第十四話 発見者の名前(上編)
人を救った者の名前は、歴史に残る。
少なくとも、東央医科大学の学長・榊原隆介は、そう信じていた。いや、信じていたというより——“そうあるべきだ”と強く確信していた。医学の歴史は偉人たちの名前で綴られている。ワクチン、抗生物質、新しい手術法。発見者と共に、その功績は語り継がれる。彼はその列に、自分の名を刻みたかった。それだけのことだ。
……
会見場には、無数のカメラが並んでいる。フラッシュ。マイク。ざわめき。世界中の医学メディアが集まっていた。東京のホテルの大宴会場。普段は結婚式などが行われる場所だが、今日は完全に医療関係者で埋まっている。ネームプレートを付けたジャーナリストたちが、ノートパソコンを開き、スマートフォンを構えている。
榊原は演台に立つ。スーツは黒。ネクタイはシルバー。白髪交じりの髪をきっちりと撫で付けている。表情は凛として、口元にはわずかな自信の微笑み。
「本学研究チームは、本日——」
声は深く、響く。
「進行性神経変性疾患に対する、新たな治療法を確立しました。これは、全世界で約五千万人に及ぶ患者さんとそのご家族に、新たな希望をもたらすものです」
会場が揺れる。進行性神経変性疾患——つまり、指定難病だ。長年、有効な治療法が存在しなかった病。原因すら完全には解明されていない。根本的な治療は不可能とされ、対症療法で凌ぐしかなかった。それが、この日を境に変わる。
スクリーンには患者の映像。歩けなかった人間が歩いている。震えていた手が止まっている。杖をついていた老人が、何も持たずに廊下を歩く。車椅子の女性が、自分で立ち上がる。
会場から、自然と拍手が起こる。涙ぐむジャーナリストもいる。長年この難病を取材してきた者にとって、これは歴史的な瞬間だった。
「この治療法は、今後“榊原式プロトコル”として——」
その瞬間だった。
後方席で、一人の男が顔を上げた。
若手准教授・白瀬修司。三十五歳。神経内科医であり、基礎研究者でもある。この治療法の——真の“発見者”。彼は榊原の言葉を聞いて、全身の血が逆流するのを感じた。榊原式プロトコル。自分の発見が、他人の名前で呼ばれようとしている。
違う。
そう言いかけた。
口が開きかけた。
だが——言葉は飲み込まれる。ここで騒げば終わる。研究も。患者も。この治療法が正式に認められなくなる。承認が遅れる。何より、治療を待つ人々がいる。白瀬は拳を握りしめ、唇を噛んだ。そして、何も言わなかった。
ただ、後ろから演台の榊原を見つめ続けた。
……
会見終了後。
白瀬はエレベーターに乗り、最上階へ向かった。廊下を早足で進む。スーツのジャケットの裾が揺れる。ノックもせずに、学長室のドアを開けた。
「どういうつもりですか」
榊原は窓際に立ったまま、振り返らない。外には大学病院の建物が見える。白い壁。無数の窓。その中で、今日も患者たちが治療を受けている。
「何がです?」
「“榊原式”です。あれは私が発見した——」
静かな沈黙。
榊原がゆっくりと振り返る。表情は穏やかだった。むしろ、哀れみすら含んでいるように見えた。
「白瀬先生」
彼は一歩、前に進む。
「研究は、一人では成立しません」
「でも発見したのは私です。基礎実験を行い、有効性を確認し——」
「違う」
榊原は即答した。
「君は“見つけた”だけだ」
白瀬の顔が変わる。怒りと屈辱が入り混じった表情。
「見つけた? 私は三年間、毎日十六時間以上——」
ー
「研究費を取ったのは誰です? 国際学会を動かしたのは? 製薬会社を説得したのは?」
榊原の言葉は、ゆっくりと、重く。
「君は実験室にこもってデータを取っていればよかった。それ以外のことは、すべて私がやった」
「だから名前まで欲しくなったんですか」
榊原の顔が一瞬で強張る。
その言葉は——彼の最も触れてほしくない場所を、正確に突いていた。
「私は二十年、この大学を守ってきた。医学部の再編。大学病院の経営。国との交渉。すべては、研究環境を整えるためだ。君たちが自由に研究できるように」
「その対価として、発見の名前を奪うんですか」
一瞬。空気が凍る。
榊原は笑った。しかし、その目は笑っていなかった。
「若いな。君はまだ、この世界がどう動いているか分かっていない」
白瀬はバッグからUSBメモリを取り出した。小さな黒い記憶装置。しかし、その中には膨大なデータが詰まっている。
「全部保存してあります。研究ログ。実験映像。タイムスタンプ付きのノート。薬品の購入履歴。すべてのデータが、私が発見者であることを示している」
榊原はそれを見つめる。長く。静かに。
「正式発表します。国際ジャーナルに。私の名前で。これは私のものです。あなたのものじゃない」
沈黙。学長室は静まり返っていた。壁にかかった歴代学長の肖像画が、二人を見下ろしている。
