第十九話 汚れたアダージョ (中編)
東雲バレエ団の芸術監督殺害事件は、瞬く間に報道された。名門バレエ団のトップが、劇場内で撲殺される。マスコミは面白おかしく書き立てた。団内では、当然のように動揺が広がっていた。
井森と牧田は、まず団員全体への聞き込みを始めた。最初に話を聞いたのは、有明奏だった。
「柊木さんとは、最近どうでした?」
「……正直に言っていいですか」
「もちろん」
「あまり、良い関係ではなかったです。監督のやり方には、納得できないことが多かったので」
「百花さんの件、ですか」
有明は少し驚いた顔をした。
「もう、ご存知なんですね」
「団員の方、ほとんどが同じこと言うんですよ」
井森は苦笑した。
「詐称されたプロフィールのこと、皆さん薄々気づいてたみたいですねぇ」
「薄々どころか、はっきり知ってました。オペラ座に留学してた団員が、うちには三人いるんです。全員、彼女がそこにいなかったことを知ってます」
「でも、誰も声を上げなかった」
「上げられなかったんです。監督の権限が、絶対的すぎて」
有明は少し目を伏せた。
「私も、悔しかったですけど……殺すほどの動機はないです」
「事件当夜、どこにいらっしゃいました?」
「自宅です。一人で。証明できる人はいませんが」
井森は頷きながらメモを取った。
「アリバイなし、と」
「はい」
あっさりとした返答だった。
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次に話を聞いたのは、百花本人だった。控室で会った百花は、憔悴した様子だった。
「わたし、本当に何も知らなくて……プロフィールのことも、監督に勧められるがままに」
「勧められた、というのは?」
「箔をつけた方がいいって、監督が」
「実際にオペラ座には」
百花は俯いた。
「短期の見学ツアーには行きました。でも、留学とは違います」
「なるほどねぇ」
井森は静かに続けた。
「柊木さんとの関係については」
百花は答えに詰まった。
「……お付き合い、してました」
「事件当夜は」
「自宅にいました。監督とは、その日の午後に電話で話しただけです」
「電話の内容は」
「公演の衣装の件です。普通の話でした」
井森はメモを取りながら、それ以上深くは踏み込まなかった。
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聞き込みを終えた後、牧田は井森に言った。
「有明さんも動機ありますよね。実力を差し置かれた恨み」
「ありますねぇ」
「百花さんも、監督との関係が公になって、追い詰められてたのかもしれません」
「かもしれませんねぇ」
牧田は続けた。
「経理の職員も、不正な予算処理に気づいてたみたいですし、その口封じで揉めた可能性も」
「色々ありますねぇ」
井森はのんびりと答えるだけで、誰にも肩入れしなかった。
経理担当の職員にも話を聞いた。
「柊木さんから、百花さんのプロフィール制作費について、口止めされてました」
「不満は?」
「ありましたけど……私が殺すなんて、そんな度胸ないですよ」
それはその通りだろうと、井森も思った。声にも態度にも、追い詰められた者特有の張り詰めた気配がなかった。
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そして、桐生亮介への聞き込みが行われた。監督室で会った桐生は、落ち着いた様子だった。
「柊木さんとは、長いお付き合いだったんですよね」
「三十年以上になります。私が入団した時から、育ててもらいました」
「立派な師弟関係ですねぇ」
「そう思います」
「最近、揉め事は?」
桐生は少し間を置いた。
「百花さんの件で、意見の相違はありました。ですが、殺すような話ではありません」
「そうですよねぇ」
井森はあっさり頷いた。
「ちなみに、事件当夜は」
「自宅です。一人でした」
「証明できる方は」
「いません」
これも、あっさりとした返答だった。
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署に戻る車内で、牧田がぼやいた。
「みんなアリバイないですね」
「そうなんですよ」
「井森さん、本命は誰だと」
「まだ分かりませんよ」
井森は窓の外を見ながら言った。
「ただ、桐生さんの部屋、ちょっと気になりましたねぇ」
「何がです?」
「机の上、綺麗すぎたんです」
「綺麗なのが、おかしいんですか」
「いやぁ、普段からあれだけ整理整頓できる人が、あの日に限って、灰皿の位置がずれてたんですよ」
「灰皿……煙草、吸うんですか、桐生さん」
「吸わないはずです。前に他の団員が言ってました」
「じゃあ、なんで灰皿が」
「さぁ」
井森はとぼけた顔で言った。
「でも、灰皿がずれてるってことは、誰かがそこを動かしたってことなんですよねぇ」
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数日後、井森は再び桐生の元を訪れた。
「桐生さん、稽古、お疲れさまです」
「刑事さん、まだ何か」
「いやぁ、大したことじゃないんですけどね」
井森は稽古場の隅に置かれたベンチに腰掛けた。
「柊木さんの若い頃の写真、拝見しました。桐生さんと一緒に写ってるやつ」
「ええ、古い写真ですね」
「あの頃から、仲良かったんですね」
「師弟ですから」
「羨ましいですよ、そういう関係」
桐生は微笑んだ。だがその微笑みは、どこか固かった。
「ちなみに」
井森は続けた。
「あの写真、監督室の一番目立つところに飾ってありましたよね」
「はい」
「事件があった夜も、そこにあったはずなんですけど」
「そうでしょうね」
「なのに、写真立てだけ、ちょっと綺麗すぎるんですよ」
桐生の表情が、わずかに動いた。
「……どういう意味です」
「他の備品には、指紋やら埃やら、普通に付いてるのに、その写真立てだけ、拭き取られたみたいに綺麗だったんです」
「掃除の方が、拭いたんじゃないですか」
「かもしれませんねぇ」
井森はあっさり引き下がった。
「まぁ、気になっただけです。すみません、お忙しいところ」
牧田は、井森の後を追いながら聞いた。
「井森さん、今の、桐生さんカマかけましたよね」
「かけましたねぇ」
「反応、ありました?」
「ありましたよ、はっきりと」
井森は歩きながら言った。
「あの人、写真に触れられるの、嫌がってました」
「それって……」
「まだ分かりませんよ。でも、写真立てだけ綺麗ってことは、誰かがあれを一度手に取って、拭いて、また戻したってことなんです」
「なんでそんなことを」
「さぁ。でも、大事なものだったんでしょうねぇ、桐生さんにとって」
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その夜、井森は署のデスクで、事件当夜のタイムラインを整理していた。柊木の死亡推定時刻は、午後十時から十一時の間。劇場の警備記録によれば、その時間帯に出入りした人物は、記録上は誰もいなかった。だが、劇場には裏口があった。関係者だけが知る、警備カメラの死角になる通路。
「これ、桐生さんなら知ってて当然の場所ですよねぇ」
井森は独り言のように呟いた。
「でも、それを言うなら、有明さんも、百花さんも、経理の方も、みんな知ってるはずなんですよ」
牧田が隣で言う。
「絞り込めないですね」
「絞り込む必要、ないんですよ」
井森はメモ帳を閉じた。
「向こうから、教えてくれますから」




