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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第二十三話 完璧なラストカット(上編)

 映画監督・黒澤誠。


 日本映画界を代表する巨匠であり、国際映画祭での受賞歴も複数を数える。次回作は、悲願とも言えるアカデミー賞の有力候補と目されていた。


 その黒澤が、現在撮影中の新作映画のクランクアップ当日、自らのセットで起きた「事故」の渦中に立たされることになるとは、誰も想像していなかった。


『撮影現場で爆発、プロデューサー死亡』


『大規模爆破シーン、演出上のトラブルか』


『巨匠・黒澤誠監督、警察の任意聴取に応じる』


 ニュースは連日、この出来事を報じた。だが、誰もが最初は、これを「不幸な撮影事故」だと信じて疑わなかった。



 ――事件の二週間前。


 都内の編集スタジオの一室。若手プロデューサー・佐伯涼は、一台のノートパソコンの前で、深夜まで一人、資料を作り続けていた。


 佐伯はまだ三十四歳。黒澤作品には三年前から関わり、今回の新作で、初めてクレジット上の「プロデューサー」に昇格したばかりだった。


 その資料には、黒澤誠の過去五年分の作品にわたる、製作費の不透明な流用の記録がまとめられていた。海外ロケの経費として計上されながら、実際には黒澤個人の別荘の改修に充てられていた資金。存在しない「特別コンサルタント料」の名目で、黒澤の親族企業へ流れていた金。


 そして、それ以上に佐伯の心を重くしていたのは、もう一つの資料だった。


 過去、黒澤の現場で被害を受けたという、複数の若手俳優やスタッフからの証言。撮影という密室の中で行われてきた、威圧的な言動と、地位を利用した執拗な要求の数々。多くは泣き寝入りし、業界から静かに姿を消していた。


 佐伯は、その証言の一つ一つを、匿名を条件に、慎重に集めていた。


 佐伯自身、実は黒澤の現場で、かつて心を痛めた経験があった。新人時代、黒澤の言動に耐えかねて現場を去っていった、一人の女優と親しかったのだ。


「もう、見過ごせない」


 佐伯は、資料をまとめ終えた深夜、独り言のように呟いた。


「クランクアップしたら、会社に提出する。黒澤さんの功績とは、別の話だ」



 佐伯は、資料の存在を、黒澤本人には決して悟らせないよう、細心の注意を払っていた。だが、映画業界の情報網は狭い。佐伯が信頼して相談を持ちかけた、ある古参のスクリプターが――黒澤への忠誠心から、こっそりとその動きを黒澤に伝えていた。


「監督。佐伯さんが、良くない資料を集めているようです」


 黒澤は、その報告を受けても、表情を変えなかった。


「良くない資料、とは」


「詳しくは分かりませんが……過去の経費の件や、その、現場での監督の振る舞いについて、証言を集めているようで」


 黒澤は、しばらく無言だった。


 窓の外には、撮影用に組まれた廃工場のセットが、夜の闇の中に沈んでいた。次のクランクアップシーンで使われる、大規模な爆破シーンのための特殊セットだった。


「クランクアップは、いつだったかな」


「二週間後です」


「そうか」


 黒澤は、静かに頷いた。その口元には、誰にも気づかれることのない、ごくわずかな笑みが浮かんでいた。



 黒澤誠にとって、この映画は、単なる一作ではなかった。国際的な栄誉を手にするための、最後の切り札だった。


 これまで積み上げてきた名声。国内外の映画祭で受け取ってきたトロフィー。そのすべてが、この一作にかかっていた。


 そして今、その集大成を、一人の若いプロデューサーが、崩そうとしている。


(――佐伯くん。君は、私が何十年もかけて築いてきたものの価値を、分かっていない)


 黒澤の中で、静かに、しかし確実に、一つの計画が組み上がっていった。



 クランクアップの日。


 この日、撮影されるのは、映画のクライマックスとなる大規模な爆破シーンだった。舞台は、都内近郊の広大な映画スタジオに組まれた、廃工場のセット。特殊効果チームが、数週間かけて周到に準備を進めてきた、この作品最大の見せ場だった。


