第二十一話 ランウェイの舞台裏(下編)
「針、というのは、何のことです」
谷本は、努めて平静を装いながら聞き返した。
「ドレスの肩の裏地に、細い金属針が仕込まれていたんです。人が袖を通した時、肩へ浅く刺さるような位置に」
井森は、静かに続けた。
「その針には、薬剤が塗られていました。紗夜さんの血液から検出されたものと、同じ成分が」
「馬鹿な」
谷本は、かすれた声で言った。
「紗夜は、あのドレスを着ていません。試着もしていないと、あなた自身がおっしゃったはずだ」
「ええ。着ていません」
井森は頷いた。
「でも、届いたドレスを、衣装カバーから取り出して確認はしています。その時に、肩の裏地に触れた」
「それだけで、針が刺さると?」
「ごく浅く、皮膚に触れる程度の位置に、仕込まれていたんですよ」
井森はポケットから、紗夜の遺体写真の一部――右肩の後ろに残された、小さな赤い点を拡大したものを取り出した。
「解剖時には、虫刺されか、撮影現場でできた小さな傷だろうと判断されていました。でも、鑑識で再検査したところ、この位置と深さは、輸送用の衣装カバーの内側から生地に触れた際にできる傷と、一致することが分かりました」
谷本は、何も言わなかった。
「そして、翌朝発見された時には、その針は――もう、ドレスのどこにもありませんでした」
「回収されていた、ということですか」
「ええ。何者かが、紗夜さんの死後、部屋に立ち入って、針だけを回収していったんです」
谷本の指先が、かすかに震えた。
「証拠にはならない」
「そうですねぇ。針そのものが見つかっていない以上、確かに、直接的な証拠にはなりません」
井森は認めた。
「ですから、もう一つ、伺いたかったんです」
「まだあるのか」
「先生のアトリエで、事件当日の朝、廃棄物として処理された医療系サプライヤーの発注記録を、確認させていただいたんですが」
谷本の顔から、完全に血の気が引いた。
「先生のブランドは、以前、フランス人の皮膚科医と共同で、高級素材向けの染色補助剤を開発された経緯があるそうですね」
「……それが、何だと」
「その化学者、実は裏で、微量の鎮静作用を持つ薬剤も扱っていたことが分かりました。国際刑事の協力で、フランス側から入手経路の記録を取り寄せたところ――事件の三週間前に、先生名義で、ごく少量の薬剤が発注されていました」
谷本は、椅子に体を沈めた。
「その薬剤の化学的特性が、紗夜さんの血液から検出されたものと、完全に一致しています」
「状況証拠に過ぎない」
「ええ、状況証拠です。でも、状況証拠が、これだけ積み重なると――」
井森は、静かに机の上に、もう一枚の紙を置いた。
「先生の運転手さんの証言も、取れました」
谷本は、目を閉じた。
「発表会当日、午後九時五十二分に地下駐車場を出て、午後十時十四分に戻った。その間、先生は〈気分が優れないので、外の空気を吸ってくる〉とおっしゃった。運転手さんは、行き先も聞かず、ただ従ったそうです」
「それが、どこへ向かったかまでは、分からないはずだ」
「車のナビゲーションシステムの走行記録、消去されていましたよねぇ」
谷本の肩が、わずかに震えた。
「でも、最近の車は、ナビとは別に、緊急通報システム用のGPSログが、独立して記録される仕様になってるんです。先生の秘書の方は、ご存知なかったみたいで」
井森は、静かに続けた。
「そのログに、事件当夜、紗夜さんのマンション付近を、車が通過した記録が、確かに残っていました」
谷本は、もう何も言い返さなかった。
⸻
「先生」
井森の声が、それまでの飄々とした調子から一転、静かだが揺るぎない響きを帯びた。
「紗夜さんが、最後に何を言おうとしていたか、ご存知ですか」
谷本は答えなかった。
「紗夜さんのカメラに、ボイスメモが残っていました。事件の一週間前、先生との会話を、録音していたんです」
井森は、小型の再生機を取り出した。
『次のパリで終わりにする』
紗夜の声が、静かな部屋に響いた。
『誰が君をここまで連れてきたと思っている』
谷本自身の声。
『あなたよ。でも、これからどこへ行くかは私が決める』
『君は私の服を着ていればいい』
『私は服じゃない』
録音が途切れた後、部屋には、長い沈黙が落ちた。
「彼女は、あなたの服じゃなかった」
井森は言った。
「でも、あなたはずっと、彼女を〈自分が作った作品〉だと思っていた。だから、彼女が自分の意志で、別の道を歩もうとした時――それが、あなたには、〈作品の破壊〉に見えたんじゃないですか」
谷本の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「私は……」
「紗夜には才能があった。カメラの前でも、後ろでも――先生は、最初の事情聴取で、そうおっしゃいましたね。あれは、本心だったと思います」
「本心だ」
谷本は、絞り出すように言った。
「彼女の才能を、誰よりも理解していたのは、私だった」
「でも、その才能が、あなたの手を離れて、別の場所で花開くことは、許せなかった」
谷本は、両手で顔を覆った。
「私は、彼女を世界に出した。無名だった彼女に、名前を与えたのは、私だ。それなのに――」
「それなのに、最後は、あなたの元を去ろうとした」
「彼女は、私がいなければ、ただの女の子だった」
「そうでしょうか」
井森は、静かに首を振った。
「紗夜さんは、あなたのドレスを着て世界に出た。でも、最後には、自分自身の目で世界を見ようとしていた。誰かに着せられたものじゃなく、自分で選んだ人生を」
谷本の肩が、大きく震えた。
「先生が守ろうとしたのは、紗夜さんだったのか、それとも、〈自分が紗夜さんを作った〉という、その事実そのものだったのか。私には、正直、後者のように見えます」
谷本は、もう答えなかった。
⸻
その日の夕方、谷本真斎は、殺人容疑で正式に逮捕された。
世界的なデザイナーが、手錠をかけられてアトリエを出ていく光景を、報道陣のフラッシュが激しく照らし出した。
従業員たちは、誰も声を上げることなく、ただその背中を見送っていた。
⸻
事件から一週間後。
紗夜が最後に撮影した写真が、小さなギャラリーに展示された。
華やかなファッション写真は、一枚もなかった。
ミシンに向かう少女。糸で傷ついた指。昼食を分け合う縫製工たち。狭い窓から差し込む光。
展示の最後に、一枚だけ、自画像があった。
鏡の前に立つ紗夜。化粧をせず、髪を後ろで束ね、白いシャツを着ている。
有名モデルには見えなかった。ただ、一人の女性がカメラを見つめていた。
井森は、その写真の前で、しばらく足を止めていた。
「谷本は、彼女を愛していたんでしょうか」
同行していた若い刑事が尋ねた。
「愛していたんでしょうねぇ」
井森は、写真を見つめたまま答えた。
「でも、人を愛するのと、持ち物にするのは、時々、よく似て見えることがありますから」
「では、谷本が本当に愛していたのは、何だったんでしょう」
井森は、少し考えてから、静かに答えた。
「紗夜さんを着た、自分自身の才能――ですかねぇ」
井森は、ゆっくりと出口へ向かった。
ギャラリーの外では、秋の風が吹いていた。
ショーを終えたあとのランウェイのように、白い壁だけが、静かに残っていた。




