第二十一話 ランウェイの舞台裏(上編)
日本を代表するモデル、山内紗夜が死んだ。
三十二歳だった。
パリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨーク。世界四大コレクションのすべてを歩き、日本人モデルとして初めて数々の海外メゾンの広告に起用された女性だった。
長い黒髪、東洋的な切れ長の目、細く伸びた手足。ランウェイに現れた瞬間、会場の空気を変えるモデルだと評された。
その突然の死は、朝からあらゆる報道番組で伝えられた。
だが、どの報道も死因には触れなかった。
『山内紗夜さん、自宅で突然死』
『世界で活躍した日本人トップモデル』
『所属事務所は詳細について回答せず』
病名も、発見時の状況も、葬儀の日程も公表されなかった。ただ、彼女が死んだという事実だけが、繰り返し読み上げられていた。
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――事件の一週間前。
パリコレクションを二週間後に控えた谷本真斎のアトリエは、深夜になっても煌々と明かりが灯っていた。
五十七歳の日本人デザイナー。パリに拠点を置き、東洋の伝統的な意匠と西洋の鋭い構築性を融合させた服で、世界的な評価を確立した男だった。
その谷本のブランドが世界へ羽ばたくきっかけを作ったのが、山内紗夜という女だった。
十年前、無名に近かった紗夜が、谷本の黒いドレスを纏ってパリのランウェイに立った。翌日、海外紙は彼女を「沈黙する黒い炎」と評した。あの一枚の写真によって、紗夜は世界へ羽ばたき、谷本もまた国際的デザイナーとして名を刻んだ。
以来十年、紗夜は谷本のすべての重要なコレクションに出演し続けてきた。世間は彼女を「谷本のミューズ」と呼んだ。
そして誰にも公言されていないが――二人は、十年にわたる愛人関係にあった。
谷本には妻がいる。だが、業界の誰もがその関係を知りながら、口をつぐんでいた。ファッション業界にとって、沈黙もまた契約の一部だった。
その夜、紗夜はアトリエを訪れ、谷本にこう告げた。
「次のパリで終わりにする」
谷本は手にしていた生地見本を、静かに机へ置いた。
「終わりとは、何のことだ」
「あなたのショーに出るのをやめる。私たちの関係も」
「誰が君をここまで連れてきたと思っている」
「あなたよ」
紗夜は谷本を真っ直ぐに見た。
「でも、これからどこへ行くかは、私が決める」
「君は私の服を着ていればいい」
「私は服じゃない」
谷本の顔から、表情が抜け落ちた。
「来月から、写真の仕事を本格的に始めるの。モデルを完全に辞めるわけじゃない。でも、大きく減らす」
「写真だと?」
「あなたのブランドが、どこでどう作られているか――その現実を、撮ってきた」
谷本の目が細まった。
「何を言っている」
「東南アジアの縫製工場。あなたが〈フランスとイタリアの工房で作っている〉と宣伝している服の、多くがそこで縫われている。低賃金で、若い女の子たちが」
紗夜はバッグから一枚のプリントを取り出し、机に置いた。
狭い室内に並んだミシン、俯く少女たちの姿。そして、写真の隅に、視察に訪れていたらしい谷本自身の姿が写り込んでいた。
「写真展で発表するつもりよ」
「馬鹿な真似はやめろ」
谷本の声が、初めて低く、鋭くなった。
「一枚の写真で、何百人が職を失うか分かっているのか。何十年かけて築いてきたブランドが、どれほど簡単に壊れるか」
「ブランドを守るために、若い子たちの人生を搾取し続けるの?」
「紗夜は私が作った」
谷本は言った。アトリエの空気が凍りついた。
「世界は、私の服を着た君を見て、君が何者かを知った。それを決めたのは、私だ」
「あなたなしでは、私は世界へ出られなかった。それは認める」
紗夜は静かに、しかしはっきりと言った。
「でも、あなたなしで生きようとすることまで、あなたが決める権利はない」
谷本は答えず、紗夜の背中を見送った。
扉が閉まったあと、谷本はしばらく、動かなかった。
そして、机の引き出しから、小さな金属製のケースを取り出した。
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谷本は、かつて自身のブランドの一部製品を、フランス人皮膚科医と共同開発した経緯があった。表向きは高級素材向けの染色補助剤という名目だったが、その化学者は裏で、微量で強い鎮静作用を持つ薬剤の扱いにも通じていた。
谷本は、その伝手を使い、ごく少量の薬剤を手に入れていた。単体では致死量に達しない。だが、紗夜が処方されている睡眠導入剤と重なれば、呼吸を静かに止めるには十分だった。
谷本は、次のコレクションのために用意していた新作ドレス――黒地に銀糸の刺繍を施した一着を手に取った。
肩の裏地に、ごくわずかな縫い直しを加える。そこに、極細の金属針を仕込んだ。針の先には、先ほどの薬剤が塗られている。人が袖を通し、肩を覆う瞬間に、皮膚へ浅く刺さるように計算された位置だった。