 黒澤は、この日のスケジュールを、あらかじめ入念に組み立てていた。


 爆破シーンの撮影とは別に、都内の別スタジオで、主演女優のクローズアップシーンを撮影する予定を、あえてこの日に設定したのだ。


「監督、爆破の方は、助監督の田中くんに任せますか」


 制作進行のスタッフが尋ねた。


「ああ。田中は経験も長い。私の演出意図は、事前にすべて伝えてある。当日は無線で最終確認をするから、問題ない」


「分かりました」


 誰も、その采配に、疑問を抱く者はいなかった。黒澤ほどの巨匠が、重要なシーンの現場を離れることは、確かに異例だった。だが、二班同時進行での撮影は、スケジュールが逼迫する大作映画では、決して珍しいことではない。



 黒澤は、事前に、廃工場のセット内に、特殊効果チームの目を盗んで、小型の遠隔起爆装置を仕込んでいた。正規の起爆装置とは別に用意された、その装置は、佐伯が「セット確認」のために立つよう指示された、まさにその位置で作動するよう調整されていた。


 佐伯を、爆破現場に呼び寄せる口実も、黒澤は周到に用意していた。


「佐伯くん。爆破シーンの前に、念のため、セットの最終確認をしてくれないか。カメラアングルとの兼ね合いで、瓦礫の配置を、もう一度確認したい箇所がある」


 その指示は、黒澤の名において、制作進行を通じて佐伯に伝えられた。佐伯は、疑うことなく、その指示に従った。


 クランクアップの高揚感と緊張感の中で、それが自らの死へ続く指示だとは、佐伯は知る由もなかった。



 午後三時。


 都内の別スタジオでは、黒澤が主演女優のクローズアップシーンの撮影を進めていた。


「もっと自然に。目の端から、一筋だけ」


 黒澤は、モニター越しに、細やかな演技指導を続けていた。カメラは回り続け、多くのスタッフが、その様子を見守っていた。すべてが、タイムスタンプ付きの映像として、記録されていく。


 一方、廃工場のセットでは、爆破シーンの準備が、最終段階に入っていた。


 助監督の田中は、無線機を握りしめ、黒澤からの最終指示を待っていた。


 佐伯涼は、指示された通り、廃工場のセット内部――まさに爆破の中心となる位置に立ち、瓦礫の配置を確認していた。


「準備完了、起爆せよ」


 午後三時十七分四十二秒。


 黒澤の声が、無線を通じて、田中のもとへ届いた。


 田中は、その指示に従い、正規の起爆スイッチを押した。


 同時刻、都内の別スタジオ。黒澤は、女優のクローズアップを撮り続けながら、左手に握った、もう一つの小型リモコンのボタンを、静かに押し込んでいた。


「カット!」


 黒澤の声が響いたのと、ほぼ同時――廃工場のセットで、特大の爆発が起きた。


 特殊効果用の爆薬は、通常よりわずかに多く使用されていた。それは、演出上の迫力を増すため、という理由で、事前に黒澤自身が特殊効果チームに指示していたものだった。


 佐伯涼は、爆発の中心に立ったまま、その光の中に消えた。



 現場は、瞬く間に混乱に陥った。


 スタッフたちの悲鳴、駆けつける救急隊員、消火活動にあたる特殊効果チーム。


 佐伯の遺体は、爆発の激しさゆえに、ほぼ原形を留めていなかった。


「事故です……演出上の、不幸な事故です」


 現場責任者は、駆けつけた警察に、震える声で説明した。


 都内の別スタジオから駆けつけた黒澤誠は、誰よりも悲痛な表情を浮かべ、変わり果てた現場に立ち尽くしていた。


「佐伯くん……なぜだ……」


 その姿は、深い悲しみに沈む、名匠の姿そのものだった。



 所轄の初動捜査は、当初「撮影中の事故」という見立てで進んでいた。大規模な爆破シーンでの死亡事故は、過去にも国内外で例のないことではない。特殊効果の管理不備、あるいは佐伯自身の不注意――そうした結論に、傾きかけていた。


