表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刑事・井森正一の事件簿  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/56

第十三話 寄付という名の未来(上編)

教育とは、未来への投資である。


その言葉が、校門の石碑に刻まれていた。文字は金色。朝日を浴びて輝いている。名門私立・青葉学院。創立百年を超える進学校。政治家、医師、経営者。数え切れない卒業生を送り出してきた。誰もが認める“エリートの登竜門”。保護者の間では、入学さえ叶えれば人生の半分は成功したも同然という神話があった。

そして近年は、寄付金でも有名だった。

「子供たちの未来のために」

理事長・鷹野隆之は演壇に立っていた。体育館には保護者がびっしりと並ぶ。スーツ姿の父親。上品なワンピースの母親。スマートフォンを構えて動画を撮る者もいる。

「世界に通用する教育を。私たちは常に、時代の先を見据えてまいりました」

拍手。大きくて、温かい。この場にいる誰もが、この男を信頼している。


鷹野は六十歳手前。白髪交じりの髪をオールバックに整え、三つ揃いのスーツをビシッと着こなしている。話し方は穏やかで、ゆっくりと、しかし決して冗長にはならない。彼の言葉には、なぜか“重み”があった。長年の経験がにじみ出ている。教育者としてのキャリア。理事長としての実績。どれも文句のつけようがない。


「本年度の新たな取り組みとして、AI教育を導入いたします。総事業費はおよそ四億円。そのうちの半分は、皆様の温かいご寄付によって賄われます」

会場がざわめく。四億円。軽い金額ではない。だが、誰も否定的な声を上げない。この学校の保護者は、それができる人々だからだ。

鷹野は続ける。

「未来に投資することを、惜しんではいけません。私たちの子供たちは、その投資によって大きく羽ばたくことができる」

完璧だった。誰も疑わない。

演説が終わると、また大きな拍手。鷹野は優雅に一礼し、演壇を降りた。保護者たちが近づき、握手を求める。彼は一人ひとりに笑顔で応じる。


……


だが会場の後方で、一人だけ拍手をしていない男がいた。

教師の真壁誠。歴史教師。勤続十五年。四十五歳。眼鏡の奥の目は鋭く、口元は引き締まっている。真面目で、融通が利かない男だった。生徒からの人気はあるが、同僚からは「面倒くさい」と思われている。規則は守るべきもの。嘘はついてはいけない。そんな古い価値観を、いまだに手放せないでいる。

彼は鷹野を見つめていた。

その目は——疑っていた。


……


その夜。

真壁は自宅のノートパソコンを開いていた。机の上にはコーヒーカップ。冷めきっている。彼は資料の山を前に、三時間以上も作業を続けている。

画面に並ぶのは、寄付金台帳。工事費。業者契約。送金履歴。

数字が並ぶ。そして——消えている金。

「……ここだ」

彼は小さく呟いた。

総額二億三千万円。三年分の寄付金の一部が、名目上は「施設整備費」として計上されている。だが、その資金の流れを辿ると、最終的に別の会社へ移っている。株式会社エデュケーションフロンティア。登記上の業務は教育コンサルティング。しかし実態は——。

真壁は別の資料を開いた。

その会社の役員リスト。そこには、鷹野の長男と次男の名前がある。そして、鷹野自身の名前はない。表向きは無関係。だが、資金の流れは明確だ。

「寄付金の横領」

彼は深く息を吐いた。

証拠は揃っている。内部告発。教育委員会。マスコミ。ルートはいくつもある。彼は既に、告発文書を準備していた。印刷し、封筒に入れ、机の引き出しにしまってある。あとは、出すタイミングだけ。

真壁は椅子に寄りかかり、天井を見上げた。

「……なぜ、こんなことをするんだ」

答えは出ない。だが、彼は知っている。金だ。いつだって金だ。教育という名目の下に、金が動く。そして、その金を誰かが搾取する。この国にはびこる“善意の腐敗”。誰も口にしないが、誰もがうっすらと気づいている。

真壁はノートパソコンを閉じた。

決意は固い。


……


翌朝。

登校する生徒たちを、真壁は校門で迎えていた。いつものことだ。「おはようございます」と声をかける。生徒たちは「あ、真壁先生」と笑顔を返す。一人の女子生徒が近づいてきて、「先生、昨日の演説どう思いました?」と聞く。

「え?」

「AI教育、楽しみだなって」

真壁は少し間を置いた。

「……そうだね。楽しみにしていよう」

それが、精一杯の答えだった。


……


三日後。

理事長室。

鷹野は静かに資料を読んでいた。窓からの光が、机の上に長い影を落としている。執務室は広く、壁には歴代の校長と理事長の写真が並んでいる。重厚な木製の机。革張りの椅子。この部屋にいるだけで、この男の権力の大きさを感じさせる。

