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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第十八話 査定 (下編)

 井森は、その日から村瀬の周辺を洗い直した。まず、事件当日の村瀬の行動記録。


「出張には同行してませんよね」


「当然です。私は本社にいましたよ」


「タイムカードは?」


「定時で退社してます」


 井森はタイムカードの写しを確認する。確かに、定時退社の記録があった。だが。


「これ、打刻だけですよねぇ」


「は?」


「打刻したあと、本当に帰ったかどうかは、分からない」


 村瀬の表情が、わずかに硬くなった。



 井森は、仙台方面の新幹線の乗車記録を照会した。事件当夜、同じ時間帯の便に、現金で切符を購入した客が一人。防犯カメラの映像は粗く、顔の特定はできない。だが、体格と歩き方には、特徴があった。少し内股気味の、特有の歩き方。井森はそれを、村瀬本人の歩く姿と見比べた。


「歩き方って、案外変えられないもんですよねぇ」


 牧田が驚く。


「まさか、それだけで……」


「決め手にはならないですよ、もちろん」


「でも、積み重ねると馬鹿にできないんです」



 井森は次に、村瀬の携帯電話の位置情報を令状で取得した。事件当夜、村瀬のスマホは、自宅近くの基地局に接続していた。一見、アリバイが成立しているように見える。だが。


「電源、入れっぱなしで置いてけば同じことですよねぇ」


 井森はぽつりと言った。


「充電器に挿したまま出かける人、いくらでもいますよ」


「奥さんに聞いてみたら、どうです?」


 牧田が村瀬の妻へ確認に行くと、思わぬ証言が出た。


「あの日、主人のスマホ、リビングに置きっぱなしで鳴ってました。珍しいなと思ったんです。いつも肌身離さない人なので」


「本人は何て?」


「充電し忘れて、部屋に置いてたって……」


 牧田は黙った。



 決定的だったのは、もっと小さなことだった。白石奈緒のキャリーケースの中から見つかった、一枚のレシート。仙台駅構内のコンビニのもの。購入時刻は、事件発生時刻のわずか十二分前。そのレシートに、もう一つの商品が印字されていた。使い捨てカイロ、二個。


「これ、白石さんが買ったものじゃないですよね」


「は?」


「白石さん、ホームに出てから誰かに会うまで、十分もなかったはずなんです」


 井森は続けた。


「でもこのレシート、彼女のキャリーケースの外ポケットから出てきた」


「つまり、誰かが後から紛れ込ませた」


 牧田がはっとする。


「まさか、村瀬が現場に……」


「かもしれませんし、違うかもしれません」


「でも、レシートには購入者の会員カード情報が紐付いてたんですよねぇ」


 井森は静かに言った。


「村瀬さんの、奥さん名義のポイントカード」


 長い沈黙。


「寒がりなんでしょうね、村瀬さん」


 井森はそれだけ言った。



 小さな綻びが、一つずつ、形になっていく。歩き方。空の名刺入れ。置きっぱなしのスマホ。妻名義のポイントカード。どれも、単独では証拠にならない。だが、並べれば、一本の線になった。



 井森は村瀬の元へ向かった。


「事故ですよ」


 村瀬は繰り返した。


「精神的に限界だったんでしょう」


「そうですかねぇ」


 井森は頷く。


「でも白石さん、大学決まってたんですよね」


 一瞬。村瀬の顔が動く。


「……」


「戻れる場所、あったんですよ」


 静かな声。


「だから、死ぬ理由なくなってる」


 村瀬は黙る。



 井森は続けた。


「許せなかったんですねぇ」


「自分はここで何十年も耐えたのに」


「この人だけ、元いた世界へ帰れる」


 長い沈黙。やがて村瀬が笑った。乾いた笑いだった。


「……あんたには分からないよ」


 井森は何も言わない。


「博士だか何だか知らないが、結局あいつ、俺たちを見下してた」


「営業なんか、腰掛けだと思ってた」


 低い声。


「俺はここしかなかった」


「高卒で入って、二十年、現場這いずり回って、やっと部長になった」


「それを、あいつは半年で追い抜こうとしてた」


「悪気なんかなかったでしょうけどね」


 井森は静かに言う。


「でも、村瀬さんにはそう見えた」


「見えたんじゃない。事実だ」


 村瀬は声を荒げた。


「あいつが本社に来た日から、みんな学位学位って。俺の実績なんか、誰も見てなかった」



「だから、仙台行きの手配、自分でやったんですか」


 村瀬は答えなかった。


「宿泊先も、新幹線の時間も、全部把握してましたもんね」


「同じ便に乗って、ホームで待ってた」


「そして、電話が鳴った瞬間を」


「見てたんですね」


 村瀬の肩が落ちた。


「……あの顔」


「え?」


「電話を切ったあとの、あいつの顔だよ」


 村瀬は宙を見ていた。


「嬉しそうに、笑ってた」


「もう俺たちのことなんか、どうでもいいって顔してた」


「その瞬間、頭が真っ白になった」



 井森は静かに答えた。


「でも白石さん、あなたを馬鹿にしてたわけじゃないと思いますよ」


 村瀬は顔を上げる。


「ただ、戻りたかっただけで」


「本来いるべき場所に、やっと戻れるって、それだけだったんじゃないですかね」


 村瀬は何も言わなかった。やがて、うつむいたまま、小さく頷いた。


「……押した。俺が」


「一瞬だった。気づいたら、もう」


「カイロは?」


 井森が聞くと、村瀬は自嘲するように笑った。


「あの日、妙に寒くてね。ホームで買った」


「でも、なんでそんなものを彼女の鞄に押し込んだんだろう。動転してたんだろうか」


「証拠隠滅のつもりが、逆に証拠を渡しちまった」



 牧田が手続きを始める。窓の外では、夕方の社員たちが歩いている。皆、どこかへ帰っていく。村瀬はその背中を、連行される直前まで見ていた。



 数週間後。白石奈緒が着任するはずだった大学では、彼女の名前が入った着任予定者一覧が、そっと削除された。恩師だけが、しばらくその名前を削除できずにいた。


 東央バイオソリューションズの営業部では、村瀬の後任が決まった。誰も、白石奈緒の名前を口にしなくなった。ただ、田辺のデスクの引き出しには、シュレッダーにかけられずに残った一枚の名刺があった。


「白石奈緒」


 その名前だけが、静かに残っていた。



 井森は立ち上がる。


「会社って、怖いですねぇ」


 少し考える。


「時々、辞められる人間から壊れていく」


「残る側は、残ることでしか自分を保てなくなる」


 牧田が聞いた。


「井森さん、最初から村瀬が怪しいと思ってたんですか」


「いやぁ、最初は歩くのが遅いなって、それだけだったんですよ」


「小さいことなんです、いつも」


「小さいことが、少しずつ噛み合わなくなっていく」


「それを、丁寧に拾うだけです」


 井森は帽子をかぶり直した。


 それが、この事件の終わりだった。


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