第十二話 偽りのヴィンテージ(下編)
井森は最後の決着をつけるために、ある場所を訪れた。
ワインセラーではない。柏木の事務所だった。
事件の後、閉鎖されたその部屋は、時間が止まったままだった。机の上には資料。電話。ワインのカタログ。そして——日記。
柏木は記録魔だった。会った人物、飲んだワイン、感じた違和感。すべてをノートに残していた。
井森はそのノートを開いた。
最後のページ。
「堂島隆一。ワインサロン『Cave de l’Illusion』。1945年ロマネ・コンティ——偽物の可能性が高い。コルクが新しい。証拠を集める必要がある。次に会う時は、専門機関に分析を依頼しよう」
その次のページには、何も書かれていなかった。
井森は静かにノートを閉じた。
「あなたは、証拠を集める前に——殺されたんだ」
……
翌日。
井森は堂島を任意同行で署に呼んだ。
取調室。白い壁。テーブルを挟んで向かい合う。弁護士も同席している。
堂島は落ち着いていた。スーツはシワ一つなく、ネクタイの結び目も完璧。足を組み、指を組んで、井森を見つめている。
「事故ですよ。誰にも証明できません」
堂島が言った。
「そうですねぇ」
井森は素直にうなずいた。
「かなり難しい。ワインの成分は複雑ですし、コルクの交換だって“あり得ない話”じゃない。音の違いも、主観的なものと言われればそれまでです」
「じゃあ、なぜ私を——」
「でもね」
井森は静かに続けた。
「音は、嘘つかないんですよ」
彼はスマートフォンを操作し、録音を再生した。
——コッ。
軽い音。新しいコルクの音。
「これ、柏木さんが飲んだワインの開栓音です。もう一つ、聞いてください」
別の録音。本物の1961年のワインの開栓音。
——ボコッ。
鈍く、湿った音。時間を経たコルクが引き抜かれる音。
「違うでしょ」
堂島は黙っている。
「古酒って、もっと死にかけた音するらしいですよ。専門家の先生が言ってました」
井森は苦笑した。
「僕、よく分かんないんですけどね。缶ビールしか飲まないもんで。でも——明らかに違う音だとは思いました」
彼は机の上に写真を置いた。
コルクの断面写真。年輪がはっきりと写っている。
「これ、あなたのセラーにあった1955年のワインのコルクです。専門家に鑑定してもらったところ、年輪から推定される採取年は1990年代以降だそうです」
堂島の表情が変わらない。だが、指の力が強くなっているのが分かる。
「瓶は古い。でもコルクは新しい」
井森は言った。
「つまり——中身を入れ替えた。でなければ、ありえない」
「コルクの交換は——」
「記録がありますか? あなたのワインの、そのコルクを交換した記録が」
堂島は答えない。
「ないでしょう。なぜなら、あなたはそれを隠したかったから。古い瓶に、新しいワイン——安物かもしれない——を詰めて、プレミア価格で売っていた。偽ヴィンテージビジネスです」
「証拠は?」
「今、集めています。あなたのセラーにある他のワインも鑑定する。数十本、数百本——全部調べれば、どこかに決定的なものが出てくるはずです」
井森は姿勢を正した。
「でも、それとは別に——柏木さんの件があります」
「私は彼を殺して——」
「あなたは彼を殺していない。毒を入れたワインを飲ませた。それで殺した」
堂島の口が閉じる。
「問題は、どうやって毒を入れたか。ボトルに混入する方法はいくつかある。注射器でコルクを通す。あらかじめ毒を仕込んだワインを詰める。あるいは——」
井森は一枚の写真を取り出した。
それは、現場のテーブルのクローズアップ写真だった。ワイングラス。瓶。そして、テーブルの端に置かれた小さなスポイト。
「これは、何ですか」
堂島の顔色が、初めて変わった。
「調べました。このスポイトから、微量の有機リン系神経剤が検出されました。あなたの指紋も、はっきりと——」
「そんなはず——」
堂島が口を滑らせた。その瞬間、井森の目が変わった。
「“そんなはず”とは?」
堂島は黙り込んだ。
「あなたは、スポイトを使ったんです。開けたワインに、後から毒を混入した。そのスポイトをテーブルの端に置き忘れた。完璧を目指した人間が、最後に犯す小さなミスです」
長い沈黙。
堂島は天井を見上げた。
「……あいつ、分かったんですよ」
声はかすれていた。
「1945年のロマネ・コンティを見た瞬間に。『コルクが若い』って。たったそれだけで」
井森は何も言わない。
「ワインなんか、誰も味見してない。ラベルを見て、値段を聞いて、『素晴らしい』って言うだけ」
低い声。笑っているのか、泣いているのか、区別がつかない。
「飲んでるのは“値段”だ。希少性だ。神話だ。中身が何かなんて、どうでもいい。どうでもよかったんだ」
「でも柏木さんは違った」
井森は静かに言った。
「彼は味じゃなく、時間を見ていた。あなたが偽ったもの——本当の価値を見ていた」
堂島は答えなかった。
ただ、自分の手を見つめている。ワインを何千本と開けてきた手。今は、少し震えている。
「あなた、“古いふり”をさせたかった。瓶も、ラベルも、雰囲気も、全部。でも——」
井森は立ち上がった。
「コルクだけは、生まれた年を隠せなかった。木の皮には、時間が刻まれているから。」
堂島はもう否定しなかった。
ただ、ぽつりと言った。
「……私の負けです」
その声は、なぜか穏やかだった。
……
数日後。
事件は静かに報じられた。ワイン市場は大きくは揺れなかった。誰も、自分のコレクションを疑いたくないからだ。堂島の偽ヴィンテージビジネスは、表面化したものの一部に過ぎない。業界の誰もが知っていた。だが、誰も口にしなかった。
井森は署のデスクで、事件の報告書を書いていた。
最後の行まで書き終え、ペンを置く。
窓の外は、もう夕暮れだった。
彼は帰り際、コンビニに寄って缶ワインを買った。安物だ。三百円もしない。
自宅の小さなキッチンで、プルタブを開ける。
プシッ。
軽い音。新しい音。でも、それでいい。
井森は一口飲んで、言った。
「いやぁ……味って難しいですねぇ」
少し考える。
「でも、“古い音”くらいなら、僕にも分かる気がします」
彼は窓の外を見た。空は暗くなり始めている。
ワイングラスではなく、缶をそのまま傾ける。
プシッという音が、静かな部屋に鳴り響いた。




