第十九話 汚れたアダージョ (下編)
翌日、井森は鑑識から上がってきた報告書に目を通していた。
「凶器のブロンズ像、指紋は検出されず。柄の部分、丁寧に拭き取られてますね」
「几帳面な犯人ですねぇ」
「でも、井森さん、面白いものが出ました」
牧田が資料を差し出す。
「像の台座の裏、微量ですが繊維片が付着してました。分析の結果、バレエ用のレオタードやタイツに使われる特殊な伸縮素材と一致しています」
「なるほどねぇ。まぁ、バレエ団の中で見つかった凶器ですから、その繊維が付いてても不思議じゃないですけど」
「そうなんですけど、この繊維、男性用の稽古着に使われるタイプなんです。女性用とは織り方が違うらしくて」
「ほう」
井森は身を乗り出した。
「つまり、犯行時、犯人は稽古着を着ていた可能性が高い、と」
「はい。事件当夜、劇場に稽古着姿でいた記録がある人物は限られます」
「桐生さんは」
「振付指導のため、夜遅くまで稽古着のまま残ることが多いと、複数の団員が証言してます」
「他の方は」
「有明さんは、当日は私服で早く帰ったと同僚が見ています。百花さんも同様です」
井森は頷いた。
「じゃあ、桐生さんに絞られてきましたねぇ」
「まだ稽古着の男性、他にもいますが……可能性としては、かなり高いです」
井森は次に、事件当夜の柊木のスマートフォンの通話履歴を確認した。死亡推定時刻の直前、柊木は一件の電話を受けていた。発信元は、団の内線。監督室から劇場事務所へ繋がる、内部専用の回線だった。
「これ、外からはかけられないやつですよね」
「はい。劇場内の固定電話からしか発信できません」
「事務所に、その時間、誰がいたか分かります?」
牧田が記録を確認する。
「事務所の鍵を持っているのは、経理担当と、助監督の桐生さんだけです」
「経理の方は」
「その時間、自宅にいたとご本人も証言済みで、家族の証言もあります」
「じゃあ、桐生さんですねぇ」
⸻
井森は再び、桐生の元を訪れた。稽古場では、公演の代役を立てるための急な稽古が行われていた。柊木の死により、公演の続行が危ぶまれていたが、団としては予定通り行う方針が固まったところだった。
「桐生さん、代役の指導、大変ですねぇ」
「ええ、まぁ」
「百花さんの役、どうなるんです」
「……降ろすことになりました。有明さんに代わります」
「そうですか」
井森はゆっくりと稽古場を見渡した。
「実力のある人が、正当に評価される。良いことですねぇ」
桐生は何も言わなかった。
「ところで」
井森は続けた。
「事件当夜、事務所の内線から、監督室に電話がかかってるんですよ」
「……そうですか」
「事務所の鍵、桐生さんと経理の方しか持ってないそうで」
「経理の彼は、その時間自宅にいたはずです」
「ええ、確認済みです」
「じゃあ、私を疑ってるということですか」
桐生の声は、静かだが、わずかに硬さを帯びていた。
「疑ってるわけじゃないんですよ」
井森はのんびりと言った。
「ただ、確認したいだけです。あの晩、事務所にいらっしゃいました?」
「……いいえ」
「そうですか」
井森はメモ帳を閉じた。
「でも、稽古着の繊維が、凶器から見つかってるんですよねぇ」
桐生の目が、初めて明確に動いた。
「刑事さん」
「はい」
「稽古着の繊維なんて、この劇場にはいくらでも落ちてますよ。ここはバレエ団です」
「そうですよねぇ。でも、男性用の織り方だったそうで」
「男性団員は、私以外にも十人以上います」
「それはそうです」
井森は頷いた。
「でも、あの夜、稽古着のまま残ってたのは、桐生さんだけだったそうですよ」
桐生は答えなかった。
井森は、稽古場の壁に貼られた古い公演ポスターを眺めながら、ぽつりと言った。
「桐生さん、この団、本当に大事にされてるんですねぇ」
「……当然です」
「柊木さんのこと、恨んでました?」
「……」
「いえ、恨むっていうと語弊がありますね。失望、っていうんですか。育ててくれた人が、自分の育てたものを、壊していくのを見るのは」
桐生の拳が、静かに震えていた。
「柊木さんの部屋にあった写真、桐生さんが拭いたんですよね」
