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刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


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第十五話 赤いシケイン(中編)

井森は三日間、サーキットに通った。その間ずっと、同じ質問を繰り返した。「Plan Deltaって何ですか」と。


チーム関係者は口をそろえた。「通常の戦略コードです」「よくある指示です」「特に意味はありません」しかし、その口調は一貫して曖昧だった。誰一人として、具体的な説明をしなかったのだ。


「いやぁ……みんな、同じこと言うんですねぇ」


井森は斎藤に言った。


「同じこと、と言いますと?」


「『知りません』『覚えていません』『自分の担当じゃない』。でもね」


井森はメモ帳を開いた。


「『知らない』なら『知らない』で終わる話。なのに、みんな『言えない』顔をしてる。それが一番おかしい」


斎藤は何も言わなかった。


井森はF1の元エンジニアを訪ねた。六十歳を超えているが、目は鋭い。現役時代はトップチームでデータエンジニアを務め、複数のチャンピオンを支えた男だった。


「Plan Delta。知ってますか」


元エンジニアは一瞬、表情を強張らせた。井森はそれを見逃さなかった。


「……知っています。しかし、これは——」


「何ですか。教えてください」


しばらく沈黙が続いた。元エンジニアはコーヒーカップを手に取り、一口飲んでから、ゆっくりと口を開いた。


「正式なコードではありません。一部のチームが“非公開”で使っている。意味は——『ハイドロリックプレッシャー低下』。ブレーキ系統の故障を指します」


井森はじっとその男を見た。


「つまり——『ブレーキが壊れますよ』というコード」


「……そういうことになります」


「でも、普通のチームは故障を事前に知らせたりしないですよね。知らせたところで、ドライバーができることは限られている。むしろパニックを誘発するだけ」


「だから、非公開です。表向きは——“タイヤのデグラデーションが予測される”といった別の意味に偽装している。実際に使うのは、ごく一部の——」


「一部の?」


元エンジニアは言いよどんだ。井森はそれ以上追及しなかった。十分だった。


……


井森は無線記録のタイムスタンプを詳細に分析していた。


事故の約三十秒前。城崎の声で『Plan Delta』の指示。それから約二十五秒後、エンジニアが無線を送信。『Plan Delta. Repeat, Plan Delta.』その後、約二十秒でレオがブレーキを踏む。


「この十五秒の間に、彼は何を考えたか」


井森は呟いた。


「『壊れる』と知らされて、それでもアクセルを踏み続けた」


「無線を無視することもできたのに。ピットに戻ることもできたのに」


斎藤が言った。


「そう。サーキットには逃げ道もある。ピットレーンに入れば安全だ。でも彼は——走り続けた」


井森は事故映像をもう一度見た。オンボードカメラの映像。シケイン進入直前、レオのヘルメットのわずかな動き。彼は一瞬、右側のバックミラーを見た。何を確認したのか。後続車の位置? それとも——


「速い人って、止まれなくなるんですね」


井森はぽつりと言った。


……


現場検証。井森は問題のシケインに立っていた。アスファルトの上には、タイヤ痕がまだ残っている。黒いゴムの擦り跡。ブレーキ痕——ただし、それは異常に薄かった。


「ここで壊れたんですね」


「鑑識の報告では。ブレーキフルードの漏れが確認されています。ホースに小さな穴が——」


「自然劣化?」


「……可能性としては」


井森はしゃがみ込み、アスファルトをじっと見つめた。オイルの跡。タイヤカス。そして——


「このタイヤ痕、おかしくないですか」


斎藤が近づく。


「減速せずに曲がろうとしてる。つまり、ドライバーはブレーキが効かないことを知っていて、それでも何とかしようとした」


井森は立ち上がった。


「もし、事前に知らされていなければ——真っ直ぐ壁に突っ込んでいた。それなら『一瞬のパニック』で説明がつく。でも彼は違う。回避しようとした。つまり——」


「知っていた」


斎藤が言い終えた。


井森はうなずいた。


「誰かが教えた。『壊れるぞ』って。でも、その情報は彼を助けなかった。なぜなら——」


「壊れることが決まっていたから」


井森は無線記録を見る。


『Plan Delta. Repeat, Plan Delta.』


「これが、その『教え』だった。でも、このコード——送るタイミングが遅すぎる。ブレーキングの直前じゃ、もうどうにもならない」


彼はモニターを閉じた。


「あえて、そのタイミングで送った。意味があるとすれば——」


井森は顔を上げた。


「自分は教えた。責任はない——そういう言い訳のためだけの、無線」


……


その夜。井森はホテルの一室で、レオの過去のレース映像を漁っていた。彼がなぜ、あのタイミングで逃げるラインを選んだのか。それには理由があるはずだ。


何十本もの映像を見ていくうちに、一つのパターンに気づいた。


レオは過去のレースでも、ブレーキトラブルを経験していた。三年前の別のチーム時代。その時は幸運にも無事だったが、彼はその経験から——“ブレーキが効かなくなった時の対処法”を研究していた。逃げるライン。減速せずに生き残る方法。全てを想定していた。


