第二十話 堕ちた五つ星(下編)
金庫から見つかった手紙は、三十年以上前に書かれた、ひどく古びたものだった。
差出人は「佳代」という女性。宛先は書かれていない。だが、内容を読めば、それが誰に宛てたものかは明白だった。
〈宗一郎さんへ
あなたが東京で成功への道を歩み始めた頃、私はもう、あなたの隣にいる資格を失っていました。あの子――修司は、あなたの子です。でも、あなたにはもう、故郷の小さな旅館の女中だった女の存在なんて、必要ないはずです。だから、私はこの子を、一人で育てる決意をしました。修司には、父親のことは何も話していません。ただ、この写真だけは、大人になったら渡そうと思います。〉
井森は、その手紙を、何度も読み返した。
そして、写真の裏に書かれた小さな文字にも、気づいた。
〈修司へ――もし、この人に会うことがあったら。恨まないであげてほしい。あなたのお父さんは、あなたが思うより、ずっと不器用な人だから〉
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井森は、その足で、柏木亜美のもとへと戻った。
「亜美さん。お父さんから、〈自分の出生〉について、何か聞いたことはありますか」
亜美は、驚いた顔をした。
「出生……? いえ、特には。母は私が幼い頃に亡くなっていて、父方の祖父母のことも、あまり詳しくは……あ、でも」
「でも?」
「父、時々、会長のことを、すごく複雑な目で見てたんです。尊敬してるようで、憎んでるようで。一度、お酒に酔った時に、こう言ってたことがあります。〈お父さんはな、あの人にずっと試されてたんだ。でも、あの人は、お父さんが誰なのか、多分、気づいてすらいない〉って」
井森は、静かに目を閉じた。
(――柏木は、知っていた。自分が、黒崎の実の息子だということを)
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そして、井森は、決定的な証拠を、もう一つ手に入れていた。
会長室のブランデーのデキャンタ。黒崎が業者に処分を命じたはずのそれは、実は「廃棄」されていなかった。
ホテル御用達の骨董品鑑定士――黒崎自身が長年懇意にしてきた老舗の目利きが、「これほどのアンティーク硝子を、ゴミとして捨てるのは忍びない」と、こっそり自分の店の倉庫に保管していたのだ。鑑識がそれを発見し、微量ながら付着していた血痕が、柏木修司のDNAと一致することが判明した。
さらに、ホテルの防犯システムは、井森が思っていた以上に精巧だった。非常階段にはカメラこそなかったが、電子錠のログには、扉の開閉記録が残っていた。事件当夜、パーティーの最中に、会長専用のマスターカードキーが、会長室からロイヤルスイートへと至る非常階段の扉を、二度開閉していた記録が。
黒崎自身、その電子ログの存在を、失念していたのだ。ホテルの設計は自分が手掛けたが、防犯システムは五年前に大手警備会社に一新させていた。旧式の記憶のまま、「死角のないホテル」の設計者としての自負が、彼の油断を招いていた。
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三日後、井森は黒崎宗一郎を、会長室に訪ねた。
「会長。今日は、最後のご報告に参りました」
「……最後、ということは」
「ええ。柏木修司さんの件、事故ではなく、殺人事件として、正式に立件することになりました」
黒崎の顔から、血の気が引いた。
「馬鹿な……何を根拠に」
井森は、コートのポケットから、一枚ずつ、証拠を取り出していった。
「まず、こちらのデキャンタ。骨董品店に保管されていました。柏木さんの血痕と一致しています」
黒崎の目が、大きく見開かれた。
「そんな……あれは、処分したはずだ……」
「ええ。業者には処分を命じられたそうですが、その業者から仕入れた骨董品店の店主が、勝手に保管していたんですよ。世の中、思い通りにいかないことばかりですねえ」
井森は、次に、電子ログの記録を取り出した。
「それから、こちら。事件当夜、会長のマスターカードキーが、非常階段の扉を二度、開閉した記録です。会長室からロイヤルスイートへ――そして、また会長室へ」
「それは……誰かが、私のカードを盗んで……」
「マスターカードキーは、会長ご自身が肌身離さず持っていらっしゃると、秘書の方から伺いましたが」
黒崎は、答えられなかった。
「そして、最後に」
井森は、静かに、あの写真と手紙を、机の上に置いた。
