第十六話 神々の黄昏(中編)
事件は「深夜の劇場での事故」として報じられた。
死因は転落による頭部外傷。即死だった。遺体は奈落の底で発見された。彼女は白いワンピースを着ていた。それが、血で赤く染まっていたことだけが、唯一の“演出的でない”要素だった。
誰もが事故だと思った。「お気の毒に……」という言葉が、関係者たちの口々から漏れる。しかし、皆どこか距離を置いていた。芸術界では、事故は“止められないもの”として処理されることがある。誰かの責任にすると、それだけのコストがかかる。誰も、深く追及したがらなかった。
ただ一人を除いて。
「いやぁ……暗いですねぇ」
井森正一刑事は、新国立劇場を見上げていた。くたびれたスーツ。眠そうな目。場違いな男が、日本で最も権威のあるオペラハウスの前に立っている。
「こういう場所、なんか“落ちる”って決まってる気がしません?」
若い斎藤刑事が、後ろから答える。
「劇場ですから。天井も高いですし、舞台装置も多い。事故は——」
「事故、ね」
井森は劇場の中へ足を踏み入れた。暗い通路。壁にはオペラのポスター。歴代の公演の写真。華やかな世界の裏側に、今、彼は足を踏み入れている。
「そういえば、被害者のご主人って、ここで働いてるんだって?」
「はい。高瀬悠介さん。舞台助監督です」
「任期制なんだって?」
「……はい。三年契約です」
井森は少し間を置いた。
「じゃあ、彼はここでいつまで働けるか分からないわけか」
「そうなります」
「ふうん」
井森はそれ以上言わなかった。だが、その目はすでに何かを考え始めている。彼は現場へ向かう通路を歩きながら、頭の中でこれまでの情報を整理していた。
真由美は元ソプラノ歌手。アマチュア劇団出身。結婚後、子育てのために舞台を降りた。夫の悠介は、新国立劇場の助監督。任期制。不安定なポジション。そして——二期会の次期舞台監督の話があるらしい。
井森は舞台袖へ到着した。そこには、独特の匂いがあった。埃と、化粧品と、古い木と、金属の匂い。照明器具の熱を帯びた匂い。舞台の裏側にだけある、独特の空気だ。
「問題の位置はこちらです」
案内したスタッフが、舞台中央を指さす。井森はそこへ歩いていった。床板は閉じている。しかし、その下には——奈落がある。深さは十メートル以上。もし落ちれば、即死は避けられない。
「ここですね」
井森はしゃがみ込み、床の縁をじっと見つめた。金属のフレーム。可動式の床板。そして——わずかな傷。何かが擦れた跡。
「被害者が誤って——」
スタッフが説明しようとするのを、井森は手で制した。
「変なんですよねぇ」
「何がですか」
「ここ」
井森は指で示した。
「普通、人が落ちる時って、何かにつかまろうとするんですよ。手すりとか、床の端とか。でも、ここには引っかき傷がない。彼女は何もつかめなかった。落ちる瞬間まで、自分が落ちることを知らなかった」
スタッフは言葉を失った。
「劇場に来たことがない人間が、真っ先に端っこに立つと思いますか? 普通はもっと前に出るか、あるいは怖がって端に寄るか——」
「それは、演出上の立ち位置で——」
「誰が決めたんです」
スタッフは答えなかった。
井森は舞台中央を見渡した。巨大なオペラセット。照明。カーテン。すべてが“計算”されている。この舞台は、誰かがデザインしたものだ。すべての位置に意味がある。そして、その位置を決めるのが舞台監督の仕事だ。
「人を置く仕事なんですねぇ」
井森は呟いた。
何を言っているのか、スタッフには分からなかった。
……
数日後。井森は稽古場へ来ていた。昼間の劇場。そこには、朝の光が差し込んでいる。舞台は明るく、昼間は単なる“作業場”に過ぎなかった。スタッフたちが慌ただしく動き回り、大道具を運び、照明を調整している。
井森は演出ノートを広げて見ていた。立ち位置図。舞台進行表。何ページにもわたる細かい指示。歌手の出入り。合唱団の配置。照明のタイミング。舞台装置の移動。すべてが分単位、秒単位で決められている。
「全然分かんないですねぇ」
井森は本当に理解していなかった。楽譜も読めない。オペラも見たことがない。しかし——彼は一点だけ見ていた。“位置”。
「高瀬さんって、いつも細かいんですか」
稽古場のスタッフ——若い舞台監督助手——が笑う。
「鬼ですよ。5センチずれると怒鳴る。特に歌手の立ち位置にはうるさい。『そこじゃ声が響かない』『照明が当たらない』『動線がおかしい』って。何度も直させます」
「へぇ」
井森は頷く。
「人を置く仕事なんですねぇ」
「ええ。まあ、それが舞台監督ですから」
井森は立ち位置図を指差した。事故のあった位置。奈落の真上。
「この場所、誰が決めたんですか」
「……高瀬さんです。当日の立ち位置は、彼が決めています」
「なるほど」
井森はメモ帳に何か書き込んだ。
「そういえば、高瀬さんと奥さんの関係、どうだったんですか」
