第二話 翠嵐閣女将殺人事件(中編)
1. 胃袋が語る時間
目黒署の取調室ではなく、老舗旅館・翠嵐閣の応接間である。
磨き抜かれた欅のテーブルに、湯気の立つ玉露。井森刑事は、湯呑を手にしながら落ち着かぬ様子で視線を泳がせた。
「いやぁ……。こういう高いお茶ってのは、薄給の身にはかえって毒ですね。味が良すぎて、落ち着かない」
向かいに座る佐伯冬子は、喪服の黒を一切乱さず、背筋を糸のように伸ばしている。
彼女の計算では、母・静江の死亡推定時刻は深夜二時から四時。その時間帯、彼女は自宅近くのコンビニの防犯カメラに映り、完璧なアリバイを作ったつもりだった。
「井森さん。母の死は、長風呂によるヒートショック……そう伺っていますけれど」
「ええ、最初はね」
井森は湯呑を置き、声を低くした。
「ところが監察医が、お母様の胃の中から“葛切”を見つけたんです。ほとんど消化されていない状態で」
冬子の指先が、わずかに震えた。
「……それが?」
「若女将の美奈さんの話では、お母様が葛切を口にしたのは昨夜の二十一時。夜食として部屋に運んだそうです。炭水化物なら二、三時間で胃から消える。もし深夜二時に亡くなったのなら、胃は空っぽのはずなんですよ」
井森は身を乗り出し、冬子の瞳を射抜いた。
「つまり——お母様は二十二時前には、すでに息絶えていた。あなたが“自宅にいた”と主張するより、ずっと早い時間にね」
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2. 民法の罠:相続欠格
冬子は、ふっと口角を上げた。冷笑というより、計算が狂ったことへの苛立ちが滲む。
「……美奈が嘘をついている可能性は? 彼女こそ、母がいなくなれば旅館を独り占めできる。私は違うわ。父の遺産は、母が生きていようが死んでいようが、私にも等分の権利があるんですもの」
異母姉妹の相続分は同じ——冬子は、そう言外に強調した。
「殺す理由なんて、私にはないわ」
「そこなんですよ」
井森は膝を軽く叩いた。
「あなたが法律に詳しいと聞いて、腑に落ちました。実は私、さっき法務局と公証役場を回ってきましてね。……冬子さん、“相続欠格”という言葉をご存知でしょう」
冬子の表情が、氷のように固まった。
「お父様の遺言書は本物でした。ところがあなたは、静江さんが遺言書を偽造したと疑い、密かに破棄しようとした。あるいは、自分に有利な遺言書を書かせようと脅した。もしその過程で静江さんを殺害したと認定されれば、あなたは相続権をすべて失う」
井森は、淡々と続けた。
「でも、あなたはこう考えたはずだ。
“静江さんが死ねば、父の遺産は後妻の取り分ではなく、子ども同士で再分配される”と」
冬子は唇を噛んだ。
「あなたは静江さんの養子ではない。だから彼女が生きている限り、遺産は彼女のもの。彼女が死んで初めて、あなたに“二次相続”の道が開ける。
——法律を盾に、殺人を『正当な権利の回収』にすり替えたんですよ」
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3. 浴槽の「設定温度」
井森は立ち上がり、障子越しに庭園を眺めた。
「冬子さん。あなたは法医学の知識も仕入れていた。死後体温の低下を遅らせるため、浴槽の温度を四十二度に設定し、遺体を温め続けた。……だが、一つだけ見落としていた」
「……何を」
「この旅館の“こだわり”ですよ」
井森は指先で天井を示した。
「重要文化財の建物を守るため、給湯システムは特殊仕様。一定温度を超えると、火災報知器と連動して管理室に警告が入る。昨夜二十二時十五分、そのログが残っていました。誰かが手動で温度を上げた証拠です」
井森はゆっくりと冬子へ歩み寄った。
「その時間、美奈さんは仲居たちと仕込みの最中。アリバイは確認済みです。
——さて。温度調節パネルを操作できたのは、誰でしょう」
冬子の唇が、かすかに震えた。