黒崎の顔が、まるで時が止まったかのように、凍りついた。
「これは……」
「柏木修司さんの、実のお母様が遺した手紙です。会長、あなたは、柏木さんの――お父様、ですよね」
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、黒崎は、崩れ落ちるように、椅子に体を沈めた。
「……いつから、気づいていた」
「柏木さんの部屋で、あなたとの因縁を仄めかす、娘さんの証言を聞いた時からです。でも、確信を持てたのは、この手紙を読んでから」
黒崎は、両手で顔を覆った。
「柏木は……いや、修司は、知っていたのか。私が、あの子の父親だと」
「ええ。ただし、あなたには一度も、それを告げなかった」
黒崎の肩が、震え始めた。
「あの夜――柏木くんは、私に告発の話をしながら、最後に、こう言ったんです。〈会長は、本当にこれが正義だと思っているのか〉と、私が聞いた。でも、答えは彼の方から返ってこなかった。今にして思えば、あれは……」
「あなたへの、最後の問いかけだったんでしょうね」
井森は、静かに続けた。
「柏木さんは、あなたが不正を止めるかどうか――ホテルの看板より、家族としての情を選ぶかどうか、最後に試していたのかもしれません。彼は告発の証拠を集めながらも、それを本当にマスコミに渡すかどうか、迷っていた。金庫にしまい込んだまま、記者には結局、何も送っていませんでしたから」
「……なんだと」
「柏木さんは、あなたに、気づいてほしかったんですよ。〈お前は、俺の父親だろう〉と。でも、あなたは、そんな彼の想いに気づく余裕もないまま――帝国を守るために、その手で、実の息子の息の根を止めた」
黒崎の口から、獣のような、くぐもった呻き声が漏れた。
「私は……私は、知らなかった……!」
「知らなかった、では、済まされません。会長」
井森の声は、それまでの飄々とした調子から一転、静かだが、揺るぎない響きを帯びていた。
「あなたは、三十年前、佳代さんという女性を、故郷に置き去りにして東京に出てきた。そして、生まれた子どものことも、顧みなかった。修司さんは、それでもあなたの下で働くことを選び、あなたの帝国を守り続けてきた。その結果が――これです」
黒崎は、机に突っ伏し、肩を震わせながら、嗚咽を漏らし始めた。
「五十年……五十年かけて、築いてきたんだ……この帝国は、私の全てだった……それを、あの若造が……」
「あの若造は、あなたの息子です」
井森の一言が、静かな会長室に、重く響いた。
「会長。あなたが守ろうとしたのは、〈グランド・ロイヤルホテル〉という看板だったのか、それとも、〈ホテル王〉という、ご自身の名誉だったのか。私には、正直、後者のように見えます」
黒崎は、もう何も言い返せなかった。
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その日の夕方、黒崎宗一郎は、殺人容疑で正式に逮捕された。
華やかなロビーを、手錠をかけられた「ホテル王」が歩いていく光景を、従業員たちは、誰も声を上げることなく、ただ見つめていた。
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事件から一週間後。
井森は、柏木亜美のもとを訪れ、遺品として、あの写真と手紙を返却した。
「本当は、証拠品として保管しておくべきなんですが……これだけは、亜美さんの手元にあるべきだと思いまして」
「ありがとうございます……」
亜美は、写真を胸に抱きしめながら、涙をこらえるように微笑んだ。
「井森さん。父は……最後まで、あの人に、気づいてほしかったんでしょうね」
「そうかもしれません」
井森は、よれたコートの襟を正しながら、静かに答えた。
「でも、亜美さん。柏木さんは、あなたには、ちゃんと愛情を注いでいた。それだけは、忘れないであげてください」
亜美は、小さく頷いた。
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ホテルのロビーを出た井森は、ふと足を止め、夕暮れに染まる「グランド・ロイヤルホテル」の外観を、しばらく見上げていた。
五つ星の輝きも、いつかは色褪せる。
だが、人が人を想う気持ちだけは、たとえどんな結末を迎えようとも、消えることはないのかもしれない――。
井森は、そんなことを思いながら、いつものように、ビニール傘を片手に、夕暮れの街へと歩き出した。