つまり——彼は事前に知らされていなかったとしても、あのラインを選べたのかもしれない。


しかし、それでも。


井森は無線記録のタイムスタンプをもう一度見た。


『Plan Delta』が送信されたのは、ブレーキングポイントの約二十秒前。もし彼があのコードを「ブレーキが壊れる」と理解していたなら——その二十秒の間に何かできたはずだ。速度を落とす。ギアを下げる。何らかの方法で減速する。


しかしレオは、速度を落とさなかった。


なぜか。


井森は答えを求めて、さらに調べた。


Plan Deltaの“別の意味”。


元エンジニアは言った。『表向きは“タイヤのデグラデーション”と偽装している』と。つまり、レオはこのコードを“タイヤの劣化”と理解していた可能性がある。そうであれば、彼は速度を落とさない。タイヤが劣化していても、それがレースの一部だ。彼はそのまま走り続ける。


『Plan Delta』は——二重の意味を持つコードだった。表向きの意味は「タイヤがそろそろ交換時期」。しかし本当の意味は「ブレーキが壊れる」。


誰がその本当の意味を知っていたか。


コードを送ったエンジニア。

コードを指示した城崎。

そして——おそらく、誰も。


レオは表向きの意味だけを受け取り、本当の意味を知らされていなかった。


それが、彼を殺した。


……


翌日。


井森はチーム本部を訪れた。トロフィーが並ぶガラスケース。歴代チャンピオンの写真。勝利の記念品。この部屋は、チームの栄光の歴史そのものだ。しかし今日は、その輝きが少しだけくすんで見えた。


城崎は窓の外を見ていた。ピットが撤収作業を進めている。次のレースは別の大陸。このサーキットに戻ってくるのは、一年後だ。彼は井森の訪問を特に驚いた様子もなく受け入れた。


「事故です」


井森が言う前に、城崎はそう言った。


井森は頷く。


「ええ」


「レースに事故は付き物だ」


「そうですねぇ」


静かな会話。二人の間に、トロフィーだけが無言で輝いている。


「でもね」


井森は無線記録のコピーを机の上に置いた。


「Plan Deltaって、何ですか」


城崎は一瞬、無表情を保った。


「通常の戦略コードです」


「じゃあ、どうして事故の直前に——」


「偶然です」


「ふうん」


井森は別の資料を置いた。これは、元エンジニアから得た情報だった。


「ある関係者によると、Plan Deltaは『ハイドロリックプレッシャー低下』——つまりブレーキ系統の故障を意味するコードだそうです」


城崎の指がわずかに動いた。


「それを、事故の直前に送った。なぜですか」


「知りません。私はエンジニアではないので」


「でも、あなたが『送れ』と指示した」


城崎の表情が固まる。


「無線の記録に残っています。『Plan Delta。送れ』。あなたの声です」


長い沈黙。


「間違いです」


「間違い?」


「別のコードを言おうとした」


「では、何を」


城崎は答えない。


井森は優しい口調に変えた。


「もう一つ、教えてください。事故の前の周回、神崎さんはブレーキに違和感を訴えていません。データ上も異常はない。なのに、直後にホースに穴が開いた。どうしてそんなことが起こるんですか」


「……」


「調べました。ブレーキホースに小さな穴を開ける方法はいくつもある。化学薬品で内部から腐食させる。極細の針で傷をつける。走行中の振動で徐々に広がるように——」


「証拠は」


「今はありません。でも——」


井森はモニターを置いた。事故直前のレオのオンボード映像。


「神崎さんは、最初から逃げるラインに入っている。つまり、ブレーキが壊れることを知っていた。しかし——」


井森は少し間を置いた。


「彼は、そのコードを『タイヤの劣化』と理解していた。Plan Deltaの表向きの意味です。あなたはそれを利用した。本当の意味を知らせずに、『壊れる』という情報だけを送る方法として」


城崎は無言だ。


「あなたは、彼を殺すつもりだったんですか」


長い沈黙。城崎の顔に、表情が戻ることはなかった。


「……私は、チームを守った」


低い声だった。


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