第十三話 寄付という名の未来(下編)
下編『教育者の計算』
取調室ではない。
理事長室だった。
夕暮れ。校庭から部活動の声が聞こえる。野球部の金属バットの音。サッカー部の掛け声。生徒たちの笑い声。
井森はソファに座っていた。今日は一人だ。斎藤は別の用事で来ていない。向かいには、鷹野が座っている。机の上には書類が積まれているが、手をつけられた形跡はない。
「事故だと思いますよ」
井森が言った。
鷹野は微笑む。
「でしょうね」
「ただね」
井森は続ける。
「わざわざ感があるんですよ」
「わざわざ、とは?」
「遠回り。ナビの指示。ブレーキの故障。そして——あなたの即答」
鷹野の微笑みが、少しだけ硬くなった。
「工事情報の件です。あなたは、『工事情報でしょう』とすぐに答えた。他の誰も、そんな詳細は覚えていなかったのに」
「教育者ですから」
「教育者は、全ての道路工事を把握してるんですか? この辺りだけで、年間何百件もありますよ」
鷹野は答えない。
「当日の交通データを調べました。工事はありませんでした。渋滞もありませんでした。なのに、真壁さんは遠回りした。そして、その遠回りの道だけに——ブレーキ細工が最も効果的な坂とカーブがある」
「ブレーキの故障は——」
「整備記録には問題ありませんでした。でも、事故後の車を詳しく調べたところ、ブレーキホースに小さな穴が開いているのが見つかりました。自然劣化では説明がつかない。何か鋭利なもので、意図的に——」
井森は一呼吸置いた。
「つまり、誰かがブレーキを壊した。そして、その効果を最大限に引き出すために、真壁さんにあの道を通るように誘導した。その手段が、ナビアプリへの虚偽情報送信——もしくは、何らかのハッキング」
「そんなことが、可能なんですか?」
「専門家じゃないから、断言はできません。でも、あなたの事務所には優秀なITスタッフがいるって聞きました」
鷹野は黙った。
「真壁さんは、あなたを内部告発する準備をしていた。寄付金の横領。二億三千万円。株式会社エデュケーションフロンティア。あなたの息子たちが役員を務める会社への資金流用」
井森は静かに言葉を重ねる。
「彼は、教育委員会に告発文を送る直前だった。机の引き出しから、封筒に入ったままの文書が見つかっています」
「だからって、私が——」
「あなたは教育者です。だからこそ、失敗した」
初めて鷹野の表情が変わった。
「何ですか?」
「説明しすぎる」
井森は穏やかに言った。
「みんな、あの日の工事情報なんて覚えていません。特に、自分の通勤ルートじゃない道の情報は。でも、あなただけは即答した。『工事情報でしょう』って。準備した人間だから——自分がそうなるように仕向けたから」
長い沈黙。
窓の外では、もう部活動の声は聞こえない。校庭は静かだ。夕日が、室内をオレンジ色に染めている。
鷹野は立ち上がった。窓の外を見る。校庭はがらんとしている。遊具の影が長く伸びている。
「私は、学校を守った」
低い声だった。
「二億で何ができると思う? 図書館。奨学金。留学制度。あの金があったからこそ、実現できたことがたくさんある」
「横領ですよ」
「横領? 違う。これは——再配分だ」
鷹野は振り返った。
「寄付金は、学校に寄せられる。でも、寄付した人の多くは、自分の子供だけが優遇されればそれでいいと思っている。私はそれを、より多くの子供たちのために使った。真壁は理想論しか知らない。規則は守るべきもの。嘘はついてはいけない。そんなの、きれいごとだ」
「でも、そのきれいごとが、教育の基本じゃないんですか」
井森の声は優しかった。
「子供たちに、何を教えてきたんですか。規則を守ることの大切さ。正直であることの尊さ。あなた自身が、それを破っていては——」
「未来のためだ」
鷹野は言い切った。
「未来のために、必要なことがある。時には、表向きのルールを破らなければならない。それを理解できない者は、教育者として失格だ」
井森はしばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。
「未来って、便利な言葉ですねぇ」
鷹野の目が止まる。
「誰かを潰す時にも使える。自分のやったことを正当化する時にも。『未来のため』と言っておけば、何をやっても許される——そんな風には、思いませんか?」
鷹野は答えなかった。
ただ、自分の机に積まれた書類を見つめている。そこには、これからの学校の計画がびっしりと書き込まれている。新しい校舎。新しいカリキュラム。新しい人材。すべて「未来のため」に。
「私がやったことは、間違っていない」
彼は最後にそう言った。
井森は静かに立ち上がった。
「その言葉は、取調室でも言ってください」
鷹野はもう、何も言わなかった。
……
数週間後。
青葉学院は新理事長を迎えた。表向きは、「前任者の健康上の理由」による交代。マスコミは小さく報じたが、大きくは取り上げなかった。教育の問題は、視聴率が取れないからだ。
校門の石碑は変わらない。
教育とは未来への投資である。
井森はそれを見上げていた。スーツは今日もくたびれている。ネクタイも曲がっている。
「投資はいいんですけどねぇ」
彼は呟いた。
「元本が人間だと、困るんですよ」
春の風が校庭を吹き抜ける。誰かの笑い声が遠くから聞こえる。新しい生徒たちが、新しい制服を着て、新しい未来に向かって歩いていく。
井森はゆっくりと歩き出した。
石碑は何も語らない。
金文字は今日も輝いている。




