第十四話 発見者の名前(下編)
学長室。夜。
窓の外には大学病院の灯り。無数の窓に明かりがついている。救急搬送のサイレンが遠くで鳴っている。どこかで、誰かが今も救われようとしている。
榊原は静かに座っていた。机の上には書類の山。決済待ちの書類。研究計画書。予算案。どれも彼の名前が必要なものだ。
井森は向かいのソファに座っている。今日は一人だ。斎藤はあえて連れてこなかった。この話は——あまりに重い。たくさんの人には聞かせられない。
「事故ですよ」
榊原が言った。
井森は頷く。
「ええ」
「薬品事故です。調査委員会もそう結論づけています」
「そうですねぇ」
静かな会話だった。声のトーンは穏やかで、まるで天気の話でもしているかのようだった。
「でもね」
井森は研究ノートを机の上に置いた。コピーではなく、本物だ。証拠品として押収されたもの。
「先生、“そこにいたみたいに”話すんですよ」
榊原は黙る。
「モニターを見て固まった。冷めたコーヒーを倒した。“効いた”って呟いた——」
井森は一つ一つ指を折る。
「でも先生、その瞬間を“見ていない”はずです。ニューヨークにいましたから」
「聞いただけです」
榊原は即答した。
「白瀬先生から直接、後日聞きました。コーヒーが冷めていたことも、彼の口から」
「いつ聞いたんです?」
「……八月二十日の午後です」
「研究棟に来られた時ですね」
榊原の目が、わずかに揺れた。
「カードキーの記録を調べました」
「私が学長として、実験の進捗を確認——」
「白瀬先生は、その時もう帰っていました。午前九時に退館しています。あなたが来たのは午後一時。二人が会うことは、物理的に不可能です」
長い沈黙。
榊原は机の上の書類を見つめている。手は組まれたままだ。指がわずかに震えている。
「つまり——あなたは、白瀬先生の“発見の瞬間”を知り得ない。なのに、あまりに具体的に語る。それはなぜか」
「……」
「あなたは、そこにいたからです。八月十九日の夜。あの地下実験室に」
榊原は顔を上げた。
「私はニューヨークに——」
「便を変更しました。八月十九日の夜の便で帰国しています。到着は八月二十日の午前八時すぎ。そこから大学までは車で四十分。つまり、九時前には研究棟に着く」
井森は続ける。
「あなたは研究棟に入る前に、一度何かをした。おそらく——準備をした。ガス漏れの。爆発の。そして、時刻が変わるのを待って、実験室へ向かった」
「証拠は?」
「ガス漏れ警報の発報時刻は深夜一時。研究室の防犯カメラは爆発で破損している。しかし——廊下のカメラは、あなたがその時刻に研究棟を出入りしていたことを記録している」
井森はスマートフォンを取り出し、映像を表示した。
モノクロの映像。映っているのは、研究棟のバックドア。時刻は午前零時五十八分。白衣を着た男が、中から出てくる。顔ははっきりとは分からないが、身長と体格は榊原と一致する。
「あなたは、白瀬先生と話した。『発見の瞬間、覚えてますか』と聞いた。それは——自分のアリバイを作るため。もし何かあっても、『最後に会った時に彼は元気だった』と証言するために」
榊原は何も言わない。
「そして、あなたは地下実験室を出た。その後、仕掛けた装置が作動し、ガス漏れが発生。引火して爆発。白瀬先生は——」
「私が殺したと言いたいのか」
榊原の声は低かった。
井森は答えない。
「証拠がない。決定的なものがあれば、もう逮捕しているはずだ」
「ええ」
井森は素直に頷いた。
「ないです。あなたは賢い。直接的な証拠は残さなかった。ガス漏れも、配管の劣化で説明がつく。薬品の配置も、事故の範囲内。完璧と言っていい」
「ならば——」
「でも」
井森は静かに言った。
「白瀬先生は、最後にあなたに会っている。その事実は、あなたが否定している。なのに、カードキーの記録と防犯カメラの映像は、あなたの否定を覆している」
「……」
「なぜ嘘をつくんですか。なぜ『最後に会っていない』と言い張るんですか。ただの研究の話なら——何も隠すことはないはずです」
沈黙。
榊原は深く息を吐いた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……白瀬は、私に言ったんです」
「何を」
「『名前を返してください』って」
井森は黙って聞いていた。