スタッフの表情が曇った。
「……お二人とも、私たちからは。ただ、高瀬さんは最近——」
「最近?」
「いえ。何でもありません」
スタッフはそれ以上話そうとしなかった。井森はそれ以上追及しなかった。だが、その“言いかけ”が彼の頭の中に残った。
……
井森は劇場の資料室に通された。過去の公演記録、舞台監督のノート、事故報告書。何年分もの書類が、棚にぎっしりと詰まっている。彼は真由美が落ちた日の資料を探した。
舞台進行表。そこには、事故の時刻に「城壁セット移動(ウインチ操作)」と記されている。そして、そのすぐ後に「床板開閉テスト」という項目があった。両方とも、高瀬悠介の名前が記されている。
井森はそこにメモを取った。ウインチ操作と床板開閉が、ほぼ同時に記録されている。しかも、両方とも同じ人物が担当している。
「偶然にしては、できすぎてるな」
彼は呟いた。
さらに調べると、その日のウインチ操作は“予定外”であることが分かった。セット移動は本来、翌日に行われる予定だった。なぜ、前日に繰り上げられたのか。
井森はその疑問を胸に、もう一度現場へ向かった。
……
井森は制御盤の前に立ち、しばらく考え込んでいた。舞台袖の暗がり。そこには、多くのボタンとレバーが並んでいる。
「この制御盤、操作記録は残るんですか」
「……残ります。ただし、事故の後でリセットされました。誰かが——」
「誰かが?」
「……分かりません。システム管理者が気づいた時には、既に消去されていました」
井森はうなずいた。予想通りだった。証拠は消された。しかし、消されたこと自体が証拠になることもある。
「現場の指紋は?」
「多くのスタッフが触れていますから、特定は——」
「分かってる。決め手にはならない」
井森は舞台袖を出て、客席へ戻った。暗い客席。彼は中央付近に座り、舞台を見上げた。
「斎藤くん」
「何です」
「もし君が、誰かをこの場所で殺すとしたら、どうする?」
斎藤は一瞬、言葉に詰まった。
「……何も、考えたことは」
「考えてみてくれ。舞台監督として、最も得意な方法で」
斎藤はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「まず、被害者をあの位置に立たせる。立ち位置は自分で決められる。誰も疑わない。次に、床板を開く。その音を隠すために、別の大きな音を同時に出す。ウインチとか、セットの移動とか。そして——」
「そして?」
「落ちたら、事故だと言う。劇場は危険な場所だから。誰も深く追及しない」
井森は笑った。
「よくできてるな。君、舞台監督になれるよ」
斎藤は真面目な顔で答えた。
「なりたくないです」
井森はもう一度、舞台を見上げた。暗い。何も見えない。しかし、その闇の中に、誰かが立っている気配がした。
「彼女は、何を見ていたんだろう」
井森はぽつりと言った。
……
その夜。井森は高瀬悠介の自宅を訪れていた。
都内の高級マンション。オペラ歌手や指揮者が多く住むことで知られる。エントランスにはコンシェルジュが常駐し、エレベーターはカードキーがなければ動かない。井森はインターホンを押した。応答があり、ドアが開く。彼はエレベーターに乗り、最上階へ向かった。
悠介は応対に出た。スーツではない。ラフな服装。しかし、その姿はどこか“舞台監督”としての雰囲気を保っていた。彼は井森をリビングに通した。白を基調とした部屋。壁にはオペラのポスター。グランドピアノが置かれている。
「お忙しいところ、すみません」
井森はソファに座り、周囲を見回した。写真立て。そこには、真由美と子供たちの写真があった。悠介はそれに気づかれないよう、素早く裏返した。
「奥さんのことですが」
「……事故です」
悠介は即座に答えた。その速さが、逆に不自然だった。
「そうですか」
「ええ。劇場ではよくあることです」
「よくあること——ね」
井森は小さく笑った。
「そうかもしれませんね。でも、よくあることだからって、見逃していいわけじゃない」
「あなたは何を——」
「奥さんは、あの場所に立つことを知っていましたか」
「……私が指示しました。立ち位置は私の仕事ですから」
「もちろん、それ自体はおかしくない。でも」
井森は少し間を置いた。
「なぜ、彼女は気づかなかったのか。床板が動く音に。あの場所に来たことがない人間が、自分の足元が開くかもしれないと想像できますか?」
悠介は答えない。
「あなたは、ウインチの音で隠した。そして、床板を開いた。彼女は何も知らずに立っていた。その瞬間、あなたは舞台袖にいて、レバーを引いた」
「証拠は」
井森は首を振った。
「まだありません。でも——」
彼は立ち上がり、窓の外を見た。夜景が広がっている。
「あなたは、彼女を“立ち位置”で殺した。舞台監督として、最も得意な方法で」
悠介は無言だった。井森は一礼して、部屋を出た。
しかし、彼はまだ諦めていなかった。