桐生は答えなかった。
「事件のあと、もう一度あの部屋に戻って、写真立てだけ綺麗に拭いた」
「……」
「あれ、指紋を消すためじゃなかったんじゃないですか」
井森は静かに続けた。
「あの写真、若い頃の柊木さんと、桐生さんが、一緒に写ってるやつですよね。たぶん、あの写真だけは、汚したくなかったんじゃないですか」
⸻
長い沈黙が流れた。やがて、桐生は稽古場の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
「……あの人は、僕にとって、すべてでした」
「はい」
「才能のない僕を、何年もかけて育ててくれた。技術だけじゃない。舞台に対する誠実さも、全部、あの人から教わったんです」
「ええ」
「でも、この半年、その人が、自分の作り上げてきたものを、自分の手で壊していくのを、僕は毎日見せられてました」
「百花さんのことですね」
桐生は頷いた。
「実力じゃない。愛情でもない。あれは、ただの独占欲です。年老いた男が、若い女に執着して、周りが積み上げてきたものを、平気で踏みにじる」
「有明さんたちの努力も」
「全部です。オペラ座に本当に留学した団員たちが、詐称を黙って見過ごさなきゃいけない。その屈辱を、あの人は分かってなかった」
「あの晩」
桐生は静かに続けた。
「僕は、もう一度だけ話し合おうと思って、監督室に行きました」
「稽古着のまま」
「はい。稽古の途中で、抜け出しました」
「事務所の内線から、電話をかけたのは」
「監督室に、直接押しかけるのは気が引けて。まず電話で、時間をもらえるか聞こうと思ったんです」
「柊木さんの返事は」
「『今来い』とだけ、言われました」
「話し合いは、うまくいかなかったんですね」
「はい」
桐生は目を伏せた。
「僕は、百花さんを降ろしてほしいと頼みました。有明さんに、本来の役を戻してほしいと」
「柊木さんは」
「笑ったんです。『お前もそっち側か』と」
「そっち側」
「実力主義とか、公正さとか、そんな綺麗事を言う側、という意味だったんだと思います」
「それで、僕は言いました。『この団を、あなたの私物みたいに扱わないでください』と」
「柊木さんの反応は」
「怒鳴られました。『俺が作った団だ、俺の好きにする』と」
「それで」
「気づいたら、像を手に取っていました」
桐生の声は、静かに震えていた。
「一度殴ったら、止まらなかった」
「写真は」
「殴ったあと、我に返って、部屋を見渡しました。あの写真が、目に入って……あの頃の自分たちが、こんな結末を迎えるなんて、信じたくなかった」
「だから拭いた」
「せめて、あの写真だけは、綺麗なままにしておきたかったんです」
⸻
牧田が、静かに手続きを始めた。桐生は、稽古場の中央に立ち、最後にもう一度、舞台を見渡した。
「刑事さん」
「はい」
「僕は、この団を守りたかっただけなんです」
「分かりますよ」
井森は静かに答えた。
「でも、守り方を、間違えたんですねぇ」
⸻
数週間後。東雲バレエ団の『ジゼル』公演は、有明奏を主役に迎え、予定通り上演された。柊木の死と、桐生の逮捕という混乱の中でも、団員たちは舞台に立ち続けた。百花は、事件後まもなく、団を静かに去った。詐称されたプロフィールも、そのすべてが公演パンフレットから削除された。
初日の幕が下りたあと、井森は劇場のロビーで、しばらく余韻に浸る観客たちを眺めていた。
「井森さん、感動してます?」
牧田がからかうように言う。
「いやぁ、バレエなんて分かりませんけど」
井森はのんびりと答えた。
「ただ、あれだけの舞台を作るのに、どれだけの人が、どれだけの時間をかけてるのかと思うとね」
「はい」
「それを、たった一人の欲で壊せてしまうのが、怖いなと思っただけですよ」
「桐生さん、最初から怪しいと思ってたんですか」
牧田が聞いた。
「いやぁ、最初は写真立てが綺麗すぎるなって、それだけだったんですよ」
「それだけで」
「小さいことなんです、いつも」
井森は帽子をかぶり直した。
「大事にしてるものほど、人は、無意識に手が伸びちゃうんですよねぇ」




