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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第十六話 神々の黄昏(上編)

新国立劇場の舞台助監督というポジションは、華やかでありながら、どこか不安定だった。


高瀬悠介はそれを痛いほど知っていた。四十二歳。長いキャリアを経て、ようやくこの場所に立った男。しかし、新国立劇場のスタッフは任期制だ。契約は三年。更新される保証はない。更新されなければ、彼はまたどこかの小さな劇場で、細々と仕事を探すしかない。市民オペラの演出。地方の音楽祭。実績はある。しかし、それで食っていけるほど、この世界は甘くない。


彼は新国立劇場の舞台袖に立ち、巨大なセットを見上げていた。オペラ「神々の黄昏」。ワーグナーの大作。重厚な舞台装置、複雑な照明、何十人もの合唱団。すべてが“一流”の空気をまとっている。しかし、その中心に立つ自分は——いつ追い出されてもおかしくない、仮の住人に過ぎなかった。


「高瀬さん、次の確認お願いします」


スタッフの声が飛ぶ。悠介はハッとして、立ち位置図に目を落とした。夜。そして、この不安。彼の胸の内には、いつも同じ焦燥感があった。自分はここにいていいのか。本当にここにいていいのか。その問いが、彼の肩をずっと重くしていた。


その日、悠介は二期会の芸術監督・安藤から呼び出された。


安藤は七十歳を超えているが、その目は鋭い。世界的なオペラ指揮者であり、日本のオペラ界における権力者でもあった。彼は都内の高級レストランの個室で、悠介を待っていた。


「高瀬君、君の仕事は評価しているよ」


安藤はワイングラスを揺らしながら言った。


「新国立劇場の舞台助監督として、しっかりやっている」


「ありがとうございます」


「だが——」


安藤はグラスを置き、悠介をじっと見た。


「そのポジションは、いつまで続くと思う?」


悠介は答えられなかった。


「新国立劇場は任期制だ。三年で契約切れだ。更新されるかどうかは、誰にも分からない。君も分かっているだろう」


悠介はうなずいた。分かっていた。それを痛いほど分かっていたからこそ、彼は毎日を緊張の中で過ごしていた。


「もし、私が言った通りにすれば——」


安藤は、一枚の紙をテーブルの上に滑らせた。それは、二期会の次期舞台監督の契約書だった。


「ここにサインする権利を、君にやろう」


悠介の息が止まった。二期会。日本のオペラ界で最も権威のある団体の一つ。その舞台監督。安定したポジション。名声。収入。そして——未来。


「条件がある」


安藤は続けた。


「私の愛人と結婚してくれ」


悠介は言葉を失った。安藤の愛人——世界的プリマドンナ、水島沙也香。彼女は美しく、才能があり、そして安藤の“特別な関係”にあったことは、業界では公然の秘密だった。


「君は離婚して、彼女と結婚する。そうすれば、君は二期会の舞台監督だ。海外からの招聘もある。ミラノ、パリ、ウィーン——世界中の劇場が君を呼ぶだろう」


「なぜ——」


「彼女はそろそろ“格”が必要だ。私はもう年だ。彼女が将来困らないようにしてやりたい。君は優秀な男だ。実績も十分。彼女と組めば、二人とも成功する」


悠介は、最初は断ろうとした。いや、断った。


「妻がいます。生後七ヶ月の子供も——」


「それは君の問題だ」


安藤は冷たく言った。


「君が選ぶのは、過去か未来かだ。どちらにしても、私は構わない。ただ——」


彼は契約書を悠介の方へ押し戻した。


「もしサインするなら、三ヶ月以内に決めてくれ。他の候補者もいる」


……


その夜、悠介は自宅に戻った。リビングには、妻の真由美が子供を抱いて座っている。七ヶ月の娘は、すやすやと眠っていた。


「おかえり」


真由美は微笑んだ。その笑顔は、公民館でオペラをやっていた頃と変わらない。彼女はアマチュア劇団でソプラノを歌っていた。悠介が舞台監督として立ち位置を指示し、彼女がその通りに立っていた。それが二人の関係だった。


「今日は遅かったね」


「……打ち合わせがあった」


悠介はソファに座り、ため息をついた。頭の中は、安藤の言葉で満ちている。二期会。舞台監督。海外。そして——愛人との結婚。


真由美は何も言わない。ただ、子供を抱きしめながら、悠介を見つめている。彼女はいつもそうだった。彼が何かを考えている時、何か悩んでいる時、彼女はただ待っていた。待って、彼が話し出すのを。