「紗夜には才能がある」
谷本は、針を仕込みながら、独り言のように呟いた。
「カメラの前でも、後ろでも」
その言葉に、皮肉な響きが混じっていることに、谷本自身、気づいていなかった。
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事件当日。
午後四時十五分、谷本のアトリエから一着の衣装ケースが発送された。
午後六時前、紗夜の自宅マンションへ届けられた。受け取ったのは紗夜本人。
「次のコレクションで、着てほしい」
同封されていたメッセージカードには、そう書かれていた。谷本の直筆だった。
紗夜は、その夜、発送されてきた衣装カバーを開け、ドレスを取り出した。
肩に、微かな痛み。
針に気づくことはなかった。虫刺されか、輸送中に何かが擦れたのだろうと思い、気にも留めなかった。
紗夜はドレスを試着せず、丁寧にハンガーへ戻し、リビングの壁に掛けた。次のショーには出ない、と決めていたからだ。
そのまま、いつものように睡眠導入剤を一錠、水と一緒に飲み、ソファに腰を下ろした。
肩に刺さった針から入り込んだ薬剤が、体内でゆっくりと広がっていく。
睡眠導入剤と作用が重なり、呼吸が、少しずつ、静かに、抑制されていく。
紗夜はソファの上で目を閉じた。
もう一度、目を開けることはなかった。
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午後七時。
谷本真斎は、青山のショールームで開かれる新作発表会の会場入りをしていた。
国内外の記者、バイヤー、芸能人、モデル――百人以上が出席する、大規模な発表会だった。
谷本は午後八時に登壇し、挨拶を行った。午後八時四十分には記者の取材を受け、午後九時半には海外バイヤーと写真に納まっていた。
完璧なアリバイの中に、谷本は身を置いていた。
だが、午後九時四十八分。
谷本はさりげなく控室へ下がった。
「少し休ませてくれ」
スタッフにそう告げ、扉を閉める。
控室の裏口から、待たせていた車に乗り込んだ。運転手には、あらかじめ「気分が優れないので、少し外の空気を吸いに行く」とだけ伝えてあった。
車は、紗夜のマンションへ向かった。
谷本の目的は、殺害そのものではなかった。すでに、薬は仕込んである。谷本がすべきことは、ただ一つ――ドレスの肩に仕込んだ、あの針を回収することだった。
マンションの搬入口には、大型の衣装や機材を運ぶための業務用エレベーターがあり、管理会社の記録には残らない時間帯があることを、谷本は事前に把握していた。
紗夜の部屋の合鍵は、十年の関係の中で、密かに複製していた。
午後十時七分、谷本は紗夜の部屋に入った。
リビングのソファに、紗夜が横たわっていた。
微動だにしない。
谷本は、しばらくその場に立ち尽くした。
そして、壁に掛けられたドレスに歩み寄り、肩の裏地から、細い金属針を丁寧に抜き取った。
その手つきは、まるで長年、服を仕立ててきた職人のそれだった。
「悪いが、紗夜」
谷本は、死んだ女に向かって、静かに呟いた。
「お前を作ったのは、私だ。それを、お前が壊すわけにはいかない」
針をポケットに収めると、谷本は来た道を戻り、午後十時十九分、発表会場へと帰還した。
三十一分間の不在に、誰も気づいた者はいなかった。
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午後十時二十分、谷本は会場中央で乾杯の音頭を取っていた。
午後十一時、最後の来賓を見送った。
その笑顔は、完璧だった。
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紗夜の遺体が発見されたのは、翌朝のことだった。
発見者は、所属事務所のマネージャー。撮影に現れず、電話にも出ないため、合鍵を使って室内へ入った。
紗夜はリビングのソファの横に倒れていた。
部屋に争った形跡はない。玄関は施錠され、防犯カメラにも不審者は映っていなかった。現金や貴金属が盗まれた形跡もない。
遺体のそばには、水の入ったグラスと、小さな薬のケースが落ちていた。
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「持病ですか」
若い刑事が、駆けつけたマネージャーに尋ねた。
「特に聞いていません。ただ、海外移動が多かったので、睡眠導入剤を処方されることはあったようです」
「自殺の可能性は?」
「ありません」
マネージャーは即座に否定した。
「来月から、新しい仕事を始める予定でした」
「モデルの仕事ですか」
「いえ」
少し間を置いて答えた。
「写真です」
その現場に、よれたベージュのコートを着て、片手に安っぽいビニール傘を提げた男が現れたのは、それから四十分後のことだった。
「あの、すみません……ちょっとよろしいですかね」
規制線の前で、若い刑事に申し訳なさそうに声をかける。