榊原は、ゆっくりと口を開いた。
「……患者が困りますよ」
「困るのは先生です」
白瀬はUSBメモリをバッグにしまい、振り返らずにドアへ向かった。
「白瀬先生」
背中越しに、榊原の声。
「後悔しないでくださいね」
白瀬は一瞬立ち止まったが、答えなかった。ドアを閉める音だけが、重く響いた。
……
その夜。
研究棟の地下実験室には、まだ灯りがついていた。
東央医科大学の研究棟は、地上八階、地下二階。白瀬の研究室は地下だった。外界の雑音を遮断し、静かな環境を保つためだ。コンクリートの壁。蛍光灯の白い光。培養器の規則正しいブーンという音。
白瀬は一人でデータ整理をしている。パソコンの画面には、今日の会見のニュース記事が開かれていた。記事の中で、榊原は「長年の研究の集大成」と語り、自身の功績を誇らしげに述べている。
記事のコメント欄には、すでに多くの感謝の言葉が寄せられていた。
「榊原先生、本当にありがとうございます」
「日本の医学の誇りです」
「榊原式プロトコル、早く受けたい」
白瀬はその言葉を読んで、やりきれない気持ちになった。感謝されるべきは自分だ。そう思う。しかし同時に——患者たちは誰の名前かなんて気にしていない。ただ、治るのであればそれでいい。
彼は深く息を吐き、コーヒーカップを手に取った。もう冷めている。彼はそのまま一口飲み、顔をしかめた。
外は雨。地下なので雨音は聞こえないが、湿った空気が換気口から流れ込んでくる。
時刻は深夜一時。もう誰もいないはずだった。
足音。
スリッパではなく、革靴の音。コンクリートの廊下に、カツ、カツ、と響く。
白瀬は顔を上げた。
「まだいたんですか」
榊原だった。白衣を着ている。珍しい。彼は普段、学長としてスーツを着ていることが多い。だが今夜は違う。まるで——かつて臨床医だった頃の姿に戻ったかのようだった。
「話は終わりました」
白瀬は立ち上がらない。パソコンの画面を閉じようともしない。
榊原は静かに実験室の中を歩く。薬品棚。培養器。遠心分離機。ラベルの貼られた試験管。そこには、この治療法の開発に使われた全てが残っている。
「発見した瞬間、覚えてますか」
白瀬は顔を上げる。なぜ今、そんなことを聞くのか。
「もちろんです。去年の八月の夜。培養細胞に薬剤を加えて——二十四時間後に確認したら、目視で分かるレベルの変化があった。あの瞬間は——」
「私もですよ」
榊原は微笑んだ。穏やかな、優しい微笑み。しかし、その目は冷たかった。
白瀬は不意に、背筋に冷たいものを感じた。この人は——何をしに来たんだ?
その直後。
けたたましい警報音。
ガス漏れ警報だった。赤いランプが回り、サイレンが鳴り響く。
白瀬が立ち上がる。
「何だ……?」
「まさか、配管の老朽化か」
榊原は落ち着いた声で言う。しかし、彼は動かない。
「避難しませんか!」
白瀬は叫んだ。
榊原は静かに首を振った。
「私は大丈夫です」
「何言って——」
その言葉は、途中で途切れた。
次の瞬間。爆発。
轟音。炎。ガラス。実験室の全てが、一瞬で吹き飛んだ。白瀬は自分の体が浮くのを感じた。熱風。耳をつんざく音。そして——何も見えなくなった。
研究室が吹き飛ぶ。
白瀬は、その場で死亡した。
……
原因は薬品事故。
そう発表された。
学内の調査委員会は、わずか二日で結論を出した。地下実験室のガス配管の劣化。引火したのはエタノールか、あるいは他の有機溶媒。事故の一因として、深夜の無人の時間帯に実験を続けていた白瀬の「自己管理の甘さ」も指摘された。
遺族は泣いた。同僚は悼んだ。誰も疑わなかった。
三日後。
東央医科大学は記者会見を開く。場所は前回と同じホテルの宴会場。しかし今回は、会場の空気が重い。白瀬の遺影が演台の横に置かれている。
榊原は涙ぐみながら言った。
「白瀬先生は、私の最も信頼する若手研究者でした。彼のいない研究は考えられません。しかし——彼の志を継ぎ、この治療法を完成させます。それが、彼への最大の弔いだと信じています」
完璧だった。声のトーン。間の取り方。涙のタイミング。すべてが計算され尽くしている。
誰も疑わない。
ただ一人を除いて。
「いやぁ……難しい話ですねぇ」
井森正一刑事だった。彼は会見の様子をテレビで見ていたわけではない。会場の一番後ろの席で、実際にその様子を目の当たりにしていた。
「DNAとか、ゲノムとか、そういう言葉が出てくるともう僕にはさっぱりで。でもね——」
彼は隣の若い刑事に言った。
「人の涙だけは、本物か偽物か、なんとなく分かるんですよ」
若い刑事は何も言わなかった。
井森はメモ帳を取り出し、何かを書き込んだ。
榊原隆介——涙のタイミングが遅すぎる。声の震えも不自然。
彼はボールペンをくるくる回しながら、演台の榊原を見つめた。
「さあて、どこからほぐしましょうか」




