第十六話 神々の黄昏(下編)
その後の捜査は、井森の予想通りには進まなかった。物理的な証拠は乏しかった。床板の開閉記録は、事故後にリセットされていた。制御盤の指紋も、多くのスタッフが触れた後では特定できない。ウインチの操作記録も、消去されていた。
「決め手がないんです」
斎藤が言った。井森はうなずいた。
「ええ。分かってる」
「どうします?」
「もう一度、劇場へ行こう」
……
劇場の客席には、誰もいなかった。暗い舞台。中央だけ照明。高瀬悠介は、一人でそこに立っている。舞台中央。奈落の真上。彼はその場所に立ち、何かを考えているようだった。まるで、自分の演出を確かめるかのように。
井森は客席から舞台を見上げていた。
「綺麗ですねぇ」
静かな声が響く。客席は完全な闇。劇場独特の静寂が、二人の間に広がっている。
「ここ、奥さん立ってた場所ですよね」
悠介は答える。
「ええ」
「危ない場所なのに」
「事故です」
「そうですねぇ」
井森は頷く。
「でもね」
ゆっくり立ち上がる。
「奥さん、舞台の人じゃないんですよね」
悠介は黙った。
「なのに、危険位置にピタッと立ってる。初めて来た人が、あんな場所に立つと思いますか? 普通は怖がって、端に寄るか、中央より前に出る。ましてや、奈落の真上なんて——」
井森は舞台中央へ歩く。彼もまた、奈落の真上に立った。その足元には、閉じた床板。彼は軽く足を踏み鳴らす。コンクリートの感触。閉まっている。
「ここに立ってください、と言われたら、誰でも立つ。でも——なぜ、ここを選んだんですか。もっと別の場所でもよかったはずです」
「演出上、必要な位置だった」
「なるほど」
井森は続ける。
「演出上、必要な位置だった。でも、その位置が最も危険な場所でもあった。それを知っていて、あなたは彼女をそこに立たせた」
「事故です」
「じゃあ、なぜ床板が開いたんですか」
「機械の故障——」
「じゃあ、なぜウインチが動いていたんですか。床板が開くのと同時に」
悠介の顔色が変わる。
「調べました。その日の操作記録は消えていたけど、電力使用量のログは残っていました。床板が開いた時刻に、ウインチが動いていた。巨大なセットを動かすほどの電力消費。つまり、誰かがウインチを操作しながら、床板も開いた」
井森はもう一度、舞台中央を見渡した。
「ここからでは、舞台袖の制御盤までは見えない。でも、制御盤からはここが見える。あなたは彼女を立たせて、自分は舞台袖に戻った。そして、ウインチを動かして音を隠しながら、床板を開いた」
「……」
「彼女は気づかなかった。音が大きすぎて。そして、あなたは彼女の立っている場所を“真っ暗”にした」
悠介は答えない。
井森は静かに言った。
「舞台監督は、人の立ち位置を決める仕事です。あなたはその仕事を、殺人のために使った」
長い沈黙。客席は暗い。まるで巨大な穴だった。
やがて悠介は笑った。疲れ切った顔だった。
「……分かりますか」
井森は答えない。
「ここまで来るのに、何年かかったと思いますか」
低い声。
「劇場の床で寝て、大道具運んで、チケット売って。誰も見ていないところで、十年以上やってきた。やっと——選ばれた」
悠介は舞台を見上げる。
「でも、あいつは昔の俺を知ってる。公民館で、客十人のオペラやってた頃を。手作りの舞台。誰も見ていない。でも、それでも俺たちは本気だった。あいつは、その時代の俺を知っている。そして離婚は絶対しないと言って聞かなかった。それが——どうしても」
「戻れなかった」
井森が代わりに言った。
悠介はうなずいた。
「俺はもう、戻れなかった。戻る道を、自分で断ち切った。安藤に言われたんだ。『条件がある。離婚して、私の愛人と結婚しろ。そうすれば二期会の舞台監督にしてやる』って。俺は——最初は断った。本当に。でも、新国立劇場は任期制だ。新期にはまた新しい監督,助監督がやってきて、俺は追い出される。そのあとは市民オペラの仕事を細々と探すか、それとも——」
「選ばれる側に行くか」
「そうだ。俺は選ばれたかった。選ばれるために、二十年やってきたんだ」
「真由美さんは、離婚を拒否した」
「あいつは言った。『あなたは選ばれる側に行きたいだけだ』って。それが、一番痛かった。あいつは、いつも俺の本質を見抜く。公民館の頃から」
「だから殺したんですか」
「殺してなんかない。事故だ」
「あなたは彼女を“立ち位置”で殺した。舞台監督として、最も得意な方法で」
井森は穏やかに言った。
「でも、あなたは舞台監督だからこそ、ミスをした。説明しすぎた。床板が開く音を隠すために、ウインチを動かした。でも、そのウインチの操作記録は、予定外だった。あなたは“事前に準備”していたから、予定を変更した。それが、あなたの敗因です」
悠介は何も言わなかった。
井森は続ける。
「劇場は、事故の多い場所です。だからこそ、あなたはそれに乗じた。でも——人間がやることには、必ず綻びが残る。あなたの綻びは、ウインチの操作記録と、立ち位置図の“不自然な正確さ”だった」
悠介は、長い沈黙の後、口を開いた。
「……あいつは、最後に笑ってた。公民館の時と同じ顔で」
井森は何も言わなかった。
舞台照明が、静かに落ちていく。暗転。最後に残ったのは、奈落の黒だけだった。悠介はその場に立ち尽くしていた。もう何も言わなかった。井森は客席に戻り、ゆっくりと歩き出した。
……
数週間後。二期会の人事は白紙になった。安藤の不正も表面化し、彼は芸術監督を辞任した。水島沙也香は、別の劇場へ移った。高瀬悠介は、すべての罪を認めた。彼は自分の手で、妻を奈落へと落とした。舞台監督として、最も得意な方法で。
生後七ヶ月の子供は、真由美の両親が引き取ることになった。悠介は、面会を申し出ることはなかった。彼は、自分が選んだ未来を生きるしかなかった。しかし、その未来には、もう誰もいなかった。
劇場はまた、別のオペラを上演する。悲劇は毎晩演じられる。観客は泣き、拍手し、帰っていく。誰も、その裏側で何が起こったのかを知らない。
井森は空の客席を見上げる。
「オペラって、怖いですねぇ」
少し考える。
「人間まで、役にしちゃう」
劇場は静かだった。照明は落ち、カーテンは閉じられている。舞台の上には、何もない。ただの暗い空間。しかし、その暗がりの中で——誰かが立っている気配がした。真由美だったかもしれない。悠介だったかもしれない。あるいは、ただの影だったかもしれない。
井森はそれ以上見ずに、劇場を後にした。外の空気は冷たかった。春の夜。桜の花びらが、風に舞っている。彼はスーツの襟を直し、歩き出した。
「人間って、立ち位置を間違えると、戻れなくなるんですねぇ」
誰に言うでもなく、呟いた。
劇場の灯りが、後ろに遠ざかっていく。
それが、この事件の終わりだった。




