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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第十五話 赤いシケイン(下編)

取調室。白い壁。無機質な照明。


井森は向かいに座る城崎を見ていた。スーツではなく私服。ネクタイもしていない。髪も少し乱れている。弁護士が隣に座っている。しかし、その弁護士もほとんど口を開かない。事態がここまで進んでしまえば、何を言っても無駄だと理解しているようだった。


「事故です」


城崎が言った。しかし、その声には最初のような力強さはなかった。


井森は頷く。


「ええ」


「レースに事故は付き物だ。私は何も——」


「城崎さん」


井森は静かに遮った。


「もういいです。あなたはもう、あの日の言葉を信じていない」


城崎の口が閉じる。


井森は資料を広げた。ブレーキホースの鑑識報告。化学分析の結果。そして——チームのメカニックの一人が自白した調書。


「ホースの内側に、化学的な腐食跡が見つかりました。自然劣化ではない。ある種の薬剤で、内部から徐々に——数日かけて——劣化させていた」


「……」


「あなたが直接やったとは言いません。でも、あなたの指示で誰かがやった。そして、そのタイミングをあなただけが知っていた」


城崎の目がわずかに揺れた。


「あなたは、神崎さんがクラッシュすることを知っていた。でも、死ぬまでは——考えていなかった。ただ、彼のレースを止めたかっただけ。しかし、時速三百キロの世界では、“ちょっとした事故”では済まない」


沈黙。


城崎は机の上の傷を見つめていた。指でその傷をなぞる。そこには何の意味もない。ただの木目の歪み。しかし彼は、それを見つめることしかできなかった。


「……私は、彼を評価していた」


低い声だった。


「才能がある人間は、自分だけで勝てると思う。でもF1は違う。スポンサー。政治。資金。チーム。全部必要だ。彼はそれを——軽視していた」


「だから止めた」


「守るべきものがあった」


「誰のために」


城崎は答えない。


井森は静かに言った。


「神崎さんは、あなたのチームを壊そうとした。でも——あなたも、自分で自分のチームを壊した」


城崎の顔が崩れた。


「内部告発は、弁護士からメディアに渡った。もうすぐすべてが報じられる。裏金。順位操作。マシンの性能差。あなたが三十年かけて築いてきたものは——あなた自身の手で壊れる」


「……」


「あなたは神崎さんを止めようとした。でも、結果的に——自分が一番大事にしていたものを自分で壊した」


城崎は何も言わなかった。


ただ、自分の手を見つめていた。三十年前、この手で初めてトロフィーを掲げた日。その時の感覚を、彼はまだ覚えている。あの日から、全ては始まった。そして、今夜全てが終わる。


井森は立ち上がった。


「もう一つだけ、いいですか」


「何です」


「神崎さんは最後の無線で、『ブレーキが——』と言いかけて終わっています。あなたは、その続きを想像したことがありますか」


城崎は答えなかった。


「『ブレーキが効かない』——そう言おうとしたのかもしれない。でも、僕は違うと思う」


井森は穏やかに言った。


「『ブレーキが、あなたに壊された』——そう言おうとしたんじゃないか」


城崎の目から、涙がこぼれた。


誰もそれを止めなかった。


……


数週間後。


事件は大きく報じられた。城崎は殺人罪で起訴された。チームは主要スポンサーを全て失い、主要スタッフは去り——次のシーズンには、その名前はグリッドから消えていた。三十年の歴史が、たった一人のドライバーの死によって終わった。


神崎レオの証拠は、全て公開された。裏金。順位操作。組織ぐるみの不正。F1の世界に激震が走った。関係者の多くが処分され、いくつかのチームが運営体制の見直しを余儀なくされた。


一部の人は言う。「レオの死は無駄ではなかった」と。


しかし——井森は思う。無駄ではなかったかもしれない。でも、彼が生きたかった未来ではなかった。彼は速すぎた。速すぎて止まれなかった。そして、その“速さ”が彼を殺した。


……


井森はサーキットに立っていた。


次のグランプリの準備が始まっている。新しいチーム。新しいドライバー。新しいタイヤ。全てが新しく、全てが前を向いている。


ピットロードには、すでに数台のトラックが停まっている。機材を降ろし、ガレージを組み立てるスタッフたち。彼らは知らない。ここで誰かが死んだことを。いや、知っていても気にしない。それがこの世界の“仕事”だから。


「速い人って」


井森はぽつりと言った。誰に言うでもなく。


「止まれなくなるんですねぇ」


風が吹いた。ピットに掲げられた旗が揺れる。青い空に、白い雲。次のレースは晴天になりそうだ。


「でも——」


井森は振り返らずに言った。


「止まれないと、人まで壊れる」


答えはない。エンジン音もまだ遠い。スタッフの声がかすかに聞こえるだけ。


井森は歩き出した。くたびれたスーツの裾を風が揺らす。


……


サーキットを出たところで、井森は一人の女性に出会った。レオの母だった。テレビで見た顔だ。彼女はサーキットの門の前に立ち、中の景色をぼんやりと見つめている。入れてもらえなかったのだろう。事件以降、関係者以外の立ち入りは禁止されている。


「神崎さん」


井森は声をかけた。彼女はゆっくりと振り返った。


「あなたは——」


「警察の者です。井森と申します」


「ああ……あの日の」


彼女はもう、何も聞かなかった。事件の詳細は全て報じられている。息子の死が事故ではなく、誰かの意図によるものだったことも。彼女はただ、静かにうなずいた。


「彼は、小さい頃から車が好きだったんです」


井森は何も言わない。


「いつも『一番速くなる』って言ってた。それが、彼の生きる意味だった」


「……」


「でも——一番速いと、一番危ないんですよね」


彼女は微笑んだ。涙は見せなかった。


井森は頭を下げた。


「……ご冥福をお祈りします」


彼女は軽く会釈し、ゆっくりと歩き出した。


井森はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。


……


帰りの車の中。


斎藤がハンドルを握っている。井森は助手席で、ぼんやりと窓の外を見ていた。


「井森さん」


「何です」


「レースって、なぜあんなに危険なことをするんですか」


井森は少し考えた。


「……速さを求めるからでしょうね」


「でも、速さのために死ぬのは——」


「馬鹿げてる?」


斎藤は答えない。


井森は笑った。


「そうかもしれない。でも、人間は誰でも、何かを求めてる。速さじゃなくても——金だったり、名前だったり、正義だったり。そして、求めるものが大きいほど、止まれなくなる」


「……」


「神崎さんは速さを求めた。城崎さんはチームを求めた。どちらも、止まれなかった。ただそれだけの話です」


車は高速道路に入った。街の灯りが、遠くに瞬いている。


井森は窓を少し開け、風を入れた。


「でもね、斎藤くん」


「何です」


「止まれない人間を、止めるのは——私たちの仕事だ。たとえ、止めた先に何もなくても」


斎藤は何も言わなかった。


井森はもう一度、窓の外を見た。


サーキットの灯りが、後ろに遠ざかっていく。


あの場所では、もう次のレースの準備が始まっている。エンジン音。タイヤの焦げる匂い。無線の交信。全てが——前を向いている。


だれも、後ろを振り返らない。


それが、この事件の終わりだった。

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