第二十四話 最後の乾杯(中編)
藤堂隼人の死から一週間が経った。
所轄の見立ては、当初の「急性心不全」から一転、殺人事件として、正式に捜査が進められていた。だが、招待客四十名以上、そのすべてが「美月麗華はスピーチ中、ずっとリビングにいた」と証言する中で、彼女への疑いは、表立って向けられてはいなかった。
井森正一だけは、違った。
彼は捜査本部にほとんど顔を出さず、一人で藤堂隼人の交友関係と、業界内での評判を、まるで散歩でもするかのように調べ続けていた。
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「藤堂さんの、担当編集者さんですよね」
出版社のロビーで、井森はへらへらと笑いながら、一人の男性に声をかけた。
「あ……はい、そうですけど」
「捜査一課の井森です。すみませんね、お忙しいところ。ちょっとだけ、お時間よろしいですか」
編集者の名は、桑原といった。藤堂とは、十年来の付き合いだという。
「藤堂さん、最近、お仕事の調子はいかがでしたか」
「正直に言うと……あまり、良くなかったです」
桑原は、言いにくそうに答えた。
「脚本のお仕事、少なくなっていたんですか」
「ここ数年、目立った代表作もなく……焦っていたと思います。同期のような立場だった美月さんが、どんどん有名になっていく中で」
「なるほど、なるほど」
井森は、手帳に何かを書きつけた。
「藤堂さんと美月さんの関係、業界内では、どう見られていましたか」
「表向きは、〈円満な別れ〉ということになってましたけど……最近、藤堂さん、急にお金回りが良くなったって噂があって」
「お金回り、ですか」
「はい。誰かのパトロンでもついたのか、って周りでは言われてました」
「その〈誰か〉に、心当たりは?」
桑原は、しばらく躊躇ってから、小さく答えた。
「……美月さんじゃないか、って。噂ですけど」
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井森は、その足で、藤堂の自宅マンションを訪れた。
遺族の許可を得て、部屋の中を確認する。書斎の引き出しから、複数の銀行の通帳が見つかった。
過去半年間、不定期に、まとまった額の現金が振り込まれていた。振込元は、複数の架空名義の口座を経由しており、簡単には辿れないようになっていた。だが、鑑識の分析により、その資金の出所が、最終的に美月麗華の個人資産管理会社に行き着くことが判明した。
「なるほど、なるほど」
井森は、その報告書を見ながら、静かに頷いた。
(――藤堂さんは、美月さんから、継続的に金を受け取っていた。これは、脅迫の構図に、よく似ている)
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さらに、鑑識は、藤堂の自宅のパソコンから、削除されたはずのデータの一部を復元することに成功した。
それは、極めて古い、プライベートな映像ファイルの断片だった。ファイル名は、意図的に無害なものに偽装されていたが、メタデータの解析により、撮影日時が、美月麗華のデビュー前の時期に遡ることが分かった。
「これは……」
井森は、その報告を受け、しばらく無言だった。
(――藤堂さんは、これを、脅迫の材料にしていたのかもしれない)
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夕方、井森は美月麗華のマンションを再訪した。
「先日は、ありがとうございました。今日は、少し込み入ったことを伺いたく」
「何でしょう」
美月は、優雅な微笑みを崩さなかった。
「藤堂さんの通帳を確認させていただいたんですが、この半年、複数回にわたって、まとまった現金が振り込まれていました。その出所を辿ると、麗華さんの個人資産管理会社に行き着くんです」
美月の表情筋が、ほんの一瞬だけ強張った。
「……それは、彼への支援です。昔お世話になった恩人ですから、経済的に苦しいと聞いて、いくらか援助していました」
「援助、ですか。それにしては、かなりの高額ですねぇ」
「彼への、感謝の気持ちです」
「なるほど、なるほど」
井森は、へらりと笑った。
「ちなみになんですが、藤堂さんのパソコンから、古い映像ファイルの断片が見つかりました。撮影日時が、麗華さんのデビュー前まで遡るものでして」
美月の顔から、初めて、明確に血の気が引いた。
「……それが、何か」
「いえいえ、単なる報告です。中身までは、まだ確認できていませんので」
井森は、静かに続けた。
「ただ、〈援助〉という言葉と、〈古いプライベートな映像を保管している元恋人〉という組み合わせは、時々、別の意味を持つことがあるんですよねぇ」
「何が、おっしゃりたいんですか」
美月の声に、初めて、鋭さが混じった。
「いえ、何も。ただの世間話です」
井森は、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、軽く会釈をした。
「あ、そうそう。もう一つだけ」
「まだあるのか」
「バルコニーで、藤堂さんと〈昔話〉をされていたとのことでしたが。その際、キスを交わされていましたよね」
美月の目が、大きく見開かれた。
「……なぜ、それを」
「ゲストの方が撮影されていたスマホの動画に、少しだけ映り込んでいたんです。バルコニーのガラス越しに、シルエットが」
井森は、穏やかに続けた。
「別れの挨拶として、キスをすること自体は、不自然ではありません。ただ、その直後の、麗華さんの仕草が、少し気になりまして」
「仕草、というのは」
「スピーチが始まった直後、麗華さんは、右手でグラスを持ちながら、左手で髪を耳にかけていらっしゃいました。その時、左手の指先に、ごく薄い赤色の痕跡が、映像に残っていたんです」
美月は、答えなかった。
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その夜、美月は自宅の寝室で、一人、静かに震えていた。
(――あの刑事、どこまで気づいている?)
彼女は、鏡台の前に座り、自分の指先を見つめた。
(証拠は、何一つ、残していないはずだ。グラスも、拭き取った。毒物の入手経路も、辿れないように、細心の注意を払った)
だが、あの井森という男の、飄々としながらも、決して逃さない視線を思い出すと、美月の背筋に、冷たいものが走った。
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翌日。
井森は、パーティー当日、招待客の一人として参加していた、若手カメラマンのもとを訪れていた。
「あの夜、色々な角度から、写真を撮られていたそうですね」
「はい。友人として、記念に」
「その写真、全部見せていただいても?」
井森は、数百枚に及ぶ写真データを、一枚一枚、丁寧に確認していった。
その中に、スピーチ中の美月の様子を、真正面から捉えた一枚があった。
左手が、耳にかかった髪に触れている。その指先に、確かに、薄い赤色の痕跡が写り込んでいた。
井森は、その写真を、専門の鑑識に回し、色素の成分分析を依頼した。
結果は、数日後に出た。
「井森さん、これ、美月さんがその夜つけていた口紅と、成分が完全に一致します」
鑑識担当者が、報告した。
「しかも、付着の仕方から見て、〈何かを拭った〉ような痕跡です。指の腹に、均一に薄く伸びている」
「なるほど、なるほど」
井森は、静かに頷いた。
(――麗華さんは、キスの直後、自分の唇についた口紅を、指で拭った。何のために?)
井森の脳裏に、一つの仮説が、静かに形を取り始めていた。




