー後、割れたグラスなどと一緒に、廃棄物として処理される予定だったものを、鑑識が回収して、詳細に調べさせていただきました」
井森は、証拠品の写真を取り出した。
「コルクの、内側です。液体に触れる側の面に、女優さんの指紋が、はっきりと残っていました」
美月の表情が、初めて明確に強張った。
「コルクを外側から持つだけなら、誰にでも触れる機会があります。でも、内側――つまり、瓶の中に一度差し込まれていた面に指紋が残るのは、〈栓を抜いて、何かをして、また自分で栓を戻した〉人間だけなんです」
「それは……開栓する時に、触れただけかもしれません」
「コルク抜きを使わず、手だけで開けられたんですか。あの手の古いヴィンテージのコルクは、かなり固いはずですが」
美月は、答えなかった。
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「さらに、もう一つ」
井森は、静かに続けた。
「検出された毒物は、一般に流通しているものではありませんでした。舞台の特殊効果――発煙や発光の演出に使われる、ごく限られた業者だけが扱う薬品の成分と、一致したんです」
井森は、一枚の伝票を取り出した。
「その業者への発注記録を確認したところ、三ヶ月前、女優さんが以前出演された舞台の制作会社――女優さんご自身が役員を務めていらっしゃる会社の名義で、この薬品が、〈演出用〉として購入されていました」
美月の顔から、完全に血の気が引いた。
「舞台では、結局、その演出は使われていません。台本の変更で、カットになった場面でした」
「……」
「使われなかった薬品が、どこへ行ったのか。今回、初めて、辻褄が合いました」
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「それでも、まだ、状況証拠だとおっしゃるかもしれません」
井森は、最後に、あの口紅の件を、静かに付け加えた。
「スピーチの映像で、女優さんの指に、口紅の痕跡が残っていたこともお話ししましたね。藤堂さんが飲んだグラスの縁にも、女優さんの口紅が付着していました。これは、単独では、キスをした以上、不思議なことではありません。でも――コルクの指紋、瓶底の穿刺痕、薬品の購入記録。この三つと合わせて見た時、初めて、〈あの夜、バルコニーで何が行われたか〉が、一つの線として繋がるんです」
美月の顔から、血の気が引いていった。
井森は、静かに言った。
「一つ一つは、言い逃れができたかもしれません。でも、全部を、偶然で片付けるのは、難しい」
長い沈黙が、リビングに落ちた。
やがて、美月は、小さく呟いた。
「……完璧だと、思っていたのに」
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「女優さん」
井森の声が、それまでの飄々とした調子から一転、静かだが揺るぎない響きを帯びた。
「動機について、伺ってもよろしいですか。藤堂さんからの脅迫について」
美月は、ゆっくりと顔を上げた。
「……いつから、気づいていたんですか」
「藤堂さんの通帳の記録と、古い映像ファイルの断片。それに、麗華さんご自身の、あの日の反応から」
美月は、深く息を吐いた。
「デビュー前――まだ、何者でもなかった頃の映像です。若気の至り、と言えば、それまでですが……あの映像が世に出れば、私のキャリアは、その日のうちに終わります」
「藤堂さんは、それを盾に、脚本の仕事や、金銭を要求していた」
「ええ。最初は、脚本の件だけでした。でも、次第に、要求はエスカレートしていきました。共演者の選定、CM契約への口出し、そして、お金」
「それが、半年続いた」
「半年、私は、あの人の言いなりでした」
美月の声が、初めて震えた。
「でも、いつまでも続くわけがない。あの人は、私が有名になればなるほど、要求を膨らませていった。いつか、私のすべてを、食い潰すつもりだったんです」
「だから、殺すことを、選んだ」
美月は、答えなかった。それが、答えだった。
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「女優さん」
井森は、静かに続けた。
「あなたは、女優として、いつも〈感情の機微〉を、繊細に演じてこられた。今夜のスピーチも、あんなに堂々と、感謝の言葉を述べていらした」
「……それが、何か」
「でも、あなたご自身は、藤堂さんが、なぜあそこまであなたに執着したか――その心の機微を、本当に、理解しようとしたことは、ありましたか」
美月は、井森を見た。
「藤堂さんは、脚本家として、伸び悩んでいた。あなたが有名になればなるほど、自分が置いていかれる焦りを、感じていたんでしょう。それが、あんな形の脅迫になってしまった」
「……それが、殺していい理由になるとでも?」
「いいえ」
井森は、静かに首を振った。
「でも、あなたは、〈脅迫者〉としての藤堂さんしか、見ていなかった。かつて、あなたを育て、支えた、脚本家としての藤堂さんのことを、最後まで思い出そうとは、しなかったんじゃないですか」
美月の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「……あの人は、私を、脅迫する前は、本当に、優しい人だったんです」
「ええ」
「でも、あの映像が出てきてから、あの人は、変わってしまった。私が知っていた藤堂さんは、もう、いなかった」
「人は、追い詰められると、変わってしまうことがあります。でも、あなたも、追い詰められて、変わってしまった一人なんでしょうねぇ」
美月は、もう何も言わなかった。
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その日の夕方、美月麗華は、殺人容疑で正式に逮捕された。
日本を代表するトップ女優が、手錠をかけられて自宅マンションを出ていく光景を、報道陣のフラッシュが、激しく照らし出した。
彼女の主演していた連続ドラマは、放送の継続が困難となり、後に打ち切りが発表された。
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事件から一ヶ月後。
井森は、藤堂隼人の担当編集者だった桑原のもとを訪れていた。
「藤堂さんの遺稿、整理は進んでいますか」
「はい。実は……未発表の脚本が、一本、見つかりました」
桑原は、一冊の分厚い原稿を、井森に見せた。
「タイトルは、〈最後のキス〉。内容は……別れた恋人同士が、それでも互いを大切に思いながら、すれ違っていく話です。書かれたのは、事件の半年ほど前」
「脅迫が、始まる前ですね」
「ええ。だから、これは……藤堂さんの、本当の気持ちが書かれたものだと、思います」
井森は、しばらくの間、その原稿を、静かに見つめていた。
「人は、複雑ですねえ」
井森は、独り言のように呟いた。
「優しい気持ちを抱えながら、同時に、脅迫者にもなれる。愛していた相手を、殺す理由にもなる」
「刑事さんは、こういう事件を、たくさん見てこられたんですか」
「ええ、まあ。でも、慣れることは、ないですよ」
井森は、小さく笑った。
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その日の夕暮れ、井森は、青山の街を、いつものように、ビニール傘を片手に歩いていた。
高級ブティックの並ぶ通りには、美月麗華の出演していた化粧品のCMポスターが、まだ、あちこちに残っていた。
優雅に微笑む、トップ女優の顔。
その微笑みの裏に、どれほどの恐怖と、孤独があったのか。
井森は、そんなことを思いながら、静かに、夕暮れの街へと消えていった。




