第十八話 査定 (上編)
会社という場所では、能力より先に“分かりやすさ”が評価されることがある。売上。数字。愛想。声の大きさ。逆に、静かな知性は嫌われる。
東央バイオソリューションズ営業部。月曜朝の会議室には、重い空気が流れていた。
「今月目標、達成率六十三パーセント」
営業部長・村瀬浩一が資料を机に叩きつける。
「これじゃ話にならない」
⸻
会議室の隅で、白石奈緒は黙っていた。三十五歳。元大学研究員。学術賞受賞歴あり。海外誌掲載歴あり。だが現在は、試薬会社の営業職。
博士号を持っていても、ポストはない。任期制。非常勤。研究費不足。結局、企業へ来た。
入社時、奈緒はこう聞かされていた。
「研究開発に近い部署から、ゆくゆくは研究職へ」
嘘だった。いや、嘘というほど明確でもなかった。ただ、都合よく忘れられただけだ。
最初の配属は、学術営業部だった。病院や研究機関への試薬提案。専門知識が生きる場所。そこでは、奈緒は評価されていた。顧客からの信頼も厚かった。学会発表の資料を、誰よりも早く正確に読み解ける営業マンとして、ドクターたちの間で名前が通っていた。
だが半年前、組織改編があった。
「学術営業部、通常営業部に統合」
その決定を下したのが、村瀬だった。
⸻
村瀬は、叩き上げの営業マンだった。高卒。二十年、現場一本。支店から本社へ。係長から課長へ。課長から部長へ。一段ずつ、自分の足で上がってきた。その道のりに、誇りを持っていた。
部長になったのは去年。その矢先に、“学位持ちの新人”が、役員会の資料で名前を挙げられているのを聞いた。
「学術営業の白石君、あの提案書は良かったね」
役員のその一言が、村瀬の中で小さな棘になって残った。自分が二十年かけて積み上げた実績より、入社二年の女が一枚書いた提案書の方が、上の人間の記憶に残る。
面白くなかった。だから統合という名目で、奈緒を自分の管轄下に引き入れた。表向きは、「専門知識を通常営業にも活かしてもらう」。実際には、得意先訪問という名の飛び込み営業。研究一筋だった人間に、いきなり数字を追わせる。それがどういうことか、村瀬には分かっていたはずだ。分かっていて、やった。
⸻
最初の一ヶ月、奈緒は契約をひとつも取れなかった。名刺の渡し方も、雑談の間の取り方も、知らない。研究の場では、黙って正しいことを言えば伝わった。だが営業の現場では、正しさより先に、空気を読む速さが求められた。
「白石さん」
村瀬が言う。
「君、また数字落ちてるよね」
「……はい」
「研究者気分が抜けてないんじゃない?」
会議室に薄い笑い。奈緒は何も言わない。
本当は知っている。営業トークも。接待も。雑談も。全部、この人たちは“仕事”だと思っている。でも奈緒には、ずっと“演技”に見えていた。
⸻
会議後。村瀬は廊下で言った。
「次ダメなら、異動じゃ済まないから」
「……分かっています」
「会社は学校じゃないんだよ」
奈緒は軽く頭を下げた。
⸻
同僚の田辺が、あとでそっと声をかけてきた。
「白石さん、大丈夫?」
「大丈夫です」
「村瀬部長、最近きついよね、あなたにだけ」
奈緖は小さく笑った。
「……気のせいですよ、きっと」
だが田辺は分かっていた。ノルマの設定が、他の営業マンより明らかに厳しいことを。同期の男性社員には、達成率四十パーセントでも、村瀬は「まあ来月頑張れ」で済ませていた。二ヶ月連続未達成なら解雇。それが会議で明言された条件だった。
一ヶ月目、契約数、ゼロ。あと一ヶ月。
⸻
その週末、奈緒は久しぶりに大学時代の友人と会った。
「奈緒、なんか痩せた?」
「そう見える?」
「うん。無理してない?」
奈緒は笑って誤魔化した。だが本当は、毎晩胃が痛くて眠れない日が続いていた。
⸻
その夜。奈緒のスマホが鳴る。
「もしもし?」
相手は、大学時代の恩師だった。
『奈緒さん、まだ企業にいる?』
「ええ」
『実はね、急に一枠空いたの』
奈緒は黙る。
『私大の助教授』
世界が止まった。
『あなたなら通る』
長い沈黙。奈緒は、ゆっくり椅子に座った。
「……戻れるんですか」
『戻りなさい』
⸻
電話を切ったあと、奈緒はしばらく泣いていた。悔しさでも、悲しさでもない涙だった。ようやく、自分の場所に戻れる。その安堵だけがあった。研究へ。大学へ。本来いた場所へ。
翌日、奈緒は退職願を書き始める。一度目は言葉を選びすぎて書き直し、二度目は感情が滲みすぎて書き直し、三度目でようやく、事務的な文面に落ち着いた。
営業用名刺を、一枚ずつシュレッダーへ入れていく。小さな音が鳴るたび、肩の力が抜けていくようだった。二百枚近くあった名刺が、半分ほど減った頃だった。
⸻
「白石さん」
村瀬が立っていた。
「来週、仙台出張行ってくれる?あと半月、まだノルマの期間残ってるだろ」
「え?」
「最後のチャンスだよ」
奈緒は迷った。本当はもう辞める。だが、まだ正式な内示は口頭のみだった。書面が来るまでは、波風を立てたくない。それに、最後まで責任は果たしたいという、研究者としての妙な律儀さもあった。
「……分かりました」
村瀬は笑った。
「頑張って」
その笑顔を、奈緒は初めて怖いと思った。
⸻
仙台出張の資料を作りながら、奈緒はふと気づく。村瀬が、やけに出張先の詳細を細かく聞いてきたことに。到着時間。宿泊先。帰りの新幹線の便まで。
「念のため、控えとくよ」
村瀬はそう言って、メモを取っていた。その時は、単なる管理職の几帳面さだと思っていた。
⸻
出張前日の夜、村瀬は自宅で一人、新幹線の時刻表を眺めていた。妻はもう眠っていた。子供の学費。住宅ローン。残り十八年。自分がここで積み上げてきたものが、誰かの一言で簡単に色褪せていくのを、この半年、ずっと見せつけられていた。
⸻
出張当日。夜の駅は混んでいた。疲れた会社員。学生。酔客。奈緒はホームを歩いていた。小さなキャリーケース。営業資料。だがその中身は、ほとんど空だった。もう営業を続ける気はない。
ホーム端で、スマホが震える。大学からだった。
『正式決定しました』
奈緒は、小さく笑った。
⸻
その瞬間。
背後。
軽い衝撃。
視界が揺れる。
電車のライト。
悲鳴。
轟音。
それで終わった。




