第二十話 堕ちた五つ星(中編)
柏木修司の死から三日が経った。
警察の見解は依然として「不慮の事故」で固まりつつあった。所轄の刑事たちの間では、酔った上での転倒、後頭部を家具の角で強打――そういう筋書きが、すでに既定路線になっている。
だが、井森正一だけは、違った。
彼は捜査本部にもほとんど顔を出さず、一人でグランド・ロイヤルホテルの周辺を、まるで散歩でもするかのようにうろついていた。
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「柏木さんの秘書さん、ですよね」
ホテル裏手の従業員通用口。煙草を吸いに出てきた女性に、井森はへらへらと笑いながら声をかけた。
「あ……はい、そうですけど」
「捜査一課の井森です。いや、すみませんね、休憩中に。ちょっとだけ、お時間よろしいですか」
秘書の名は、遠藤美咲といった。三十代半ば、柏木の下で五年働いていたという。
「柏木さん、亡くなる前の日、何か変わった様子はありませんでしたか」
「変わった様子、というか……」
遠藤は煙草を灰皿に押し付けながら、少し言い淀んだ。
「ここ数ヶ月、柏木さん、すごく忙しそうにしてたんです。夜遅くまで、一人で何かのデータをまとめてて。私にも見せてくれなかったんですけど……あの日の朝は、珍しく明るい顔をしてました。『今夜で、全部終わる』って」
「今夜で、全部終わる、ですか。それは、どういう意味だと思われます?」
「分かりません。でも……」
遠藤は声を潜めた。
「柏木さん、パーティーの前に、会長室に行くって言ってました。『大事な話がある』って。あと、これ、警察の方に言うべきかどうか迷ってたんですけど……USBメモリを、いつも肌身離さず持ち歩いてました。あの日も、絶対に持っていたはずです」
「なるほど、なるほど」
井森は手帳に、ゆっくりとした文字で何かを書きつけた。
「ちなみになんですが……柏木さんと会長の、その、ご関係というのは。良好でしたか?」
遠藤は一瞬、口をつぐんだ。
「……表向きは。柏木さんは会長の右腕みたいな存在でしたから。でも、最近はちょっと、ぎくしゃくしてたような。柏木さんが会長のこと、複雑な顔で見てることが、何度かありました」
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その足で、井森は覆面調査員――ホテル業界で「ミステリーゲスト」と呼ばれる格付け調査員の一人に接触を試みた。
だが、相手は弁護士を通じて取材を拒否。当然だ、金を受け取っていたなら、それは職業倫理に反する重大な不正であり、迂闊に口を割るはずがない。
あ、五つ星ホテルって、経費の使い方も豪快なんでしょうねえ」
「そうですね……でも最近、品質管理室の交際費だけ、妙に監査が厳しかったですよ。柏木室長が、何かに使途不明金がないか、逆に調べてたみたいで」
「逆に? 柏木さんが、ご自身の部署の経費を、自分で調べてた、と?」
「はい。何でも、〈裏付けを取っている〉って言ってました。詳しいことは分かりませんけど」
井森は、ゆっくりと頷いた。
(――柏木は、証拠を集めていた。自分が手を染めてきた不正の、裏付けを)
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夕方、井森はグランド・ロイヤルホテルのロビーで、黒崎宗一郎と再び顔を合わせた。
「おや、井森さん。まだ捜査を?」
「ええ、まあ。しぶといのが取り柄でして」
井森は照れくさそうに頭を掻いた。
「会長、少し伺いたいんですが。柏木さんが最近、経理部にご自身の部署の経費を〈逆調査〉させていたという話、ご存知でしたか」
黒崎の表情筋が、ほんの一瞬だけ強張った。だが、すぐに平静を取り戻す。
「初耳だな。品質管理室の業務には、あまり口を出さない主義でね」
「なるほど。いや、面白いですよねえ。長年、ホテルの格付けを守ってきた立役者が、亡くなる直前に、自分の部署の帳簿を洗い直していたなんて。まるで――辞める前に、身の潔白を証明しようとしていたみたいで」
「……それが、何か問題でも?」
「いえいえ、単なる感想です」
井森は、へらりと笑った。
「ところで会長。もう一つ、教えていただきたいことが。あのロイヤルスイート、非常階段からだと、会長室から何分くらいで行けるものなんですか」
黒崎の心臓が、大きく跳ねた。
「……なぜ、そんなことを聞く」
