第二十話 堕ちた五つ星(上編)
都内屈指の高級ホテルチェーン「グランド・ロイヤルホテル」。
その創業者にして会長、黒崎宗一郎は、「ホテル王」と呼ばれていた。
七十を過ぎても精力的に経営を続け、国内外に二十を超えるホテルを展開する成功者。
政財界との交流も深く、その名を知らぬ者はいない。
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その夜、ホテル創業五十周年を祝う盛大な記念パーティーが開かれていた。
会場には国会議員、俳優、実業家、外国大使。
シャンデリアが輝き、弦楽四重奏が流れ、グラスが触れ合う音が響く。
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一方その頃。
最上階のスイートルームでは、一人の男が息絶えていた。
ホテル品質管理室長・柏木修司。
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――三時間前。
黒崎宗一郎は、会長室の重厚な扉を静かに開けた。
柏木修司は、窓際に立ってグラスを傾けていた。招かれてもいないのに、勝手に会長室のバーカウンターから年代物のブランデーを注いでいる。その図々しさが、黒崎の腹の底を熱くさせた。
「柏木くん。パーティーはもう始まっている。君の持ち場は一階のレセプションのはずだが」
「持ち場、ね」
柏木は振り返らず、窓の外――煌々と輝く都心の夜景を見つめたまま言った。
「今夜くらいは、会長室から夜景を眺める権利があると思いましてね。何しろ、私はこのホテルの『五つ星』を、この十年間、守り続けてきた男ですから」
黒崎は扉を閉め、内側から鍵をかけた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
柏木はようやく振り向いた。その口元には、勝ち誇ったような、それでいてどこか疲れたような笑みが浮かんでいた。
「明日の朝刊、楽しみにしていてください。〈老舗ホテルチェーン、格付け買収の実態〉――我ながら、いい見出しだと思いませんか」
黒崎の顔から、表情という表情が抜け落ちた。
「……何を言っている」
「とぼけなくて結構です、会長。この十年、私がどれだけ〈覆面調査員〉に金を積んできたか、あなたはよくご存知でしょう。接待、現金、時には愛人の斡旋まで。おかげでグランド・ロイヤルは五年連続、格付け機関の五つ星を独占できた。表向きはね」
「それは……お前の判断でやったことだろう」
「ええ、そうですとも。表向きはね」
柏木は上着の内ポケットから、一枚のUSBメモリを取り出し、指先でもてあそぶように揺らして見せた。
「ここに、全部入っています。振込記録、領収書、覆面調査員とのメールのやり取り、そして何より――あなた自身が『やれ』と指示した音声データ。三年前の役員会議、覚えていますか。〈格付けのためなら手段は選ぶな〉。いい台詞でしたよ、会長」
黒崎は奥歯を噛みしめた。
「いくら欲しい」
「金の問題じゃありません」
柏木は初めて、声のトーンを落とした。
「私は、これでも品質管理室長です。品質を管理する仕事をしていたはずが、いつの間にか不正の隠蔽係にされていた。娘に胸を張って言えますか、私が。〈お父さんの仕事は、噓を五つ星に変えることだ〉と」
沈黙が落ちた。
シャンデリアの光が届かない会長室の隅で、黒崎は静かに拳を握った。
「……分かった。マスコミには渡すな。その代わり、条件を吞もう。役員待遇での退職、それに――」
「遅いですよ、会長」
柏木は薄く笑って、USBメモリをポケットに戻した。
「もう、記者には話を通してあります。明日の朝、この件が世に出れば、グランド・ロイヤルの『五つ星』は、一夜にして『無星』になる。あなたが五十年かけて築いた帝国もろとも」
その言葉が、黒崎の中で何かを断ち切った。
彼はゆっくりと、バーカウンターに歩み寄った。手にしたのは、先ほど柏木が使っていたブランデーの、重い硝子のデキャンタだった。
「柏木くん。最後に一つだけ、聞かせてくれ」
「なんです」
「君は、本当に、これが正義だと思っているのか」
