第二十三話 完璧なラストカット(下編)
音声データを聞き終えた井森は、その足で黒澤誠のもとを訪ねた。
スタジオの応接室。黒澤は、いつものように余裕のある態度で井森を迎えた。
「刑事さん、また何か?」
「ええ、今日は、少し込み入った話をさせていただきたく」
井森は、コートのポケットから、小さな封筒を取り出した。
「実はですね、爆発現場の残骸から、ごく小さな金属片が見つかりました。遠隔起爆装置の部品です。特殊効果用の正規の起爆装置とは、微妙に違う型番なんです。で、その部品の表面に、ごく微量の指紋が残っていました」
黒澤の表情が、わずかに強張った。
「指紋? そんなものが残るはずが……」
井森はゆっくりと続けた。
「ええ、ほとんど消えていました。でも、部分的に残っていたんです。で、調べたところ、監督さんの指紋と一致しました。でも、監督さんは爆破現場には一度も行っていないはずですよね?」
黒澤は冷静に言い返した。
「私は事前に装置のチェックをしたことがあります。指紋が付くのは当然です」
「ああ、そうですか」
井森は素直に頷き、またノートを閉じかけた。そして、いつものように、立ち上がりかけたところで振り返った。
「あ、もう一つだけいいですか? 本当に些細なことなんですが……」
黒澤は、すでに苛立ちを隠せなくなっていた。
「何です」
井森は、ロケ地で撮影された映像のタイムコードを示した。
「監督さんが〈カット!〉と叫んだ時間は、午後三時十七分四十一秒です。その一秒後に、爆破現場で爆発が起きています。無線での指示は〈起爆せよ〉でしたよね。でも、監督さんが〈カット!〉と叫んだ瞬間、ロケ地のカメラには、監督さんの左手が映っています。その左手に、小さな黒いリモコンのようなものが握られていたんです。助監督が持っていた無線機とは別のものです」
黒澤の顔から、血の気が引いた。
井森は、穏やかな声で続けた。
「監督さん、あのリモコンは、遠隔起爆装置の予備送信機でした。正規の無線機で〈起爆せよ〉と指示を出したあと、念のため、ご自身で直接ボタンを押された。ロケ地にいながら、爆破の瞬間を自分の手でコントロールしたかったんでしょう。完璧なラストカットを、ご自身で切りたかった」
黒澤は、言葉を失った。
「事故にしておくには、あまりにもタイミングが正確すぎました。監督さんの〈カット!〉の声と、爆発の瞬間が、〇・八秒しかずれていない。人間が無線で指示を出してから、助監督がボタンを押すまでの時間としては、短すぎるんです。でも、監督さんご自身が同時にボタンを押していたなら、説明がつきます」
黒澤は、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……見事です、刑事さん」
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その静かな敗北宣言のような言葉に、井森は、しかしまだ、質問を止めなかった。
「監督。動機について、伺ってもよろしいですか」
黒澤は、長い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「佐伯くんは、優秀なプロデューサーでした。彼が集めていた資料も……おそらく、すべて事実でしょう」
「事実だと、認められるんですね」
「認めます。私は、過去、多くの人を、傷つけてきました。予算の流用も、現場での振る舞いも」
黒澤は、疲れたような表情で、続けた。
「でも、それでも、私はこの映画を、完成させたかった。この一作に、私のすべてがかかっていた。国際映画祭での評価、次のキャリア、そのすべてが」
「佐伯さんの告発が、それを崩すと、思われたんですね」
「崩すどころではない。すべてが、終わる」
黒澤の声が、初めて震えた。
「私は、この歳になって、もう一度ゼロから這い上がる力は、残っていません。だから……」
「だから、彼を、消すことを選んだ」
黒澤は、答えなかった。それが、答えだった。
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「監督」
井森の声が、それまでの飄々とした調子から一転、静かだが揺るぎない響きを帯びた。
「あなたは、映画の演出で、いつも〈自然な涙〉や〈心の機微〉にこだわってこられた。今日も、女優さんに〈もっと自然に、目の端から一筋だけ〉と、指示を出されていましたよね」
「……それが、何か」
「でも、あなたご自身は、人の心の機微を、まったく見ていなかったんじゃないですか」
黒澤は、井森を見た。
「佐伯さんが、なぜ、あそこまでのリスクを冒して、告発を決意したか。彼のお兄さんのような立場のスタッフの証言、聞かせてもらいました。彼自身、新人時代、監督の現場で傷ついた知人がいたそうですね。その人のために、佐伯さんは動いていた」
「……」
「あなたは、佐伯さんを、〈自分の栄誉を脅かす邪魔者〉としか見ていなかった。でも、佐伯さんにとっては、それは、正義の問題だった」
黒澤は、深く俯いた。
「映画というのは、不思議なものです」
黒澤は、絞り出すように言った。
「他人の痛みを、繊細に描くことができる。それなのに、現実の他人の痛みには、まるで気づかない人間が、いくらでもいる。私も、その一人だったのでしょう」
「ええ」
井森は、静かに頷いた。
「監督さんの映画には、いつも、美しいラストカットがある。でも、現実の人生には、そんな都合の良い〈カット〉は、ありません」
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その日の夕方、黒澤誠は、殺人容疑で正式に逮捕された。
国内外の映画祭で栄誉を重ねてきた巨匠が、手錠をかけられてスタジオを出ていく光景を、報道陣のフラッシュが、激しく照らし出した。
スタッフたちは、誰も声を上げることなく、ただその背中を見送っていた。
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事件から一ヶ月後。
黒澤の最後の作品は、未完成のまま、製作会社によって公開の中止が発表された。
クランクアップ直前まで撮り続けられていた、あの美しいクローズアップのフィルムも、日の目を見ることはなかった。
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井森は、その頃、佐伯涼の妹、理沙のもとを訪れ、預かっていたUSBメモリを、正式な手続きを経て返却していた。
「本当は、証拠品として保管しておくべきなんですが……これだけは、理沙さんの手元にあるべきだと思いまして」
「ありがとうございます……」
理沙は、USBメモリを胸に抱きしめながら、涙をこらえるように微笑んだ。
「井森さん。兄は……最後まで、誰かのために、闘っていたんですね」
「そうですね」
井森は、静かに頷いた。
「佐伯さんが集めた証言、あれのおかげで、これから声を上げられる人が、きっと増えると思います。彼の闘いは、無駄にはならなかった」
理沙は、小さく頷いた。
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スタジオを出た井森は、ふと足を止め、夕暮れに染まる撮影所の外観を、しばらく見上げていた。
巨大なスタジオの壁には、これまでこの場所で作られてきた、数々の名作映画のポスターが飾られていた。
どれも、美しく、完璧に切り取られた、〈最後の一瞬〉ばかりだった。
だが、そのどのカットにも、フィルムの外側で生きていた、名もなき人々の、切り取られなかった人生があったのだろう。
井森は、そんなことを思いながら、いつものように、ビニール傘を片手に、夕暮れの街へと歩き出した。




