第二話 翠嵐閣女将殺人事件 (下編)
1. 崩れ去る砂の城
冬子は、冷めきった茶碗を握りしめたまま、震える指を止められなかった。
「……面白いお話ね、井森さん。でも、温度設定のログなんて、誰かの操作ミスかもしれない。私がその場にいた証拠にはならないでしょう」
井森は、困ったように頭を掻いた。
ヨレたコートの内ポケットから、一通の書類を取り出す。
「いやあ、そう言われると思ってました。冬子さん、あなたは法学部出身で、民法には本当にお詳しい。『異母姉妹でも相続分は同じ』……確かにその通りです。でもね、一番大事な“前提”を見落としていた」
テーブルに広げられたのは、亡き父・正一氏の戸籍謄本。そして、静江女将が密かに進めていた遺言信託の写しだった。
「あなたが静江さんを殺した理由は、『静江さんが死ねば、父の遺産が自分に転がり込む』と信じていたからだ。でも、法律というのは時に残酷でしてね……」
井森は、淡々と告げた。
「この旅館の土地と建物、そして三十億の資産。そのほとんどは、正一さんが亡くなる直前に、すでに“静江さん個人の固有財産”として贈与が完了していたんです」
冬子の瞳が、音を立てて揺れた。
「……そんな……」
「つまり、あなたが狙った“父の遺産”は、もう父のものではなかった。そして、あなたは静江さんの養子ではない。血の繋がらない母子が養子縁組をしていない場合、相続権は一切発生しない」
井森は、静かに言い切った。
「あなたは、一円も手に入らない相手を殺してしまったんですよ」
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2. 最後の一手:法医学の逆襲
「嘘よ……そんなはずない! 私は調べたわ、父の財産は……!」
冬子の叫びが、応接間の静寂を裂いた。
「ええ、仲居さんに聞き回ったんでしょう。でも帳簿までは見せてもらえなかった。……そしてもう一つ。あなたが“完璧”だと思っていた法医学的トリックが、皮肉にもあなたを指名したんです」
井森は、鑑識が撮影した写真を一枚取り出した。
風呂場の排水口の、異様に鮮明なクローズアップ。
「あなたは四十二度の湯に遺体を沈め、体温低下を遅らせて死亡時刻を偽装した。でもね、冬子さん。人間は亡くなると、皮膚のバリア機能が失われる。高温の湯に長時間浸かれば、“浸軟”が急速に進む」
井森は、証拠袋に入った小さな皮膚片を示した。
「排水口の網に、あなたの指の皮膚がこびりついていた。静江さんのものではありません。死後硬直が始まった遺体を動かすのは重労働ですからね。浴槽の縁に指を強く擦りつけたんでしょう。そこに、あなたの指紋が残っていた」
冬子は、自分の指先を見つめた。
赤く剥けた痕が、言い逃れを許さなかった。
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3. 終幕
「……皮肉なものですね」
井森は立ち上がり、障子越しに広がる日本庭園を眺めた。
「あなたは法律を武器に、誰よりも賢く立ち回ろうとした。その結果、法律の“盲点”に足をすくわれ、守りたかったはずの人生をすべて失った。……静江さんはね、美奈さんにこう言っていたそうですよ。『冬子さんにも、老後の蓄えとして少しばかり土地を分けるつもりだ』と」
井森は、ため息をひとつ落とした。
「本当に、あと一歩だったんです」
冬子は、椅子から崩れ落ちた。
嗚咽が、歴史ある翠嵐閣の静寂を濡らしていく。
遠くでパトカーのサイレンが鳴り、徐々に近づいてきた。
井森は出口へ向かい、ふと振り返った。
「そうそう、最後に一つだけ。……その指の傷、早めに手当てしたほうがいい。目黒の土は、一度入ると、なかなか落ちませんから」
コートの襟を立て、井森刑事は夜の帳へと消えていった。




