第十七話 真贋(中編)
数日後。井森は再び博物館を訪れた。今度は、事故があった収蔵庫を見せてほしいと言った。館側はしぶしぶ承諾した。担当の学芸員が案内し、地下へと続く階段を降りる。
「ここです」
開かれた収蔵庫。移動式の巨大棚が並んでいる。その中で、安西が死亡した棚には、黄色いテープが張られている。井森はその前に立ち、棚の隙間を覗き込んだ。
「怖いですねぇ。ここで潰されたんですよね」
「事故です。棚の操作ミス——」
「操作ミス?」
井森は棚の操作盤を見た。ボタンとレバー。シンプルな構造だ。
「この棚、操作するのに資格が要るんですか」
「いいえ。誰でもできます。ただし、十分な訓練を受けたスタッフだけが——」
「安西さんは、訓練を受けてた」
「……はい」
井森は床を見た。ガラスケース搬入用の跡。靴跡。指紋。彼はしゃがみ込み、床の隅にできた小さな傷をじっと観察した。そして、もう一度立ち上がり、棚の操作盤を指差した。
「この盤、指紋取れました?」
「多くのスタッフが触れていますから——」
「安西さんの指紋は?」
「……ついていました」
「事故なら当然ですね。自分で操作したんだから」
井森はうなずいた。しかし、すぐに続ける。
「でも、黒川さんの指紋は?」
学芸員は言葉を失った。
「ついてなかったんでしょう?」
「……はい」
「黒川さんは、事故後にここに来てない?」
「来ていません。事故の時は、別の場所に——」
「でも、安西さんは黒川さんに電話してるんですよね。『先生、ちょっと見てほしいものがあって』って」
学芸員は答えなかった。
井森はスマートフォンを取り出し、通信記録を表示した。
「安西さんは、死亡する直前に黒川さんに電話をかけている。そして、電話の後、ここで作業を続けた。つまり——黒川さんは、電話の後にここへ来た可能性がある」
「それは——」
「来ていないと言うなら、アリバイを確認しますよ」
学芸員は黙った。
井森は棚の下部を見た。金属の脚部。床から十センチほどの高さ。彼はしゃがみ込み、その部分をじっくりと観察した。
「低いなぁ」
「何がですか」
「いや、なんでも」
井森は立ち上がった。
「もう一ついいですか」
「……何です」
「この棚、警告音が鳴ったそうですね」
「ええ。稼働時の安全警報です」
「その音、どのくらいの大きさなんですか」
「……かなり大きいです。収蔵庫中に響きます」
「じゃあ、隣の部屋にも聞こえる?」
「聞こえます」
「なるほど」
井森はうなずいた。
「じゃあ、安西さんが助けを呼ばなかったのはおかしい。あの警報音が鳴ってから、棚が完全に閉まるまで、どのくらい時間があるんですか?」
学芸員は考え込んだ。
「……十秒ほどです」
「十秒。逃げようと思えば逃げられる時間ですね。でも、安西さんは逃げなかった。なぜか」
「それは——」
「逃げられない状況だったからです。どこかに挟まれて、動けなかった。もしくは——誰かに、逃げるのを妨害された」
学芸員は何も言わなかった。
……
井森はその足で、黒川の研究室を訪れた。
部屋は広く、本棚には美術史の専門書がぎっしりと並んでいる。机の上には、ルーペと鑑定書。壁には、歴代の館長たちの写真。黒川は窓際に立ち、外の景色を見ていた。
「お忙しいところ、すみません」
井森はソファに座り、周囲を見回した。部屋の隅には、修復用の道具箱。その横に、小さな金属製のケース。
「安西さんのことですが」
「……事故です」
黒川は振り返らずに答えた。
「そうですか」
「ええ。収蔵庫の事故は、時々起こります」
「時々、ね」
井森は小さく笑った。
「安西さんが、あなたに電話をかけたのはご存じですか?」
黒川は一瞬、言葉に詰まった。だが、すぐに答える。
「……知っています。仕事の相談だったと」
「仕事の相談?」
「ええ。屏風の修復について」
「群青の件ですか」
黒川の肩が、わずかに震えた。
「……何の話です」
「安西さんは、あの屏風が贋作だと発見した。そして、それをあなたに報告した。それを知ったあなたは、彼を——」
「証拠はありますか」
井森は首を振った。
「まだありません。でも——」
彼は立ち上がり、窓の外を見た。博物館の裏手には、広い庭園が広がっている。その向こうに、収蔵庫の入り口が見える。
「あなたは、安西さんが事故死する前に、収蔵庫に来た。彼を押して、棚の前に閉じ込めた。そして、警告音が鳴っている間に、操作盤を動かして——」
「そんなことが、可能だと思いますか」
「可能だと思います」
井森は振り返った。
「あなたは、美術の専門家だ。でも、機械にも詳しい。この博物館で三十年、収蔵庫の構造を知らないはずがない」
黒川は黙った。
井森は一礼して、部屋を出た。しかし、その目は、まだ何かを見つけていなかった。




