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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第一話「雨降る高級住宅街の殺人」(後編)

第十七章 静かなる断罪

取調室の空気は、湿り気を帯びた綿のように重く、澱んでいた。

島崎は机に並べられた証拠のメモを、穴が開くほど見つめている。そこには「五億」という数字が、執念深い足跡のように何度も記されていた。日付、金額、振込先。逃れようのない事実が、静かに彼を包囲していく。

「編集長」

井森が、緊張感とは無縁ののどかな声を出した。

「お茶、淹れ直しましょうか。少し冷めましたし」

「……いらない」

島崎の声は、掠れた砂を噛んだようだった。

「そうですか」

井森は特に気にした様子もなく、事務用の封筒から小さなデバイスを取り出した。野中の遺品であるボイスレコーダーだ。

「野中さんは用心深い方だった。あなたが脅しに屈するか、それとも牙を剥くか。彼はその両方に備えていたようです」

再生ボタンが押される。

スピーカーから、野中の硬質な声が漏れ出した。

『島崎さん、そろそろ潮時じゃないですか。会社の金、五億。あなたが着服して投資に回した。そして……その投資は、無残に失敗している』

島崎の頬が、ピクリと痙攣した。

「この録音だけで、あなたの首を絞めるには十分です」

井森はレコーダーを止めると、逃げ場を塞ぐように穏やかに告げた。

「ですが……殺人については、まだあなたの口から何も伺っていません」

島崎は喉の奥を鳴らし、深く、重い息を吐き出した。それは、彼が積み上げてきた「編集長」という城壁が崩壊する音だった。


第十八章 仮面の剥落

「あの日、野中が来たのは午後八時を回った頃だった」

語り始めた島崎の声は、もはや感情の起伏を失っていた。

「最初は、古い友人として酒を酌み交わしていた。だが、彼はすぐに本性を現した。『新しい事業に俺を加えろ』と。拒めば横領をぶちまける、とね。断れば破滅、受け入れれば一生、奴の飼い犬だ。どちらを選んでも、私の人生に明日はなかった」

井森は相槌も打たず、ただ深い慈しみさえ感じさせる眼差しで聞き入っている。

「酒に睡眠薬を混ぜた。眠った彼をオーディオルームへ運び……スピーカーケーブルで絞めた。加湿器を使ったのは、死体検案を狂わせるためだ。湿度を上げ、エアコンで室温を調整すれば、直腸温の下がり方を遅らせ、死亡推定時刻を偽装できる」

「完璧な計算でしたね。実際、鑑識の初期段階では一時間以上の誤差が出ていた」

井森の言葉に、島崎は自嘲気味な笑みを漏らした。

「駅への往復、スーパーのレシート、防犯カメラへの露出。すべては完璧なアリバイのための舞台装置だった。だが……」

「来客中に土砂降りの中の駅構内のトイレ利用と買い物、現代人のライフラインであるUberの存在。生活の細部に宿る『日常』までは計算に入れられなかった」

「皮肉なものだ」

島崎は虚空を見つめた。

「アリバイという『非日常』を構築することに必死で、一人の人間としての『日常』を置き去りにしてしまった。意味のないコルクの破片を心配したのも、加湿器を放置したのも……結局犯行現場という異界から逃げ出したかった私の臆病さゆえだ」

「完璧を求める者ほど、想定外の綻びに弱い。皮肉な真理ですね」


第十九章 底なしの淵

その時、鉄の扉が控えめにノックされ、若い刑事が滑り込んできた。井森の耳元で数秒、囁きが交わされる。

井森の眉が、わずかに動いた。

「編集長。最後に一つ、確認させてください」

「……まだ何かあるのか」

「野中さんの遺したメモに、『表の五億』と『裏の五億』という記述が見つかりました」

島崎の顔から、わずかに残っていた血色が完全に失われた。

「表は会社の金。では、裏の五億とは?」

井森の問いに、島崎は唇を戦慄かせ、やがて絞り出すように答えた。

「……ある大口の取引先から、個人的な資産運用を頼まれていた。彼らは私を信じ切っていた。その五億も……投資の穴埋めに消えた。合計、十億だ」

島崎は両手で顔を覆った。指の隙間から、取り返しのつかない絶望が滴り落ちるようだった。野中は、彼がひた隠しにしていたその「暗部」までも見抜いていたのだ。


第二十章 黄昏の邂逅

取り調べを終え、留置場へと続く無機質な廊下。

島崎は隣を歩く井森に、ふと問いかけた。

「刑事さん。あんたはいつも、あんな風に人を追い詰めるのか」

「追い詰めるだなんて。私はただ、気になったことをお聞きしているだけですよ」

「その『ちょっとした疑問』が、一番厄介なんだ」

島崎は力なく笑った。

「最初は冴えない男だと思ったが……あんたの質問は、真綿で首を絞めるように、じわじわと私の逃げ道を塞いでいった。井森さん。忘れないよ。私の人生を終わらせた男の名前として」

「終わらせたんじゃありません」

井森は足を止め、真っ直ぐに男を見据えた。

「ようやく、本当の自分として生きるための、始まりですよ」

島崎はその言葉を噛みしめるように数秒沈黙し、小さく頷くと、重い鉄扉の向こうへと消えていった。


第二十一章 雨上がりの肖像

一週間後。

島崎の起訴が確定した。横領、殺人、背任。新聞の第一面を飾るには十分すぎるスキャンダルだ。

井森は、成城の高台にいた。主を失った邸宅が、西日に照らされて沈黙している。

「井森さん、ここにいたんですか」

若い刑事が駆け寄ってくる。

「島崎の動機、解明されましたね。でも……なぜ彼ほどの男が、あんな破滅的な投資にのめり込んだんでしょう」

井森は遠くの空を見つめた。

「人間は、完璧という名の呪縛に弱いんです。一度ついた小さな嘘を隠すために、より大きな嘘を重ねる。傷を隠そうとして、自ら深い傷を刻んでしまう。彼は『完璧な編集長』という虚飾を守るために、自分自身を切り売りしてしまったんでしょう」

「井森さんって、時々すごく達観したことを言いますよね」

「よしてください。ただの、歩くのが遅い刑事ですよ」

井森は照れ臭そうに笑うと、踵を返した。

「さあ、行こうか。目黒の旅館で事件だそうだ。今度は『お花見の名所』が舞台らしい」

「もう次の現場ですか。井森さん、たまには休んでくださいよ!」

背後で騒ぐ若手を尻目に、井森はのろのろと坂を下る。

トレンチコートの襟を立て、沈みゆく夕日に背を向けて。

街の綻びを見つけ、それを一つずつ丁寧に拾い集める。それが、この冴えない刑事に与えられた、唯一にして孤独な役目だった。

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