「捜査一課の井森と申します。この現場、担当することになりまして」
「あ、井森警部……! 失礼しました、どうぞ」
井森正一は、ぺこぺこと頭を下げながら規制線をくぐった。
室内に入ると、まず、壁際に置かれた数台のカメラに目を留めた。
「モデルの仕事をされてる方の部屋にしては、随分本格的なカメラですねぇ」
「写真家になるつもりだったんです」
マネージャーが答えた。
「モデルを完全に辞めるわけではありません。でも、仕事をかなり減らすと言っていました」
「そうですかぁ」
井森は、床に落ちた薬のケースを覗き込んだ。中には、錠剤が一つだけ残っていた。
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解剖の結果、紗夜の血液から二種類の薬物が検出された。
一つは本人に処方されていた睡眠導入剤。もう一つは、紗夜には処方されていない、鎮静作用の強い薬剤だった。
それぞれ単独なら致死量には達していない。だが、二つが同時に体内へ入ったことで呼吸が抑制され、心停止に至った可能性が高かった。
「事故じゃないんですか」
若い刑事が言った。
「薬の飲み合わせを間違えたとか」
「そうかもしれませんねぇ」
井森は検査報告書を見ながら答えた。
「でも、山内さん、この薬を持ってなかったんですよ」
紗夜の自宅にも、事務所にも、かかりつけの医療機関にも、二つ目の薬剤の記録はなかった。
「誰かが、持ち込んだ」
「あるいは、別のものに混ぜた、ですかねぇ」
室内に残されていた水や飲食物からは、薬剤は検出されなかった。
「じゃあ、どうやって体に入ったんでしょう」
「そこなんですよねぇ」
井森は、部屋の壁に掛けられたままの、一着の黒いドレスに目を留めた。
肩から胸元にかけて、銀糸の刺繍が施された、美しい一着だった。
「あれは?」
「谷本先生の新作です」
マネージャーが答えた。
「次のコレクションで着る予定だったんです。でも、紗夜は断りました」
「どうしてです?」
「モデルの仕事を減らすと決めていましたから。谷本先生のショーも、次で最後にすると」
「最後」
井森はドレスを見上げた。
「先生は、納得していたんですかねぇ」
「表向きは」
マネージャーは言葉を濁した。
「でも、かなり揉めていたと思います」
「恋愛のことで?」
「それだけじゃありません」
井森は、ドレスに近づき、透明な衣装カバー越しに、じっと見つめた。
(――この服が、届いた日に、山内さんは死んだ)
その符合が、井森の中に、小さな、しかし確かな引っかかりとなって残った。
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谷本真斎が事情聴取に応じたのは、紗夜の死から三日後だった。
黒いシャツに黒いジャケット。襟元には細い銀色のピン。五十七歳には見えないほど姿勢がよく、指先まで神経が行き届いていた。
「最後に山内さんと会ったのは、いつですか」
若い刑事が尋ねた。
「二週間ほど前です」
「連絡は?」
「仕事上のものだけです」
「亡くなった夜は、どちらに?」
「青山のショールームです。次のコレクションの発表会がありました」
その証言を裏付けるように、発表会の映像記録には、午後八時から午後十一時まで、谷本の姿が繰り返し映し出されていた。
「山内さんがモデルの仕事を減らす予定だったことは、ご存じでしたか」
「聞いていました」
「反対しましたか」
谷本はわずかに微笑んだ。
「彼女の人生ですから」
「写真家になるつもりだったそうですね」
「紗夜には才能がありました。カメラの前でも、後ろでも」
「そうですかぁ」
井森は谷本の指を見ていた。長く、細い指。爪には透明な光沢があった。
「先生は、山内さんのことを紗夜さんって呼ぶんですねぇ」
谷本は井森を見た。
「長い付き合いでしたから」
「二週間、会っていないのに」
「何か問題がありますか」
「いえいえ」
井森は小さく頭を下げた。
「ところで先生。あのドレス――山内さんの部屋にあった、新作なんですが」
「はい」
「山内さんは、あれを着たんでしょうか」
「着たと思います」
谷本は迷いなく答えた。
「紗夜のために作った服です。届けば必ず袖を通します」
「そうですかぁ」
井森は、へらりと笑った。
「いや、実はですね。あのドレス、しつけ糸が残ってたんですよ。裾にも、輸送の時についたと思われる折り目がそのまま。ファスナーにも、人が触った跡がほとんどなくて」
谷本の表情が、ほんの一瞬だけ、動いた。
「試着したあと、元へ戻したのでしょう。モデルですから、服の扱いには慣れています」
「そうですかぁ、そうですかぁ」
井森は手帳に、何かをゆっくりと書きつけた。
「いや、すみませんね、つまらないことを伺って。今日のところは、これくらいで」
井森は、コートの裾を揺らしながら、部屋を出ていった。
残された谷本は、しばらくの間、微動だにせず、その場に立っていた。
窓の外には、秋の気配を纏った、都心の夕暮れが広がっていた。




