第二話 翠嵐閣女将殺人事件(上編)
1. 殺意の計算
目黒川を見下ろす高台に佇む老舗旅館「翠嵐閣」。
明治の文豪たちが逗留したという離れを今も残し、建築美と静謐を売りにした名宿である。
現女将・高城静江(七十)は、この広大な土地と建物を、亡き夫・正一の死後も一人で守り抜いてきた。
正一はこの一帯の大地主で、十年前に他界した際、遺言により全資産を後妻である静江へ相続させた。
不動産と美術品を合わせれば三十億円を下らない。
この“全て”に納得していない者が一人いた。
正一の先妻の娘、佐伯冬子(五十)である。
結婚後は翠嵐閣と距離を置いていた冬子だが、ここ数ヶ月、旅館周辺を頻繁に歩き回り、仲居に探りを入れる姿が目撃されていた。
——父が娘の私に一文も残さないはずがない。
——静江が遺言を書かせたに違いない。
冬子は、そう信じて疑わなかった。
彼女は現代の相続法に明るかった。
静江が死ねば、相続人は実子である若女将・高城美奈(四十五)と、自分。
民法上、異母姉妹であっても父を同じくするなら相続分に差はない。
静江の養子でなくとも、父の代からの財産が含まれる以上、冬子には“権利”がある。
冬子にとって静江は、後妻として財産を乗っ取った女に見えた。
一方、静江は美奈を唯一の後継者とし、冬子を排除する法的手続きを静かに進めていた。
冬子は、ある夜、心の底でひっそりと結論を出した。
——手遅れになる前に、終わらせるしかない。
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2. 完璧な時間差
決行の夜。
翠嵐閣はリニューアル工事のため、一部の客室が閉鎖されていた。
静江は、重要文化財指定の離れにある「文豪の湯」で夜霧を眺めるのが日課だった。
冬子は、その習慣を熟知していた。
美奈の声色を真似てフロントをすり抜け、静江の背後に忍び寄る。
「誰……?」
「冬子さん、どうしてこんな時間に?」
「お父様の遺言。あれはあなたが書かせたんでしょう。全部返してもらいます」
冬子は、用意していたカリウム製剤を静江の首筋に注射した。
カリウム過剰による心停止は、検死で見逃されやすい。
さらに風呂の温度を四十二度に設定する。
冬子が利用したのは、死後体温と直腸温度の“法医学的タイムラグ”だった。
《死後冷却の遅延》
通常、死体の温度は一時間に約一度ずつ下がる。
しかし高温の湯に浸かったままでは、体温低下は著しく遅れる。
冬子は静江を湯船に沈め、死後硬直を進ませつつ、死亡推定時刻を深夜へとずらそうとした。
その後、冬子は深夜二時に自宅近くのコンビニへ向かい、防犯カメラに“アリバイ”を刻んだ。
翌朝、静江が発見されれば、警察は「深夜の入浴中の心臓発作」と判断するはずだった。
完璧な計算。
冬子はそう信じていた。
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3. 井森刑事の登場
翌朝。
通報を受けて翠嵐閣に現れたのは、よれたトレンチコートに寝癖のついた男——警視庁捜査一課の井森刑事だった。
現場に到着するなり、豪奢な装飾には目もくれず、風呂場のタイルの“乾き具合”を指でなぞる。
「いやぁ、素晴らしい建築ですねぇ。漱石先生もここから月を見たんでしょうか」
遺体安置所で、若女将の美奈と、駆けつけた冬子が待っていた。
冬子は悲劇の娘を完璧に演じる。
「母は……血は繋がっていませんが、尊敬していました。こんなことになるなんて」
「そうですか、そうですか。お辛いでしょうなぁ」
井森は、くしゃくしゃのメモ帳を取り出した。
「ところで冬子さん、ほんの些細なことなんですがね。昨夜の二時頃、ご自宅からコンビニまで歩かれましたよね。防犯カメラに映ってました」
「ええ、寝付けなくて。それが何か?」
「いえ、その時の靴なんですが。翠嵐閣の庭に落ちていた“赤土”と同じものが、靴底にびっしり詰まってまして。目黒のこのあたりは特殊な土層でしてねぇ。お宅の近所には、そんな土はないはずなんですよ」
冬子の顔から血の気が引く。
だが、まだ余裕を崩さない。
「あら、数日前に下見に来た時のものかしら。相続の件で相談がありましたから」
「なるほど、下見ですか。メモしておきます」
井森は、にやりと笑った。
「それとね、監察医が変なことを言ってるんです。お母様の直腸温度と死後硬直のバランスが、どうにも計算に合わない。まるで誰かが意図的に“お風呂の温度を上げた”みたいだって」
井森は首を傾げた。
「署に帰って報告します。今日はこれで失礼します」
帰り際、ふと振り返る。
「そうそう、言い忘れましたが……私、夏目漱石より“コロンボ”が好きでしてね」




