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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第十七話 真贋(下編)

井森は、最後の場所へと向かっていた。閉館後の展示室。誰もいない。屏風だけが、照明を浴びている。薄暗い空間に、金色と紺碧の絵が浮かび上がる。戦乱の風景。刀と炎と血。そのすべてが、嘘の上に成り立っている。しかし、その嘘はあまりにも美しく、見る者の心を掴んで離さない。本物が持つべき“真実”よりも、この偽物は“物語”を持っていた。


黒川はすでにそこに立っていた。作品を見つめながら。彼の背中は、昼間の威厳ある学芸員のそれではなかった。何かを背負いすぎた者の、重い影を落としている。


「美しいでしょう」


井森は隣へ来た。くたびれたスーツの男が、国宝級の屏風の前に立つ。その不釣り合いさが、むしろこの空間の異様さを際立たせていた。


「ええ。僕には良く分かりませんけど、なんかすごいなとは思います」


「贋作でも?」


沈黙。井森は答えなかった。代わりに、彼は屏風の前にしゃがみ込み、展示ケースの下部をじっと観察し始めた。まるで、そこに何か特別なものがあるかのように。


黒川はその様子を眺めながら、小さく笑った。疲れ切った顔だった。


「人々は感動した。連日、涙を流して見ていた。なら、本物と何が違うんです」


「そうですねぇ……」


井森は立ち上がり、黒川の隣に立った。二人の男が、一つの偽物を前にして並んでいる。


「例えばですけど、コーヒーでも、チェーン店のと高級店のと、味が違うって言いますよね。でも、本当に違うかどうか、ちゃんと飲み比べたことない人の方が多い。それでも、高い方を『美味しい』って言う。だって、高い方が美味しいはずだから。それと同じようなものですかね」


黒川は眉をひそめた。井森のたとえ話は、いつもどことなく的を外している。しかし、その外し方が、逆に核心を突くことがあった。


「……何が言いたいんです」


「いや、ただの思いつきですよ。僕、芸術には全然詳しくないんですけど、人の気持ちの方はちょっとだけ分かる気がするんです」


井森は再び展示ケースの前にしゃがみ込んだ。今度は、ケースのガラス面を指でなぞっている。指紋を探しているようだった。


「ところで、黒川先生。この屏風を最初に見つけた時、どこにあったんですか?」


「……地方の旧家の蔵です。詳細は非公開ですが」


「旧家の蔵。なるほど。その時、先生は何か違和感を感じたりしませんでした?」


黒川の目が、わずかに揺れた。井森はそれを見逃さなかったが、何も言わずに続ける。


「だって、何百年も行方不明だった国宝が、突然蔵から出てくるわけですよ。まるでタイムカプセルみたいだなって、ちょっと不思議に思いませんでした?」


「古い家には、時々そういうものがあるものです」


「へえ。そういうものなんですか」


井森はうなずいた。そして、突然話題を変えた。


「そういえば、安西さんが亡くなる前日、先生は何をしてました?」


黒川の顔が、一瞬強張った。しかし、すぐに平静を取り戻す。


「……普段通りの業務です。午前中は会議、午後は資料の確認——」


「何時に帰りました?」


「午後七時ごろです」


「七時。だいぶ遅くまでお仕事されてたんですね」


「展覧会前ですから」


「そうですよね。その日、安西さんと会ってます?」


「いいえ。会っていません」


「でも、安西さんから電話が来てますよね。死亡する三時間前くらいに」


黒川は黙った。井森はその沈黙を、じっと待った。


「……仕事の相談です」


「どんな相談ですか」


「屏風の修復についてです」


「具体的に、どんな?」


黒川は答えに窮したようだった。井森はさらに畳みかける。


「安西さんは、修復師ですよね。先生は学芸員。職種が違う。普段、どんな相談をするんですか?」


「……展示方法についてです。屏風の保存状態に合わせて、ケースの環境を調整する必要があったので」


「へえ。それは、安西さんが専門ですよね。先生がわざわざ相談されることですか?」


黒川の口元が、わずかに引き締まった。井森はその変化を見逃さなかった。しかし、まだ引かない。彼はさらに違う方向から質問を重ねる。


「あ、そうだ。収蔵庫の棚の操作盤って、指紋認証じゃないんですね。ボタンとレバーだけ。だれでも使える。あれ、結構古いタイプですよね」


「……そうです。予算の都合で、まだ更新されていません」


「じゃあ、操作した人の記録も残らない?」


「残りません」


「それは困りましたねぇ。事故の時、誰が操作したのか、すぐには分からない。でも——」


井森はゆっくりと黒川の方を向いた。


「安西さんが潰れた場所、ちょっとおかしいんですよ」


「……何がですか」


「あの棚は、完全に閉まるまで十秒かかる。警告音も鳴る。大きな音で。もし自分で操作ミスをしたなら、十秒あれば逃げられる。でも、安西さんは逃げなかった。なぜか」


黒川は答えない。井森は続ける。


「それに、安西さんの体の向き。彼は棚に背を向けて倒れていたんです。もし自分で操作して潰されるなら、棚の方を向いているはずです。でも、背を向けていた。つまり——誰かに押されたか、あるいは何か別のことに気を取られて、後ろから棚が動いた」