しかし、悠介は話せなかった。


……


数日後。悠介は再び安藤に呼ばれた。今度は、水島沙也香も同席していた。彼女は美しかった。しかし、その目は冷たく、何かを計算しているように見えた。


「高瀬さん、あなたのことはよく聞いています」


沙也香は言った。


「新国立劇場の助監督。優秀だと。でも——そのポジション、いつまで続くか分からないんでしょう?」


悠介は黙っていた。


「私は、あなたと一緒に舞台を作りたい。あなたの才能は、もっと評価されるべきだわ」


安藤が口を挟む。


「高瀬君、決断の時だ。君はどうしたい?」


悠介は、その瞬間、自分の心が二つに割れるのを感じた。一方は、真由美と子供と共にいる未来。しかし、そこには安定的な仕事はない。もう一方は、新たな妻と共に、世界中の舞台で活躍する未来。輝かしい。しかし、その代償は——。


「……もう少し、時間をください」


それが、彼の精一杯の答えだった。


……


真由美に離婚を切り出したのは、それから一週間後のことだった。


リビングのソファに座ったまま、悠介は顔も上げずに言った。


「離婚してほしい」


真由美は、子供を抱いたまま、しばらく沈黙した。そして、静かに言った。


「……どうして?」


「仕事の都合だ」


「仕事の都合で、離婚?」


悠介は答えられなかった。


「あなた、オペラをやりたかったんじゃないの?」


「やってる」


「違う」


真由美の声は、驚くほど穏やかだった。


「あなたは、“選ばれる側”に行きたいだけよ。舞台を作ることが目的じゃない。自分が選ばれることが目的になってる」


悠介は、その言葉に胸を刺された。真由美は、いつも彼の本質を見抜いていた。公民館の時代から。彼女だけが、彼の本当の姿を知っていた。


「私も子供も、あなたを止めたりしない」


真由美は続けた。


「でも、逃げるのはやめて。自分が選んだ道を、ちゃんと認めて。そうしないと、いつか必ず後悔する」


悠介は何も言えなかった。彼女の言葉が、彼の中で反響していた。しかし——それでも、彼の心はすでに決まっていた。


「……離婚してくれ」


彼はもう一度言った。


真由美は、長い間彼を見つめていた。そして、ゆっくりと首を振った。


「私は、離婚しない」


……


その言葉が、悠介の中で何かを決定的に変えた。


真由美が拒否すれば、彼は安藤の条件を満たせない。二期会の舞台監督の座は、他の誰かに奪われる。そして、彼はまた不安定なポジションで、細々と生きていくしかない。その未来が、彼には耐えられなかった。


彼は、ある考えを頭の中で膨らませ始めた。それは、最初はぼんやりとしたものだった。しかし、日が経つにつれて、形を成していった。


事故。


劇場は、事故の多い場所だ。特に舞台機構は複雑で、ちょっとしたミスが命取りになる。誰かが転落する——それは、決して珍しいことではない。もし、真由美が劇場で事故に遭えば——。誰も疑わない。彼女はオペラには詳しくない。舞台機構も知らない。事故は、起こりうる。


悠介は、その考えを頭の片隅に置きながら、日常を過ごした。真由美に話しかけ、子供を抱き、仕事に行く。すべてがいつも通りだった。しかし、彼の心は、少しずつ「計画」を組み立て始めていた。


……


ある夜。悠介は真由美を劇場へ呼んだ。


「今度の舞台、見せたいんだ」


それは本心だった。たぶん最後まで。彼女にこの場所を見せたかった。自分がどこに立っているのか。何を作っているのか。それを知ってもらいたかった。そして——それで、終わりにしたかった。


たぶん、彼の中で、もう決まっていたのだろう。


舞台中央。巨大なセット。奈落の暗闇。悠介は真由美を連れて、舞台の上を歩いた。彼女はまるで子供のように、あちこちを見回している。


「ここから見ると綺麗だよ」


悠介は言った。


「そこ立って」


真由美は笑う。


「相変わらず、立ち位置うるさいね」


彼女は言われた場所に立った。何の疑問もなく。昔からの習慣だった。悠介が指示すれば、彼女はその通りに動いた。それが二人の関係だった。


その瞬間だった。


金属音。何かが外れる音。舞台装置が動く。真由美が振り返る。


「え——」


床が消える。彼女の足元が、奈落へと変わった。悲鳴。しかし、それは長く続かなかった。落下音。何かが硬い床に当たる音。それから——静寂。


悠介はしばらく動かなかった。舞台上で。照明だけを浴びながら。客席は闇だった。誰も見ていない。誰も知らない。


彼はゆっくりと歩き、奈落の縁に立った。下をのぞく。暗くて何も見えない。ただ、かすかに布の擦れる音が聞こえた。真由美のワンピースが、風に揺れているのだろう。


彼はその場に立ち尽くしていた。何を考えていたのか。その時、彼の頭の中にあったのは、次の舞台の立ち位置図だったかもしれない。あるいは——十年前の公民館の舞台で、真由美が歌っていた姿だったかもしれない。


どちらにせよ、彼はもう戻れなかった。

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