柏木が振り返った、その瞬間――
黒崎は、渾身の力でデキャンタを振り下ろした。
鈍い音。柏木の膝が崩れ、絨毯に頽れる。
黒崎は肩で息をしながら、床に倒れた男を見下ろした。柏木の後頭部から、じわりと血が滲み出していく。
まだ、息はあった。浅く、しかし確かに。
黒崎は――迷わなかった。
バスルームからタオルを持ってきて、柏木の口と鼻を、ゆっくりと、しかし確実に塞いだ。
柏木の手が虚しく宙をかき、やがて力を失って落ちた。
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黒崎は、乱れた呼吸を整えると、恐ろしいほど冷静に動き始めた。
まず、柏木のポケットからUSBメモリを回収する。ノートパソコンを立ち上げ、送信予定になっていたメールの下書きを確認し、削除した。幸い、まだ記者には送られていなかったらしい。
次に、死体を最上階のスイートルーム――今夜は空室になっている〈ロイヤルスイート〉まで運ぶ必要があった。会長室からロイヤルスイートへは、従業員用の非常階段を使えば、監視カメラに映ることなく移動できる。何しろこのホテルを設計したのは、他ならぬ黒崎自身なのだ。防犯カメラの死角も、非常階段の位置も、頭に叩き込まれている。
死体を台車に乗せ、清掃用のリネンで覆う。パーティーの喧騒に紛れて、誰にも見咎められることなく、黒崎は最上階へとたどり着いた。
ロイヤルスイートのベッドに柏木の遺体を横たえ、後頭部の傷が枕で隠れるように向きを整える。
そして――現場を「事故」に見せかけるための、最後の仕上げにかかった。
柏木のグラスに、バーで使われている高級ウイスキーを注ぎ、彼の指紋を残したまま、ベッドサイドに置く。転倒して頭を打った――そう見えるように、サイドテーブルの角に、微量の血液を付着させる。
「悪いが、柏木くん」
黒崎は、死んだ男に向かって、静かに呟いた。
「五十年かけて築いたものを、お前如きに壊させるわけにはいかん」
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午後九時三十分。
ロイヤルスイートの清掃に入ったルームメイドの悲鳴が、フロア中に響き渡った。
パーティー会場は騒然となり、来賓たちがざわめく中、黒崎宗一郎は誰よりも早く、誰よりも青ざめた顔で、最上階へと駆け上がった。
「柏木くん! 一体……!」
その演技は、完璧だった。
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警察が到着したのは、それから四十分後のことだった。
所轄の刑事たちに混じって、一人、明らかに場違いな男がいた。
よれたベージュのコートを着て、片手に安っぽいビニール傘――外は晴れているというのに。髪はぼさぼさで、顔には無精髭。とても五つ星ホテルの現場に足を踏み入れるような身なりではない。
「あの、すみません……ちょっとよろしいですかね」
男は、規制線の前で困ったように立ち尽くしていた所轄の若い刑事に、申し訳なさそうに声をかけた。
「捜査一課の井森と申します。ええと、この現場、担当することになりまして」
「あ、井森警部……! 失礼しました、どうぞ」
井森――井森正一は、ぺこぺこと頭を下げながら規制線をくぐった。その姿を見て、パーティー会場から様子を窺っていた黒崎は、内心でわずかに眉をひそめた。
(――あれが、刑事? 頼りない男だ)
だが、その油断こそが、命取りになるとは、このとき黒崎はまだ知らない。
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現場検証が一段落した頃、井森はスイートルームから出てきて、ロビーで待機していた黒崎のもとへ、のそのそと歩み寄ってきた。
「会長、この度は、大変な夜になってしまいましたね」
「……ああ。柏木くんとは、長い付き合いだった。信じられんよ」
「そうですか、そうですか」
井森は手帳を取り出し、ぱらぱらとめくった。書き込みはほとんどないように見えた。
「一応、形式的なことなので、気を悪くしないでください」