「事故です」


「事故かもしれない。でも——」


井森はもう一度、展示ケースの下部を指差した。


「先生の指紋が、ここについていたんですよ」


黒川の顔色が変わった。


「ケースの下部。普通、展示品を確認する時は上の方に触れる。でも、先生の指紋は低い位置にある。ちょうど——倒れた人を見下ろすような高さに」


「何を——」


「安西さんが潰れた時、先生は彼の上に立っていた。そして、その時ケースに手をついた。それが、この指紋です」


黒川は、声を失った。長い沈黙が、展示室に流れる。空調音だけが、規則正しく響いている。井森はその沈黙を破らない。ただ、じっと黒川を見つめていた。


やがて、黒川はゆっくりと口を開いた。


「……君は、何を知っているんだ」


「何も知りませんよ。ただ、気になることがあるだけで。でも——」


井森は穏やかな声で言った。


「先生が、何かを隠していることは分かりました。そして、隠し続けることが、どれだけ苦しいかも」


黒川の肩が、わずかに震えた。


「苦しかったんじゃないですか」


井森の声は、さらに優しくなった。


「隠した瞬間から。偽物って、苦しいんですよ。最初は見つからないと思っても、毎日毎日、誰かに見つかるんじゃないかって怖くなる。夜も眠れなくなる。鏡を見ても、自分が自分じゃない気がする。そういうの、僕も少しだけ分かる気がします」


黒川は、ゆっくりとその場に座り込んだ。床に手をつき、うつむいたまま、しばらく動かなかった。


「……いつから、気づいていたんです」


「最初からですよ。だって、あの展示ラベル。群青の話を、先生しか知らないのに、ラベルが先に変わってた。あれが、全ての始まりです」


井森は黒川の隣に座った。床に直接腰を下ろして。くたびれたスーツが、床の埃で汚れるのも構わずに。


「もう一つ、教えてください。あの屏風、先生はどこから持ってきたんですか」


「……自分で描いたんです」


黒川の声は、かすれていた。


「十年かけて。資料を集めて、技法を研究して、顔料を探して。誰にも言わずに、一人で。最初は趣味のつもりだった。でも、出来上がった作品があまりにも本物に近くて——それで、つい」


「つい、発表した」


「そうです」


黒川は顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいる。


「誰かを騙そうと思ったわけじゃない。ただ——この作品が、本物と認められた瞬間、あまりにも多くの人が喜んだ。涙を流して、『奇跡だ』と言った。その顔を見たら——もう、戻れなかった」


「真実を言えなくなった」


「はい」


井森はうなずいた。そして、静かに言った。


「安西さんも、先生と同じだったんでしょうね。作品を見て、『本物だ』と思った。先生のことも、本物だと思ってた。だから、疑わなかった。疑うことを選ばなかった。それが、彼の死につながった」


黒川の顔が、激しく歪んだ。


「……殺すつもりじゃなかった。ただ、あの棚を動かしたら、彼が倒れて——」


「事故じゃないですよ」


井森の声は、優しかったが、確固としていた。


「先生は、彼を殺した。その事実は、これからも変わりません」


黒川は何も言わなかった。ただ、自分の手を見つめていた。十年間、一枚の屏風を描き続けた手。今は、わずかに震えている。


井森は立ち上がった。そして、黒川に手を差し伸べた。


「行きましょうか、先生」


黒川は、その手を取った。


……


数週間後。展覧会は中止された。海外巡回も、図録も、すべてが白紙になった。文化庁の調査が入り、黒川はすべての罪を認めた。彼は、贋作を本物として発表し、そのために真実を知った安西を殺した。


だが、ニュースでは最後まで、「幻の名作」と呼ばれていた。人々は、それが贋作だと知っても、なおその美しさを語った。本物かどうかは、もう関係なかった。


井森はその記事を見つめる。薄暗い食堂で、一人のんびりとコーヒーを飲みながら。


「本物って、難しいですねぇ」


静かな声。


「人間の方が、先に偽物になることある」


彼は新聞を置き、窓の外を見た。外は春の陽気だった。桜の花びらが、風に舞っている。


コーヒーを飲み干し、井森は立ち上がった。コートを手に取り、店のドアを押し開ける。春の風が、彼の頬を撫でていった。


「さて、次の仕事に行かないと」


誰もいない街角で、一人呟いた。


それが、この事件の終わりだった。


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