「私は——断った。『この研究は私なしでは成立しなかった。名前は私のものだ』と。彼はUSBメモリをポケットに入れて、実験室を出ようとした。その時です。ガス漏れ警報が鳴った。私はそのまま廊下に出た。振り返らずに」
「彼は、実験室に取り残された」
「私は——助けようと思えば助けられたかもしれない。でも、あの瞬間、頭の中をよぎったのは——」
榊原は言葉を切った。
「彼がいれば、また同じことで揉める。論文発表のたびに、権利のたびに、彼は立ちはだかる。それなら——」
「それなら、いない方がいい」
井森が代わりに言った。
榊原はうつむいた。
「あなたは殺していない。でも——」
「見殺しにした」
乾いた声だった。
「私は、医学を前に進めたかった」
榊原は顔を上げる。その目には、もう輝きはなかった。ただの、疲れ切った老人の目だった。
「若い研究者は、理想しか見ない。真実しか見ない。でも、真実だけでは何も進まない。研究は金だ。政治だ。権威だ。学会での立場、製薬会社とのパイプ、国との交渉。全部、私が作ってきた。私が二十年かけて積み上げてきた。なのに——」
声が震える。
「なのに最後だけ、自分の名前を欲しがる。私の名前を消して、自分の名前だけを残そうとする。それだけは——許せなかった」
井森は静かに言った。
「先生もですよ」
榊原の目が止まる。
「先生も、“名前”が欲しかった。自分の功績を、自分の名前で残したかった。それは悪いことじゃない。誰だってそうだ。でも——」
井森は続ける。
「そのために誰かを殺すのは、違う。見殺しにするのも、違う」
榊原の顔から、力が抜けていく。
窓の外では、救急車の灯りが流れている。赤い光が、壁を染めては消える。人を救うための光。誰かの命を繋ぐための光。
「……私は間違っていましたか」
榊原の声は、ほとんど呟きだった。
井森は少し考える。
「治療法は、正しかったんでしょうねぇ」
静かな声。
「何万人、何十万人の患者を救う。それは間違いなく、素晴らしいことだ。でも——」
「名前まで治療しようとした」
榊原は自嘲気味に笑った。
「医者のくせに、一番大事なことを間違えた」
井森は何も言わなかった。
ただ、机の上のUSBメモリを見つめていた。白瀬のものだ。爆発の中でも奇跡的に無事だった。データも、無事だった。
「これ、受け取ってください」
井森はUSBメモリを榊原の前に置いた。
「中のデータは、全て白瀬先生のものです。発見者としての証拠。あなたが消すことは——もうできません」
榊原はそれを見つめた。長く。長く。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
「……論文は、修正します」
「そうしてください」
井森は立ち上がった。
「私も、報告書を書かないといけない。今夜は長くなりそうです」
彼はドアへ向かおうとして、立ち止まった。
「榊原先生」
「何です」
「白瀬先生は最後に、『患者が困るのは先生です』と言ったそうです」
榊原の顔色が変わった。
「患者は、先生の名前なんて気にしていない。誰が発見したかよりも、治ることの方が大事なんです。それを、一番忘れていたのは——先生の方かもしれない」
井森は軽く頭を下げ、学長室を出た。
……
数週間後。
論文は修正された。
正式名称は“白瀬・榊原プロトコル”。二人の名前が並ぶ。公平な解決策に見える。だが、世間は短い名前を好む。
やがてニュースでは、こう呼ばれるようになった。
「白瀬法」
発見者の名前だけが、残った。
榊原はそのニュースを見て、何を思っただろう。井森には分からない。ただ、彼がそれ以上、何かを言うことはなかったということだけは知っている。
……
井森は病院の待合室で、小さなテレビを見上げていた。
画面では、新しい治療法の特集が組まれている。患者のインタビュー。家族の感謝の言葉。そして——映らない名前。誰が発見したかは、もう誰も気にしていない。
「名前って、不思議ですねぇ」
井森はぽつりと言った。
「消そうとした方が、残ることあるんだ」
看護師が通りかかり、彼を一瞥する。場違いなスーツの男。ネクタイは少し曲がっている。眠そうな目。
彼女は何も言わずに通り過ぎた。
井森は立ち上がり、病院を出た。外は春の陽気だった。桜の花びらが、風に舞っている。
彼はスーツの襟を直し、歩き出した。
白い病院の廊下を抜け、自動ドアをくぐる。
外の空気は、少し冷たかった。




