第二十四話 最後の乾杯(上編)
トップ女優、美月麗華。
連続ドラマの主演、映画賞の常連、CM契約も引っ張りだこ。押しも押されもせぬ、日本を代表する女優だった。
その麗華の誕生日を祝う、盛大なホームパーティーの夜――元恋人であり脚本家の藤堂隼人が、パーティーの最中に急死するという事件が起きた。
『美月麗華さん、誕生日パーティーで悲劇』
『脚本家・藤堂隼人氏、急性心不全で死去か』
『美月さん、「本当にショックです」とコメント』
当初、事件は単なる急病として報じられていた。だが、後の司法解剖で、藤堂の体内から微量の毒物が検出されたことにより、事態は一変することになる。
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――事件の三ヶ月前。
都内の高級ホテルのラウンジ。美月麗華は、藤堂隼人と向き合って座っていた。
二人はかつて、五年間、公私にわたるパートナーだった。麗華のデビュー間もない頃から、脚本家として売り出し中だった藤堂を支え、藤堂もまた、麗華の才能を誰よりも早く見抜き、育ててきた。
だが、麗華の人気が爆発的に高まるにつれ、二人の関係は静かに、しかし確実に、崩れていった。麗華が主演女優として世に羽ばたく一方で、藤堂の脚本家としてのキャリアは、伸び悩んでいた。
二年前、二人は静かに別れた。表向きは「円満な別れ」として、業界内でも美談のように語られていた。
だが、藤堂は、その別れの直前、麗華のデビュー前――まだ無名だった頃に、二人で過ごした夜の、極めて過激なプライベート映像を、密かに保管していた。
「久しぶりだな、麗華」
藤堂は、優雅な笑みを浮かべながら言った。
「何の用? わざわざ呼び出して」
麗華の声には、抑えきれない警戒が滲んでいた。
「そう構えるな。ただの、昔話をしに来ただけだ」
藤堂は、テーブルの上に、一台のノートパソコンを置いた。
「これ、見覚えあるだろう」
画面に映し出された映像に、麗華の顔から、表情が消えた。
「……消したはずよ」
「消したのは、お前の分だけだろう。俺は、ちゃんと、大事に保管しておいた」
藤堂は、静かにパソコンを閉じた。
「安心しろ。俺は、これを世に出すつもりはない。ただ――お前に、頼みたいことがあるだけだ」
「頼みたいこと?」
「次のドラマの脚本、俺に回してくれ」
麗華は、目を見開いた。
「あの企画は、もう脚本家が決まってる」
「変えればいい。お前が一言、プロデューサーに言えば、それで済む話だ」
「そんな理不尽な……」
「理不尽なのは、俺の方じゃない」
藤堂の声が、初めて冷たさを帯びた。
「俺がいなければ、お前は今頃、どこかの端役止まりだった。俺が、お前の可能性を見出して、育てたんだ。それなのに、お前は俺を置いて、勝手に上に行った」
「それは……」
「別に、恨み言を言うつもりはない。ただ、これくらいの見返りは、あっても、いいだろう」
藤堂は、優雅に微笑んだ。
「次の作品の脚本を俺に回さないと、この映像を流す」
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その日以来、麗華は、藤堂の言いなりにならざるを得なかった。
脚本の件だけでは、終わらなかった。藤堂は、次第に要求をエスカレートさせていった。共演者の選定、CM契約への横槍、そして――時には、金銭的な要求も。
麗華は、表面上は従うふりをしながら、静かに、しかし確実に、殺意を固めていった。
(――このまま、いつまでも、あの男の言いなりになるつもりはない)
麗華は、頭の中で、慎重に計画を練り始めた。
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誕生日パーティーの日。
招待客は、芸能関係者、映画関係者を中心に、総勢四十名以上。青山の高級マンション、麗華の自宅では、盛大な祝宴が開かれていた。
パーティーのハイライトは、麗華自身が行う「感謝のスピーチ」だった。招待客たちは、シャンパングラスを手に、その瞬間を待ち構えていた。
麗華は、事前に、藤堂だけに特別なシャンパンを用意していた。
入手経路の分からない、微量の即効性の毒物。舞台女優として培った、細やかな手の動きで、瓶の口にそれを仕込み、コルクを丁寧に戻す。誰にも気づかれることのない、完璧な仕込みだった。
パーティーが最高潮に達した頃、麗華は、藤堂を静かに呼び寄せた。
「少し、外で話さない?」
二人は、大勢のゲストの間をすり抜け、バルコニーへと出た。
「今夜は、ずいぶん機嫌がいいじゃないか」
藤堂は、余裕の笑みを浮かべながら言った。
「あなたに、お礼を言おうと思って」
麗華は、静かにグラスを二つ用意した。
「久しぶりね。これ、あなたへのお礼よ」
