第二十一話 ランウェイの舞台裏(中編)
山内紗夜の死から五日が経った。
所轄では「薬の誤用による事故」という見方が強まりつつあった。海外を飛び回る多忙なモデルが、処方薬と何らかの市販薬を、うっかり併用してしまった――そういう筋書きが、報道の論調とも一致していた。
だが、井森正一だけは、違った。
彼は捜査本部にほとんど顔を出さず、一人で紗夜の交友関係を、まるで散歩でもするかのように洗い直していた。
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「紗夜さんの、マネージャーさんですよね」
所属事務所のビル前で、煙草を吸っていた女性に、井森はへらへらと笑いながら声をかけた。
「あ……はい、そうですけど」
「捜査一課の井森です。すみませんね、お忙しいところ。ちょっとだけ、お時間よろしいですか」
マネージャーの名は、久保田玲子といった。紗夜が無名だった頃から、八年にわたって彼女を支えてきたという。
「紗夜さん、亡くなる前、何か変わった様子はありませんでしたか」
「変わった様子、というか……」
久保田は煙を吐きながら、少し言い淀んだ。
「ここ数ヶ月、すごく生き生きしてたんです。写真の仕事に本腰を入れ始めてから。夜遅くまで、一人で現像や編集をしていて。でも……」
「でも?」
「谷本先生との関係が終わってから、なんとなく、身辺に気をつけてるような感じがありました。前は無防備だった玄関の鍵を、二重にかけるようになったり」
「谷本さんを、警戒していた?」
「はっきりとは、口にしませんでした。でも……あの人と別れることを、簡単には許してもらえないだろうって、覚悟してたんだと思います」
「なるほど、なるほど」
井森は手帳に、ゆっくりとした文字で何かを書きつけた。
「紗夜さんが撮っていた、工場の写真のことは、ご存知でしたか」
「ええ。写真展の準備を、手伝っていました」
「谷本さんは、その件をご存知でしたか」
久保田は一瞬、口をつぐんだ。
「知っていたはずです。紗夜さん、本人からはっきり伝えたと言ってましたから。〈あなたの服の美しさの下に隠れている人たちも、撮りたい〉って」
「谷本さんの反応は?」
「かなり、動揺していたようです。紗夜さんいわく、〈一枚の写真で、何百人が職を失うか分かっているのか〉って、怒鳴られたと」
「怒鳴られた、ですか」
井森は、静かに頷いた。
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その足で、井森は谷本のブランドの製造管理部門に接触を試みた。
だが、担当者は弁護士を通じて取材を拒否。当然だ、下請け工場の実態が公になれば、ブランドイメージへの打撃は計り知れない。
井森は代わりに、紗夜が撮影した工場の写真データを、鑑識に依頼して詳細に分析させた。
写真には、撮影日時と、位置情報の記録が残っていた。東南アジアのある縫製工場。紗夜が視察に訪れた三回のうち、最後の一回――谷本自身が写り込んでいた回――の日付を確認すると、谷本の海外渡航記録と、完全に一致した。
「先生も、同じ場所に行ってたんですねぇ」
井森は、写真を見ながら独り言のように呟いた。
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夕方、井森は谷本のアトリエを再び訪れた。
新作のフィッティングが行われている最中だった。若いモデルが一人、白い布を体に当てられたまま立っている。谷本はモデルの肩をつかみ、数センチ位置を変えた。
「違う。そこでは服が死ぬ」
モデルは無言で従った。
井森はその様子を、しばらく眺めていた。
「大変ですねぇ。人に服を着せるっていうのは」
谷本は答えなかった。
「先生。少し伺いたいことが」
「まだ何か」
「紗夜さんが撮っていた、東南アジアの工場の写真なんですが」
谷本の指先が、わずかに止まった。
「あの写真に、先生も写り込んでたんですよねぇ」
「視察です。デザイナーが自社の製品がどう作られているか確認するのは、当然のことでしょう」
「ええ、ええ。それはそうです。ただ、公式には〈フランスとイタリアの工房で作っている〉ということになってますよね」
「最終工程は、そちらで行っています」
「最終工程、ですか」
井森は、へらりと笑った。
「紗夜さんは、そのあたりの事情も、写真展で発表するつもりだったそうで」
「彼女は、分かっていなかった」
谷本の声が、初めてわずかに強くなった。
「一枚の写真で、何百人が職を失うか」
「先生も、そうおっしゃったそうですね。紗夜さんに」
谷本は答えなかった。
「マネージャーさんから伺いました。〈怒鳴られた〉と、紗夜さんが漏らしていたそうです」
「議論が白熱することは、よくあることです」
「そうですかぁ」
井森は、コートのポケットに手を突っ込んだ。
「ところで先生。あの晩、発表会の映像を、警察の方で全部確認させてもらったんですが」
「アリバイなら、すでにご確認いただいたはずです」
「ええ、素晴らしいアリバイでした。八時から十一時まで、ほぼずっと会場にいらっしゃった」
「ほぼ、ですか」
「実は、映像に映っていない時間が、少しだけあるんですよ」
谷本の目が、井森を捉えた。
「午後九時四十八分から、十時十九分まで。三十一分間、先生の姿が、どの映像にも記録されていません」