彼が読んでいるのは、真壁から届いた告発文だった。

丁寧な字。簡潔な文章。証拠のリスト。数字の出典。すべてが明確に整理されている。

怒りはなかった。むしろ感心していた。ようやく来たか、という思い。

「よく調べた」

ぽつりと言う。j

「教師にしては」

机の前に立つ秘書——五十代の女性、白石という——が聞く。

「どうされますか」

鷹野は窓の外を見た。校庭で子供たちが走っている。小さな影が、芝生の上を駆け回っている。あの子たちが、いつの日かこの学校を卒業し、社会に出る。そして、その中には自分の息子たちもいる。

「未来のためですよ」

静かな声だった。

「私の未来ではなく、この学校の未来。そして、あの子たちの未来」

白石は何も言わなかった。ただ、うなずいた。

鷹野は告発文を机の引き出しにしまった。

「真壁先生は、とてもまじめな方だ。正義感も強い。だからこそ——」

彼は少しだけ間を置いた。

「扱いが難しい」


……


その頃。

真壁は車で帰宅していた。ハンドルを握りながら、頭の中は告発のことでいっぱいだった。いつ出すか。どのルートが最も効果的か。自分に降りかかるであろう報復はどの程度か。

青信号。発進。l

考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。やるべきことをやるだけだ。

信号が黄色になり、減速する。

止まる。

真壁はふと、後続の車に目をやった。白いセダン。ナンバーは見覚えがない。数日前から、妙に同じルートを走っている気がする。

——考えすぎだ。

彼はそう思い直し、アクセルを踏んだ。


……


一週間後。

真壁はいつもより少し早く家を出た。今日は朝の打ち合わせがある。いつもの時間。いつもの車。いつもの道。

エンジンをかけ、バックミラーを確認する。特に異常はない。彼はゆっくりと発進した。

住宅街を抜け、幹線道路へ。信号が青に変わるのを待つ。

いつもの朝。いつもの時間。いつもの道。

だがその日だけ違った。

ナビが別ルートを示している。

「え?」

真壁は画面を見た。工事による渋滞表示。五キロ圏内で大規模な道路工事があるらしい。代替ルートを案内している

「珍しいな」

彼は呟いた。この道を五年走っているが、工事で渋滞したことは一度もない。

しかし、ナビの指示だ。信じるしかない。

真壁は指示に従い、遠回りの道へ入った。

そこは——坂道だった。

長い下り坂。両側は雑木林。ガードレールは古く、錆びている。対向車はない。時間帯のせいか、ほとんど車は通らない。

下り。速度が乗ってくる。

急カーブ。その先は——見えない。

真壁はブレーキを踏んだ。

効かない。

「——っ!」

一度。二度。三度。

パニックになりながら、何度も踏む。だが、ペダルは床までスカスカと沈むだけだ。まったく効かない。

速度は六十キロを超えている。カーブが迫る。

ハンドルを切る。左に。だが、曲がり切れない。

ガードレール。

衝突。

衝撃。エアバッグが膨らむ。視界が白くなる。車体が浮く。転落。何度も回転する。ガラスが割れる。金属が潰れる音。

そして——静寂。

真壁の意識は、そこで途切れた。


……


事故死。

誰もがそう思った。

通報は、現場を通りかかったトラック運転手からだった。救急隊が到着した時には、真壁はもう息をしていなかった。医師の到着を待たず、現場で死亡確認。

整備不良か、運転ミスか。あるいは居眠りか。誰もがそう考えた。彼の評判も手伝って、事故で片付ける空気が自然とできあがっていった。

翌日。学校には半旗が掲げられていた。生徒たちは泣き、教師たちは沈痛な面持ちで黙祷を捧げる。

理事長は体育館で哀悼の辞を述べた。

「誠に残念な事故でした。真壁先生は情熱あふれる教育者であり、私たちは彼の代わりとなる人材を——いや、代わりなどいるはずがありません。ただただ、ご冥福をお祈りするばかりです」

多くの保護者が涙を拭った。

完璧な追悼だった。

そして。

その数日後。

井森正一刑事が現れた。

「いやぁ……立派な学校ですねぇ」

場違いな声だった。くたびれたスーツに、少し曲がったネクタイ。眠そうな目。受付の女性が一瞬、警戒した顔をする。

「あの、どちらさまで——」

「警察の者です。井森と申します。ちょっと、事故のことでお話を聞かせていただけませんかね」

「事故……真壁先生の?」

「ええ」

井森はにこにこと笑っている

「ご迷惑でなければ。できれば、理事長さんと」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