 だが、遺族からの強い要望と、佐伯が生前、何らかの「調査」を進めていたという証言がいくつか浮上したことから、警察は正式に事件性の有無を調べることになった。


 捜査一課から、この案件を担当することになったのが、井森正一だった。



 スタジオの受付に現れたのは、薄汚れたトレンチコートに、シワの寄ったスーツを着た、いつものように少し猫背の男だった。


「すみません、井森と申します。今日はどうも、お忙しいところ……。あの、監督さんにお話を伺えるでしょうか? 事故の件で、ちょっと確認したいことがありまして」


 受付のスタッフは、その風采の上がらない姿に、一瞬、戸惑いを見せた。


「あ……はい、少々お待ちください」


 黒澤誠は、応接室で、井森を迎えた。憔悴した表情を、絶妙な加減で見せながら。


「刑事さん。この度は、私のスタッフが……本当に、痛ましい事故でした」


「ええ、本当に。お察しします」


 井森は、深々と頭を下げた。


「監督さんも、大変な思いをされたことでしょう。あんな才能あるプロデューサーさんを、突然亡くされて」


「彼は、私の作品にとって、なくてはならない存在でした」


 黒澤は、静かに目を伏せた。


 井森は、最初、黒澤の目に、明らかな見下しの色が浮かんでいるのに気づいていた。この冴えない刑事に、何が分かるものか――そう言いたげな視線だった。


 だが、井森は、それを気にする様子もなく、へらへらと笑いながら、質問を続けた。



「監督さん、あの日のスケジュール、確認させていただいてもいいですか」


「もちろんです」


「監督さんは、爆破シーンの撮影中、別のロケ地――都内のスタジオで、主演女優さんのクローズアップを撮影されていた、ということですね」


「その通りです」


「タイムスタンプ付きの映像も、確認させていただきました。監督さんは確かに、爆発の瞬間、別の場所にいらっしゃった。素晴らしいアリバイです」


 黒澤は、余裕の笑みを浮かべた。


「刑事さん、事故ですよ。残念な事故です」


 井森は首を傾げながら、手帳をパラパラとめくった。


「ええ、そうですよね。ただ、ちょっと気になることがありまして……。爆破現場の残骸から見つかった〈無線機〉なんですが、助監督さんが持っていたものですね。監督さんから最後に指示を出した時間、記録が残っています。午後三時十七分四十二秒。その直後に爆発が起きています」


「はい。私はそこで〈準備完了、起爆せよ〉と指示を出しました」


「はあ……」


 井森は頷き、また少し間を置いた。


「ところで監督さん、あの日、ロケ地で撮影していたクローズアップのシーン。主演の女優さんが〈涙を流す〉演技をされていましたよね。監督さんは〈もっと自然に、目の端から一筋だけ〉と指示を出されていました。その映像、私も拝見しました。とても美しいカットでした」


 黒澤は、少し苛立ちを隠しながらも、丁寧に応じた。


「ありがとうございます。あのカットは重要でしたから」


「それにしても、あんなに繊細な演技指導をされながら、頭の片隅では、廃工場での爆破の進行も、気にかけていらっしゃったんでしょうねぇ」


「無線を通じて、状況は把握していました」


「両立って、大変じゃないですか。役者さんへの繊細な指示と、爆破の段取りと」


「監督業とは、そういうものです」


 黒澤は、静かに答えた。


 井森は、小さく頷きながら、ノートに何かを書きつけた。


 そして、その日の聴取は、一旦、そこで終わった。


 だが、井森が去り際に見せた、ほんの一瞬の視線――黒澤の左手に、無意識のうちに向けられたその視線に、黒澤自身、気づくことはなかった。



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