第十三話 寄付という名の未来(中編)
中編『遠回りの理由』
捜査本部は事故扱いだった。正確に言えば、「事故の可能性が高い」という前提で動いていた。現場検証は行われたが、それは「事故の原因を特定するため」であり、「事件性を調べるため」ではなかった。
整備記録に問題なし。車は一年前に車検を通したばかり。ブレーキの消耗も通常の範囲内。飲酒なし。居眠りも考えにくい——出勤時間はいつもと同じで、睡眠時間も十分に取れていたらしい。
だが、何よりも決定的だったのは、真壁の周囲の証言だった。
「被害妄想が強かったですね。学校に対して、いつも何か文句を言っていましたから」
「学校批判ばかりで、協調性がなかった。同じ教師として、恥ずかしいと思ったこともあります」
「真壁先生は、理事長を恨んでいました。告発するとか、何とか——ちょっと頭のおかしいところがありましたから」
これらはすべて、同僚の教師たちの証言だ。
井森はこれらの証言を聞きながら、ペンを走らせていた。
「ふうん」
彼だけが、首を傾げていた。
「みんな、よく話してくれますねぇ。まるで用意してたみたいに」
若い斎藤刑事がハッとして顔を上げたが、井森は気にせず続ける。
「いや、違う違う。ただの印象ですよ。印象」
井森は机の上に地図を広げた。
事故現場。学校。自宅。コンビニ。信号機。
「変なんですよね」
「何がです?」
斎藤が覗き込む。
「遠い」
沈黙。
「通勤なら、普通こっちでしょう」
井森は最短ルートを指でなぞる。自宅から学校まで。幹線道路をまっすぐ。信号はいくつかあるが、道は広く、交通量も多い。
「なのに、事故の日だけ遠回りした。ここを通ってる」
彼が指さしたのは、坂道のある迂回ルートだった。距離は最短より約三キロ長い。時間にすると五〜七分のロス。
「ナビの指示です。調べましたから」
斎藤が資料を開く。
「当日の朝、このエリアで道路工事の情報が配信されていて、真壁さんのナビが別ルートを——」
「工事、実はなかったんですよ」
井森は笑った。
「調べましたから。当日の交通情報データ。このエリアでは、いかなる工事も行われていない。渋滞の発生もなし」
斎藤は言葉を失った。
「じゃあ、なぜ——」
「さあ。それが知りたいんですよ」
井森は立ち上がった。
「ナビが勝手に嘘の情報を表示することはない。誰かが、その情報を送り込んだか——真壁さんのナビを何らかの方法で操作したか」
「そんなこと、可能なんですか?」
「専門家じゃないから分かりません。でも——」
井森はスーツの襟を直した。
「やってみないと分からないこともある」
……
翌日。
井森は、真壁が事故の日に通った道を、同じ時間帯に車で走った。
朝の七時過ぎ。住宅街から幹線道路へ。いつものルートでは、信号に引っかかりながらも順調に進む。渋滞はない。交通量はやや多いが、問題ない。
では、遠回りのルートはどうか。
井森はUターンし、迂回路へ入った。
そこは——確かに不便だった。道幅は狭く、対向車とすれ違うのもやっと。坂道はきつく、下りはスピードが出すぎる。そして、あのカーブ。
「わざわざなんですよねぇ」
彼はブレーキを軽く踏みながら呟いた。
効く。正常だ。
しかし、もしここでブレーキが効かなかったら——井森は想像した。カーブを曲がりきれず、ガードレールに突っ込み、そのまま転落。真壁の車と同じ轍をたどる。
「わざわざ、遠回りして、ここを通る必要があったのか」
疑問は深まるばかりだった。
……
学校でも、同じ質問を繰り返した。
「真壁先生は、毎日この道を通ってたんですか?」
「いえ。いつもはこっちです」
「じゃあ、なんでその日だけ、こっちを通ったんですか?」
誰も答えられない。教師たちは首をかしげるだけだ。
「ナビが——」
「ナビは本当にそう指示したんですか? ご本人が確認してるんですか?」
「それは……わかりませんが」
井森は笑顔を絶やさない。
「わかりません、ね。そうですよね。僕もよくわかりません」
しかし、その目は笑っていなかった。
理事長室。
鷹野は井森を穏やかな表情で迎えた。
「刑事さん、ご苦労さまです」
「いやあ、お忙しいところすみません」
井森はソファに腰を下ろした。部屋を見回す。高い天井。重厚な家具。壁には、歴代の卒業生たちの写真——政治家や有名企業のCEOたち。
「すごいですね。ここを出た人が、日本の未来を作ってるんですね」
「そう言っていただけると、励みになります」
「ところで、真壁先生のことなんですけど」
鷹野の表情は変わらない。
「彼は、毎日どのルートで通勤してたか、ご存じですか?」
「詳しくは。ただ、事故の日は工事情報で遠回りしたと聞いています」
「工事情報、よくご存じでしたね。即答ですね。」
鷹野の眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
「教育者ですから。生徒の安全に関わることには、常に注意を払っています」
「なるほど」
井森はうなずいた。
「でも、その工事、実はなかったんですよね。調べたんですが」
「……そうなんですか」
「はい。だから、なんで遠回りしたのかなと。ナビが間違った情報を表示したのか、それとも誰かがそうするように誘導したのか」
鷹野はしばらく黙っていた。
「私は専門外なので、何とも」
「そうですよね。すみません、素人考えで」
井森は立ち上がった。
「最後に一つだけ」
「何です」
「真壁先生って、誰かに恨まれるようなこと、してましたか?」
鷹野は少し間を置いた。
「彼は……真面目すぎる方でした。それが時に、トラブルを生むこともありましたが」
「トラブル、ね」
井森はメモ帳に何か書き込んだ。
「どうもありがとうございました」
彼が理事長室を出ようとした時、鷹野が声をかけた。
「刑事さん」
「はい」
「事故は、事故ですよ。無理に何かを探そうとしないでください。誰も幸せになりませんから」
井森は振り返り、軽く笑った。
「そうですね。誰も幸せにならない」
その言葉は、どちらに向けて言われたのか。
鷹野には、わからなかった。




