第十四話 発見者の名前(中編)
中編『見ていない記憶』
井森は研究内容を理解していなかった。本当に。彼が知っているのは、せいぜい「細胞」「遺伝子」「たんぱく質」という単語のレベルだ。彼の専門は人であって、科学ではない。
「いやぁ、DNAとか出てくると、もう全然。僕、高校の生物も赤点でしたからね」
若い刑事——斎藤——が呆れた顔をする。
「じゃあ何で来たんです? 事故でしょ、これ」
「事故かもしれない。でもね」
井森は白瀬の研究ノートをめくっていた。分厚いノート。日付と時刻。実験条件。結果。考察。すべてが丁寧な字で記録されている。
「変なんですよねぇ」
「何がです?」
「学長先生、詳しすぎる」
斎藤は首をかしげた。
井森はパソコンを操作し、会見の映像を再生する。榊原が白瀬の思い出を語る場面。
『白瀬先生は、最初モニターを見て固まっていました。それから、冷めたコーヒーを倒して——“効いた”って呟いたんです。その瞬間の彼の顔は、今でも忘れられません』
井森は一時停止した。
「これです」
「映像の何が?」
「見てないと分かんない話なんですよ」
井森は白瀬の研究ノートを開いた。発見のあった日——去年の八月十九日。そのページには、こう記されている。
午前1時23分 細胞の変化を確認。顕微鏡で明らかな形態変化。一度部屋の照明をつけて再確認。間違いなし。コーヒーを倒してしまい、ノートの端が濡れた。
「白瀬先生は、この瞬間を自分で記録している。コーヒーを倒したことも。でも——」
井森は榊原の会見映像を再び指差した。
「学長先生は、『冷めたコーヒーを倒して』と言っている。どうして温度まで知っているんだろう」
斎藤は考え込んだ。
「同じ研究室なんだから、白瀬先生から聞いたんじゃないですか?」
「ええ。可能性はあります」
井森は頷く。
「でもね——」
彼は別の資料を開いた。榊原の渡航記録。
「事故当日、学長先生はニューヨークだったんですよ」
斎藤の表情が変わる。
「国際学会の基調講演。八月十八日から二十日まで。つまり、発見の瞬間——八月十九日の深夜——榊原先生はニューヨークのホテルにいるはず」
「じゃあ、会見で語っていたのは——」
「誰かから聞いた話を、自分が体験したかのように話している」
空気が止まった。
「しかも、白瀬先生は自分のことをあんまり話すタイプじゃなかったらしいですよ。実験の結果は共有するけど、感情や細かいエピソードはあまり。よく考えると、榊原先生があの瞬間の話を知っているのは不自然なんです」
「つまり——」
「事故当日の夜、榊原先生はニューヨークにいない可能性がある。あるいは、帰国していた可能性がある」
井森は椅子に寄りかかった。
「調べてみましょう。航空機の搭乗記録。入国記録。それと——学長室の防犯カメラ。研究棟のカードキーの記録」
斎藤はメモを取り始めた。
……
数日後。
集まった資料は、井森の予想を裏付けていた。
榊原は確かに八月十八日にニューヨークへ出発している。基調講演も行っている。証拠もある。しかし——問題は帰国便だった。
「予定では八月二十日の朝に帰国するはずだった。しかし、搭乗記録を確認したところ、彼は便を変更している」
「変更?」
「八月十九日の夜の便です。ニューヨークを深夜に出発し、日本時間の八月二十日の昼前に到着する」
「それじゃあ、白瀬先生の発見の瞬間——」
「八月十九日の深夜。つまり、榊原先生はまだ飛行機の中だ」
井森は首をかしげた。
「じゃあ、どうやってあの瞬間を知ったんだ?」
さらに調べると、榊原は帰国後、その足で大学に向かっている。カードキーの記録によれば、八月二十日の午後一時すぎに研究棟に入館。それから一時間ほど滞在していた。
「白瀬先生は、八月十九日の深夜に実験をしている。翌日の午後、榊原先生が研究棟に来た時、白瀬先生はまだ大学にいたのか?」
「いえ。カードキーの記録によれば、白瀬先生は八月二十日の朝九時に退館しています。つまり——」
「榊原先生が来た時には、白瀬先生はいなかった」
井森は深く息を吐いた。
「じゃあ、いつ話を聞いたんだろう。コーヒーの温度まで知っているような、詳細な話を」
沈黙。
「もしかして——」
斎藤が口を開きかけたが、井森は手を挙げて止めた。
「まだ決めつける段階じゃない。もう少しだけ、調べましょう」
……
その夜。
井森は一人で、地下実験室に立っていた。
爆発の跡は、まだ完全には片付けられていない。黒焦げになった壁。割れたガラス。焦げたプラスチックの匂い。鑑識が写真を撮り、証拠品を回収した後も、現場の不気味さは変わらない。
彼は白瀬が立っていた場所に立った。パソコンが置かれていたデスク。コーヒーカップの跡。そして——。
「ここから、何が見えたんだろう」
天井を見上げる。ガス配管。電気配線。換気口。
何かが——彼の頭の中で引っかかっている。形にならない違和感。まるで、誰かに「見てはいけない」と言われているような感覚。
井森はしばらくその場に立ち尽くしていた。
そして、小さく呟いた。
「……ふうん」