「いえね、防犯カメラの映像を全部確認させてもらったんですが、パーティーが始まってから柏木さんが発見されるまでの間、エレベーターにも、正面階段にも、柏木さんが映っていないんです。となると、考えられる経路は、従業員用の非常階段くらいしかない。でも、あそこにもカメラは……ないんですよね、確か」
「さあ。防犯設備の詳細までは、私は把握していない」
「いやいや、ご謙遜を。このホテルの設計図、会長が若い頃に自ら手掛けられたと、以前雑誌のインタビューで拝見しましたよ。〈死角のないホテル〉を目指した、と。皮肉なもんですねえ、その死角が、今回の件で一番の焦点になっているとは」
黒崎は、しばらく無言だった。
「……何が言いたい」
「いえ、何も。ただの世間話です」
井森は、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、軽く会釈をした。
「あ、そうそう。もう一つだけ」
「まだあるのか」
「柏木さんの遺体の後頭部の傷なんですけどね。検視の結果、ベッドサイドテーブルの角の形状とは、微妙に一致しないそうなんです。もっと重量のある、丸みを帯びたもので殴打された可能性がある、と。今、鑑識がホテル中の家具や調度品を、一つずつ照合作業中でしてね」
その言葉に、黒崎の背筋を、冷たいものが走った。
――会長室の、あのブランデーのデキャンタ。
あれは、すでに新しいものに交換させた。だが、古いものを廃棄した業者の記録までは、消せていたか?
「いやあ、五つ星ホテルの調度品って、本当に種類が豊富で。鑑識も苦労してますよ」
井森はそう言って笑うと、ひらひらと手を振りながら、ロビーの雑踏へと歩み去っていった。
黒崎はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
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その夜、黒崎は自宅の書斎で、密かに秘書に電話をかけていた。
「――会長室のデキャンタを廃棄した業者の記録、すべて処分しろ。それから、非常階段の清掃記録も、念のため確認しておいてくれ」
電話を切ったあと、黒崎は深いため息をついた。
(あの男……ただの間抜けな刑事ではない。むしろ、恐ろしいほどに、細部を見ている)
だが、まだ大丈夫だ。証拠は、何一つ残していないはずだ。デキャンタも、非常階段の使用記録も、USBメモリも――すべて、この手で始末した。
あとは、井森という男の追及を、どう躱すかだけだ。
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翌日。
井森は、柏木修司の自宅を訪れていた。
応対したのは、柏木の一人娘、柏木亜美。大学生で、父の死を受け、憔悴しきった様子だった。
「お父さんの部屋、見せていただいてもいいですか」
「……はい、どうぞ」
柏木の書斎には、几帳面に整理された書類の山があった。井森は一つ一つ、丁寧に目を通していく。
「亜美さん。お父さんから、何か預かっているもの、ありませんか。例えば、〈もし何かあったら、これを見てくれ〉といったような」
亜美は、少し考えてから、机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。
「これ……先週、お父さんに『何かあったときのために』って渡されたんです。でも、これって、単なる保険の書類だと思ってて……」
井森は封筒を開けた。
中に入っていたのは、保険証券のコピーと――一枚の、ホテルの部屋番号と日付だけが書かれたメモだった。
〈ロイヤルスイート 会長専用金庫 暗証番号 0519〉
井森の目が、わずかに細まった。
「亜美さん。これは、預からせていただきますね」
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井森は、その足でグランド・ロイヤルホテルへと戻り、支配人に協力を要請した。
ロイヤルスイートの奥、目立たない場所に設置された小型の金庫。会長専用と称されているそれを、令状を取った上で、開けさせる。
暗証番号、「0519」。
カチリ、という軽い音とともに、金庫の扉が開いた。
中に入っていたのは――柏木が黒崎に突きつけたはずの、USBメモリだった。
そして、その隣には、もう一つ。折りたたまれた古い写真と、色褪せた一通の手紙。
井森は、写真を手に取った。
若き日の黒崎宗一郎と、まだ幼い頃の柏木修司らしき少年が、並んで写っている一枚だった。
(――これは、一体……)
井森の口元に、初めて、真剣な表情が浮かんだ。