「控室にいました。体調が優れなかったので」
「控室には、誰か一緒にいましたか」
「一人でした」
「そうですかぁ。控室の裏口、車で七分ほど走ると、紗夜さんのマンションに着くんですよねぇ」
「何が言いたいんです」
井森は、穏やかに笑った。
「いえ、単なる地理の話です」
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その夜、谷本は自宅の書斎で、密かに秘書に電話をかけていた。
「――控室の出入りについて、警察に何か聞かれても、私は終始控室にいたと答えるように、スタッフに徹底させてくれ」
電話を切ったあと、谷本は深く息を吐いた。
(あの刑事……ただの間抜けではない)
だが、まだ大丈夫だ。証拠は、何一つ残していないはずだ。針も、車の記録も――いや、車の記録だけは、消しようがない。だが、それだけでは、殺人の証明にはならない。
あとは、あの井森という男の追及を、どう躱すかだけだ。
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翌日。
井森は、紗夜の自宅マンションの管理会社を訪れていた。
「業務用エレベーターの利用記録、確認させていただけますか」
管理担当者は、渋い顔をした。
「あのエレベーター、実は先月、記録システムの更新工事をしていまして。工事期間中は、一時的に入退室記録が取れない状態だったんです」
「その工事期間というのは」
「ちょうど、事件のあった週を含んでいます」
井森は、小さく唸った。
(――谷本は、それを知っていたのか。それとも、偶然か)
「ただですね」
管理担当者が、思い出したように付け加えた。
「業務用エレベーターの入り口には、記録カメラこそありませんが、共用部の防犯カメラの死角に入らない、唯一のルートがあるんです。搬入口から中庭を通って、直接エレベーターホールへ抜ける通路。あそこだけは、なぜか警備会社の設計図には載っていない、古い抜け道でして」
「載っていない、というのは?」
「このマンション、もともとは古い倉庫を改装したビルなんです。当時の搬入経路が、そのまま残っていて。今の防犯システムを設計した業者は、多分、その存在を把握していなかったんじゃないかと」
井森の目が、わずかに光った。
「その通路、谷本さんが知っていた可能性は?」
「さあ、それは……あ、そういえば」
管理担当者が、ふと思い出したように言った。
「このマンション、実は谷本先生のブランドが、以前、撮影で使わせてほしいと申し込んできたことがあるんです。二年ほど前に。その時、搬入経路の下見をされていました」
井森は、静かに頷いた。
(――知っていた。谷本は、その抜け道を、二年前から知っていた)
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井森は、紗夜のカメラのメモリーカードを、鑑識に依頼して徹底的に解析させた。
写真データの中に、紗夜が撮影者として自分自身を記録するために使っていた、ボイスメモのアプリの履歴が見つかった。
事件の一週間前――谷本のアトリエでの会話を、紗夜は密かに録音していたのだった。
井森は、そのデータを再生した。
『次のパリで終わりにする』
紗夜の声だった。
『終わりとは何だ』
谷本の声。
『あなたのショーに出るのをやめる。私たちの関係も』
『誰が君をここまで連れてきたと思っている』
『あなたよ。でも、これからどこへ行くかは私が決める』
『君は私の服を着ていればいい』
『私は服じゃない』
そこで、録音は途切れていた。
井森は、しばらくの間、無言で、暗くなった画面を見つめていた。
(――紗夜さんは、この会話を、誰かに聞かせるつもりだったのか。それとも、自分自身のための、記録として)
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その日の夕方、井森は再び、谷本のアトリエを訪れた。
「先生。もう一つだけ、伺いたいことが」
「まだあるのか」
「紗夜さんのマンション、以前、先生のブランドが撮影で使わせてほしいと申し込んだことがあったそうですね。二年前に」
谷本の顔が、初めて、はっきりと強張った。
「……それが、何か」
「その時、搬入経路の下見をされたと伺いました。業務用エレベーターや、中庭を通る古い通路のことも」
「撮影の準備として、当然のことです」
「ええ、ええ。当然のことです。ただ――」
井森は、コートのポケットから、一枚の紙を取り出した。
「あの通路、実は今のマンションの防犯システムの設計図には、載っていないんです。二年前に先生が下見をされた時から、ずっと。今の管理会社も、警備会社も、その存在に気づいていない」
谷本は答えなかった。
「先生だけが、知っていたんですねぇ。その、死角のことを」
井森は、静かに谷本を見つめた。
「まるで――いつか使うことを、見越していたみたいに」
アトリエの空気が、凍りついた。
「証拠にはならない」
谷本は、絞り出すように言った。
「二年前に下見をしたことと、今回の事件に、何の関係がある」
「そうですねぇ。それだけなら、確かに、何の証拠にもなりません」
井森は、へらりと笑った。
「でも、もう一つ、気になっていることがあるんですよ」
「何だ」
「あのドレスの、針のことです」
谷本の目が、大きく見開かれた。




