第二十二話 不協和音(下編)
メモを見せられた町田は、崩れるように、その場に膝をついた。
「……知っていました」
絞り出すような声だった。
「知っていた、というのは」
「事件の三日前です。康弘のスタジオで、AIツールの画面を、偶然見てしまいました。あいつは、正直に話してくれました。〈参考程度に使っただけだ〉と」
「それを聞いて、どう思われましたか」
「裏切られたと、思いました」
町田の声が、震えていた。
「俺たちは、三十年、誓い合ってきたんです。〈AIの音楽には心がない〉〈俺たちは最後まで、人間の手で音楽を作り続ける〉って。それなのに、あいつは……」
「あいつは、その誓いを、破った」
「そうです」
「でも、事件当日は、〈仲直りの酒〉を持って、スタジオを訪れていますよね」
町田は、答えなかった。
「町田さん」
井森は、静かに、しかし逃さない口調で続けた。
「本当に、仲直りするために、行かれたんですか」
長い沈黙が、部屋に落ちた。
⸻
井森は、鑑識から新たな報告を受け取っていた。
町田の自宅から、任意提出を受けたグレーのコート。その繊維が、現場のマイクスタンドに残っていた微細な繊維片と、完全に一致した。
さらに、コートの袖口からは、ごく微量の血液反応が検出された。DNA鑑定の結果は、穂苅康弘のものと一致した。
「町田さん」
井森は、その結果を、静かに町田の前に置いた。
「コートの繊維と、血液反応。これで、あなたが事件当夜、穂苅さんに、直接手を触れたことは、動かしようのない事実になりました」
町田は、もう、否定しなかった。
「……はい」
「マイクスタンドで、殴られたんですね」
「……はい」
町田の目から、涙がこぼれ落ちた。
「殺すつもりは、なかったんです。ただ、あいつが、あんなに簡単に、俺たちの誓いを裏切ったことが、許せなくて……気づいたら、スタンドを、振り下ろしていました」
「殴った後、康弘さんは、まだ息がありましたね」
町田の肩が、大きく震えた。
「……はい」
「その後、クッション材で、口元を塞いだ」
町田は、答えなかった。それが、答えだった。
「なぜです」
「怖かったんです」
町田は、両手で顔を覆った。
「あいつが、生きていたら……俺のしたことを、誰かに話されたら……俺は、終わりだと思いました」
「そして、パソコンのAI使用履歴を消したのも、あなたですね」
「……はい」
「それは、康弘さんの名誉のためだと、おっしゃっていましたが」
井森は、静かに首を振った。
「本当は、違ったんじゃないですか。あなた自身が、〈AIに裏切られた親友を殺した〉という事実そのものを、消し去りたかったんじゃないですか」
町田は、崩れ落ちるように、床に突っ伏した。
「……いえ。あいつに俺を裏切らせたAIとのコラボの痕跡を消したかった。AIが憎かったんだと思います。」
⸻
「町田さん。一つ、お聞きしたいことがあります」
井森の声が、それまでの飄々とした調子から一転、静かだが、揺るぎない響きを帯びていた。
「あなたが、ここまで怒りを感じた本当の理由は、〈AIの誓いを破られたこと〉だけだったんでしょうか」
町田は、顔を上げた。
「どういう、意味ですか」
「あなたは、三十年、鳴かず飛ばずのまま、音楽を続けてこられた。今は、音楽教室の講師をされている。一方、康弘さんは、AIという道具を使ってでも、ついに世界に――ビルボードに、届いた」
町田は、何も言い返さなかった。
「〈誓いを破られた〉という怒りの裏に、〈自分だけが、置いていかれた〉という思いが、ジェラシーがなかったと言えますか」
町田は、しばらくの間、無言だった。
やがて、絞り出すように、口を開いた。
「……ありました」
その声は、消え入りそうなほど小さかった。
「俺は、康弘のことを、ずっと羨ましく思っていました。あいつには、才能があった。俺にはなかった。でも、〈俺たちは、人間の手で音楽を作り続ける〉という誓いだけは、俺にも、あいつと同じ資格があると、思えました」
「その誓いが、あなたを、支えていた」
「そうです。それなのに、あいつは……その誓いすら、俺から奪っていった」
町田は、声を絞り出すように、続けた。
「俺は、康弘の才能に嫉妬していたんじゃない。康弘が、俺たちの、最後の共通点まで、あっさり手放したことが……許せなかったんです」
井森は、静かに、町田を見つめた。
「でも、康弘さんは、事件の直前、あなたに正直に打ち明けようとしていました。〈俺たちの音楽は、変わってもいい。友情は、変わらないはずだ〉と、メモに残していた」
町田の目から、再び、涙があふれた。
「知りませんでした……あいつが、そんなことを、思っていたなんて」
「友情の形も、時代とともに、変わっていいものだったのかもしれません」
井森は、静かに言った。
「でも、それを受け入れる前に、あなたは、康弘さんの命を、奪ってしまった」
町田は、もう、何も言わなかった。
⸻
その日の夕方、町田哲太は、殺人容疑で正式に逮捕された。
音楽教室の生徒たちが、変わり果てた講師の姿を報道で知ることになるとは、誰も想像していなかった。
⸻
事件から二週間後。
穂苅康弘の追悼コンサートが、小さなライブハウスで開かれた。
彼の代表曲――AIを使って生まれたあの一曲も、静かに流された。
井森は、コンサートを主催したレコード会社のディレクター、西尾に、静かに尋ねた。
「あの曲、流すことに、迷いはなかったんですか」
「ありました」
西尾は、正直に答えた。
「でも、康弘さんが、あの曲に込めた歌詞は、正真正銘、彼自身の言葉でした。歌っているのも、彼自身の声です。骨格を、AIの力を借りて作ったからといって、その歌に込められた想いまで、偽物になるわけじゃない――そう、思うことにしました」
井森は、静かに頷いた。
「町田さんは、それを、〈魂を売った〉と感じたんでしょうねぇ」
「でも、本当に、魂を売っていたのは……」
西尾は、言葉を濁した。
「いえ、何でもありません」
井森は、小さく笑った。
「〈誰が、何を使って作ったか〉より、〈何のために、それを作ったか〉の方が、大事なんでしょうねぇ、きっと」
ライブハウスの外に出ると、夜風が、静かに吹き抜けていった。
どこか遠くの店から、小さく音楽が流れてきていた。
それが、人の手で作られたものなのか、機械の助けを借りたものなのか、井森には、分からなかった。
ただ、その旋律は、確かに、誰かの心に、何かを残そうとしているように、聞こえた。