麗華は、自分のグラスと、藤堂のグラスを手に取り、軽く乾杯する。
「お礼、ね。それはそれは」
藤堂は、上機嫌にグラスを傾けようとした。
その瞬間、麗華は、そっと藤堂に体を寄せた。
「最後に、一つだけ」
麗華は、藤堂の頬に手を添え、静かに唇を重ねた。
別れのキス。かつて愛した男への、最後の別れの証のように。
藤堂は、驚きながらも、その口づけに応じた。
唇が触れているわずかな間に、麗華は、自然な動作で、藤堂のグラスを彼の手に押しつけ、自分のグラスを、手元に引き戻していた。
毒物を仕込んだのは、藤堂のグラスだけだった。
「……驚いたな」
キスから離れた藤堂は、少し照れたように笑った。
「昔を、思い出したよ」
「飲んで。今夜くらい、昔みたいに」
麗華は、優しく微笑んだ。
藤堂は、疑うことなく、グラスの中身を飲み干した。
「美味い。さすが、いいシャンパンを持ってる」
麗華は、その言葉に、静かに笑みを返した。
「戻りましょう。スピーチの時間だから」
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午後九時十五分。
麗華は、リビングの中央に立ち、感謝のスピーチを始めた。
「今日は、皆さん、本当にありがとうございます。この一年も、たくさんの方に支えられて……」
その声は、いつもと変わらず、優雅で、堂々としていた。
スピーチが始まって数分後、会場の隅で、藤堂が突然、胸を押さえてよろめいた。
「うっ……」
周囲のゲストが、異変に気づいた。
「藤堂さん!?」
藤堂は、その場に崩れ落ち、吐血した。
会場は一瞬にして、悲鳴と混乱に包まれた。
麗華は、スピーチを中断し、驚愕の表情で、藤堂のもとへ駆け寄った。
「隼人さん! 誰か、救急車を!」
その演技は、完璧だった。
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救急隊が到着した時には、すでに藤堂の呼吸は止まっていた。
現場に駆けつけた所轄の刑事たちは、当初、急性心不全という見立てで捜査を進めていた。四十名以上の招待客の中には、著名な政治家や実業家も含まれており、事件性を疑う声は、当初、ほとんど上がらなかった。
だが、遺族の強い要望により行われた司法解剖の結果、藤堂の体内から、微量の毒物が検出された。
事態は、一変した。
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捜査一課から、この案件を担当することになったのが、井森正一だった。
シワの寄ったトレンチコートを着た井森が、青山の高層マンションのエントランスに現れたのは、事件から三日後のことだった。
「すみません、井森と申します。今日はお忙しいところ、恐れ入ります。ちょっとだけお話を伺えますでしょうか?」
美月麗華は、優雅な笑みを浮かべ、井森をリビングに通した。
井森は、何度もメモを落としたり、眼鏡を探したりしながら、たどたどしく質問を重ねていった。
「パーティーの最中、女優さんはずっとスピーチをされていたんですね。皆さんもそうおっしゃっています。素晴らしいアリバイです」
美月は余裕を持って答えた。
「ええ。藤堂さんには申し訳ないことをしましたが、私はあの場を一歩も離れていませんでした」
「はあ……」
井森は頷き、ノートをパラパラとめくった。
「ところで、女優さんと藤堂さんがバルコニーに出られた時間、だいたい午後九時十二分頃だそうです。戻ってこられたのが九時十五分頃。その直後にスピーチが始まっていますね」
美月は静かに頷いた。
「はい。少し話をしただけです」
「どういったお話を?」
「昔話です。彼とは、長い付き合いでしたから」
「そうですかぁ」
井森は、リビングの壁に飾られた、麗華のこれまでの活躍を物語る数々のポスターを、ゆっくりと見回した。
「素晴らしいお部屋ですねえ。こんなに立派なパーティーを開けるなんて、本当に、大変な人気だ」
「恐れ入ります」
「藤堂さんとは、脚本家として、長くお付き合いがあったんですよねぇ」
「デビュー当時から、お世話になっていました」
「今も、お仕事のお付き合いは?」
美月の表情が、ほんのわずかに、揺れた。
「……最近は、少し疎遠になっていました」
「そうですかぁ。でも、今夜のパーティーには、お呼びになった」
「昔の恩人ですから」
「なるほど、なるほど」
井森は、手帳に何かを書きつけると、へらりと笑った。
「いや、すみませんね、つまらないことを伺って。今日のところは、これくらいで」
井森は、ぺこりと頭を下げると、コートの裾を揺らしながら、部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、美月麗華の指先には、かすかな緊張が滲んでいた。




