第十九話 汚れたアダージョ (上編)
舞台の上では、努力は必ずしも報われない。報われるのは、誰かに選ばれた者だけだ。
東雲バレエ団。創立四十年、国内屈指の名門と呼ばれる団体。稽古場には、朝から緊張した空気が漂っていた。
「発表します」
芸術監督・柊木英一郎が、稽古場の中央に立つ。七十二歳。かつては海外の名だたるバレエ団で踊り、帰国後は東雲バレエ団を国内トップクラスに押し上げた男。その言葉には、誰も逆らえない重みがあった。
「次の『ジゼル』、主役は、百花さんに」
稽古場が、一瞬静まり返った。
百花。二十五歳。入団してまだ二年。国内コンクールでの入賞歴はなく、留学経験もない。少なくとも、公になっているプロフィール以外は。だが配られたパンフレット用のプロフィールには、こう書かれていた。
「パリ・オペラ座バレエ学校に留学。ヨーロッパ各地でゲスト出演」
その場にいた誰もが、それが事実でないことを知っていた。
稽古場の隅で、有明奏がその発表を聞いていた。三十二歳。国内外のコンクールで複数の受賞歴を持つ、東雲バレエ団のプリンシパル候補。パリでの短期留学経験もある。隣にいた同僚が、小さく耳打ちする。
「……ねぇ、オペラ座って、あの子、本当に行ってたっけ?」
「行ってないと思う」
「じゃあ、あのプロフィール」
「監督の入れ知恵でしょ、たぶん」
二人は目を合わせ、それ以上は何も言わなかった。言っても仕方がない。ここでは、監督の決定が絶対だった。
柊木と百花の関係は、公然の秘密だった。半年前、外部のオーディションで見出されたという触れ込みで入団した百花は、瞬く間に主要な役をあてがわれるようになった。技術は、お世辞にも高いとは言えなかった。だが柊木は、稽古場で彼女にだけ、特別に長い時間をかけて指導した。その様子を、団員たちは黙って見ていた。
助監督の桐生亮介は、稽古場の隅で、それを誰よりも複雑な思いで見ていた。四十五歳。かつては東雲バレエ団のプリンシパルとして、国内外の舞台に立った男。膝の怪我で第一線を退いたあとは、後進の指導と振付に力を注いできた。桐生にとって、東雲バレエ団は人生そのものだった。柊木に見出され、育てられ、踊ることのすべてを教わった。だからこそ、今の柊木のやり方が、許せなかった。
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稽古後、有明が声をかけてきた。
「桐生さん、百花さんの件、本当にこのままでいいんですか」
「……」
「私だけじゃないです。みんな思ってます。実力じゃない選び方をされたら、この団の評価そのものが落ちる」
桐生は静かに答えた。
「分かってる」
「分かってるなら」
「今は、時期じゃない」
有明は納得できない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
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その夜、桐生は一人、稽古場に残っていた。誰もいない舞台の上で、かつて自分が踊った『ジゼル』の振りを、ゆっくりとなぞる。膝はもう、あの頃のようには動かない。だが体は、まだ覚えていた。柊木が現れたのは、その時だった。
「まだ残ってたのか」
「監督こそ」
柊木は舞台の袖に腰掛けた。
「百花のことで、何か言いたそうだな」
「……いえ」
「言いたきゃ言えばいい。俺とお前の仲だろう」
桐生は振り向いた。
「本当に、彼女が適任だと思ってるんですか」
「思ってる」
「有明さんの方が、実力は上です。パリでの経験も、コンクールの実績も」
「実績が全部じゃない」
柊木は静かに、だが揺るぎない声で言った。
「舞台に必要なのは、輝きだ。百花にはそれがある」
「輝きだけで、オペラ座留学を騙るんですか」
一瞬、柊木の目が鋭くなった。
「……お前まで、それを気にするのか」
「団員全員が気にしてますよ」
「気にさせておけばいい」
柊木は立ち上がった。
「俺が育てたこの団だ。俺が決める」
桐生は、その背中を見送りながら、拳を握りしめていた。自分が知っている柊木は、こんな男ではなかったはずだ。若い頃、才能のない自分を、それでも何年もかけて育ててくれた。技術だけでなく、舞台に対する誠実さを教えてくれた。その柊木が、今は自分の欲のために、団の信頼を切り売りしている。
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翌週、公演の稽古はさらに緊張を増していった。百花のポジションに合わせて、振付が易しく調整される。有明をはじめとする実力のある団員たちには、目立たない群舞の役が割り振られる。誰も表立っては言わない。だが、稽古場の空気は、日ごとに重くなっていった。
ある日、経理担当の職員が、桐生にそっと相談を持ちかけた。
「桐生さん……これ、見ていただけますか」
差し出されたのは、団の広報予算の使途明細だった。百花のプロフィール制作、海外公演風の宣材写真撮影に、不自然に大きな金額が計上されている。
「これ、本当にパリで撮った写真なんですか?」
「……いえ、たぶん都内のスタジオです。背景を合成してるはずです」
桐生は、資料をじっと見つめた。
「柊木さんの指示ですか」
「はい。他言しないようにと」
その晩、桐生は自宅で一人、資料を眺めていた。詐称されたプロフィール、水増しされた予算、実力のある団員たちの沈黙。すべてが、柊木という一人の男の欲望のために動いている。桐生の中で、何かが静かに固まっていった。
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公演初日まで、あと一週間。その日の夜、柊木は一人、劇場の芸術監督室に残っていた。
「桐生か」
入ってきた桐生を見て、柊木は笑った。
「こんな時間にどうした」
「少し、話があります」
「百花のことなら、もう聞き飽きたぞ」
「いえ」
桐生は静かに、部屋の奥まで歩を進めた。
「この団のことです」
柊木は椅子に深く座り直した。
「言いたいことがあるなら、聞こう」
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翌朝、劇場の清掃スタッフが、芸術監督室で倒れている柊木を発見した。救急隊が駆けつけた時には、すでに息はなかった。警察が到着したのは、その一時間後だった。
「はぁ……なるほど、立派な部屋ですねぇ」
井森正一刑事は、監督室を見回しながら、のんびりと言った。
「これ、全部本物のトロフィーですか」
「井森さん、今そこ見てる場合じゃ」
若い刑事、牧田がたしなめる。
「いや、気になるじゃないですか。すごい数ですよ」
井森は現場を一通り見渡した。争った形跡はほとんどない。凶器は、部屋にあった重い舞台美術用のブロンズ像。柊木の後頭部を強く殴打していた。
「顔見知りの犯行、って感じですかねぇ」
「そう思います。抵抗した形跡がほとんどないので」
「ですよねぇ」
井森は、部屋の隅に飾られた古い写真に目を留めた。若き日の柊木と、若き日の桐生が、並んで舞台に立っている写真だった。
「この人、今もいるんですか」
「桐生さん……助監督ですね。今はもうプリンシパルは引退されてますが」
「なるほどねぇ」
井森は写真をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。




