第十二話 偽りのヴィンテージ(中編)
井森は、妙なところに執着した。
事件から一週間。誰もが「事故か、あるいは自殺の可能性もある」と口を揃えていた。鑑識の報告書も、結論は「判断保留」のまま。ワインの中から毒物は検出されたが、それが自然に発生したものか、意図的に混入されたものかは特定できない。
記者会見では、捜査一課の管理官が「引き続き調査を続けます」と述べるにとどまった。
だが井森は違った。
「音ですよ」
「音?」
「ええ」
斎藤刑事が困惑する。
「開栓音って、違うもんなんですかね」
井森はコーヒーカップを置き、スマートフォンを操作した。画面には事件当日のサロンの防犯カメラ映像。堂島の自宅の地下セラーに設置されたものだ。画質は悪くない。音声も残っている。
「これ、何度も見たんですけどね」
再生が始まる。
堂島がソムリエナイフを構える。瓶のキャップシールを切る。ネジを差し込み、ゆっくりと回す。コルクが上がり始める。そして——抜ける。
コッ。
小さな音。
「ここです」
井森は一時停止した。
「この音、変なんですよ」
「変、とは?」
「軽い。なんていうか……新しすぎる」
斎藤は首をかしげた。
「刑事さん、ワインに詳しいんですか?」
「いや、全然。でもね——」
井森は別の動画を開いた。それはインターネットで見つけた、本物の1940年代のワインを開栓する動画だった。
再生する。抜栓の瞬間。
——ボコッ。
より鈍く、湿った音。まるで何かに抵抗しながら引き抜かれるような。
「違うでしょ?」
「……確かに」
斎藤は真面目な顔でうなずいた。
「でも、これだけで——」
「分かってる。決め手にはならない」
井森は立ち上がった。
「専門家に聞いてみよう」
呼ばれたのは、大学でワイン化学を研究する教授——五十代後半の女性、野中千春だった。専門は発酵学と、古酒の成分分析。同時に、鑑定の世界にも詳しい。
「古酒のコルクは、時間とともに変化します」
野中はコルクの断面写真を拡大しながら説明する。
「ワインに長年触れていると、コルク内部に成分が浸透する。また、空気との接触で表面は酸化し、脆くなる。自然な経年変化です」
「じゃあ、新しいコルクと古いコルクは見分けがつく?」
「ある程度は。年輪の幅にも特徴がありますから」
井森は目を輝かせた。
「年輪?」
「コルクは木の皮から作られます。年輪はその木の成長を記録している。コルクの採取年もある程度、推定できます」
「つまり——瓶の年代とコルクの年代が合わなければ、おかしい」
「ええ。ただし、コルクの交換はまれに行われます。古いコルクが劣化した場合、新しいものに替えることはありますから」
「でもその場合は記録が残る?」
「信頼できるコレクターなら、残します。価値に影響しますから」
井森はうなずいた。
「堂島さんのワインに、その記録はありませんでした」
数日後。
井森は再び堂島の自宅を訪れた。今度は、コルクの専門家と一緒に。
堂島は応接間で待っていた。今日も完璧なスーツ。完璧な笑顔。ただし、目の下のクマは隠しきれていなかった。
「お久しぶりです、刑事さん」
「いやあ、何度もすみませんねぇ」
井森は頭を下げた。
「今日は、セラーを見せてもらえますか?」
「構いませんが——何を調べるんです?」
「コルクです」
堂島の眉が微かに動いた。
「……どうぞ」
地下セラーは前回と同じだった。温度と湿度は一定。無数の瓶が規則正しく並んでいる。まるで図書館のように。
「いやぁ、すごい数ですねぇ」
井森は棚を眺めながら歩く。
「時間を保存してるんです」
堂島が言った。
「ふうん」
井森は瓶の一つを手に取った。ラベルは古びている。1949年。彼は軽く振ってみる。中の液体が揺れる。
「でも、中身って見えないんですね」
「ワインですから」
「便利ですねぇ」
一瞬。空気が止まった。堂島の目が、ほんの少しだけ細くなる。
井森はそれに気づかないふりをして、瓶を棚に戻した。
「全部、本物なんですか」
「もちろん」
「全部?」
「当然です」
堂島の返答は完璧だった。早すぎず、遅すぎず。声のトーンも一定。
井森はうなずきながら、別の棚へ移動した。その背中はリラックスしている。まるでデパートの食品売り場を歩いているかのようだ。
「そういえば、柏木さんが飲んだワイン——あれもここにあったんですか」
「ええ。あそこです」
堂島が指さしたのは、セラーの中央に設けられたテイスティング用の小さなテーブル。その上のワインラックに、空瓶が置かれていた。
井森は近づき、その瓶を手に取った。
1961年のラベル。すでにコルクは抜かれている。瓶の中はからっぽ。彼は瓶を逆さまにして、中の様子を見ようとした。
「これ、空気清浄機みたいな匂いがしますね」
「洗浄済みです」
「なるほど」
井森は瓶を戻した。
「ところで、コルクはどこに?」
「証拠品としてお渡ししました」
「ああ、そうでした。じゃあ、別のコルクでもいいです。同じくらいの年代のやつ——開けてないやつで」
堂島は少し考えてから、棚から一本の瓶を取り出した。1955年。ラベルはくすんでいるが、状態は良い。
「これを開けますか?」
「いえ、開けなくていいです。このまま見せてください」
井森は瓶を手に取り、コルクの部分をじっくりと観察した。
そこには——微かな汚れがあった。指紋のような。それだけではない。コルクの表面の質感が、少しだけ周囲と違う。
「これ、いつ買ったんですか?」
「……五年前です」
「どこで?」
「ロンドンのオークションです」
「記録は?」
「あります」
井森はうなずいた。
「ちょっと、写真撮ってもいいですか?」
「構いません」
彼はスマートフォンでコルクを何枚も撮影した。アップで。角度を変えて。光を調整して。
堂島はその様子を黙って見ていた。
「終わりました」
井森は瓶を返した。
「ありがとうございました」
彼はセラーを出ようとして、ふと立ち止まった。
「あ、そうだ」
「何です」
「柏木さんが飲んだワイン——あれ、開ける時の音、変じゃないですかね?」
堂島の顔色が変わった。ほんの一瞬だけ。
「……何が変なんですか?」
「いや、素人なもので。なんとなく」
井森は笑った。
「軽いなって思ったんです」
堂島は答えなかった。
署に戻ってから、井森は撮影した写真を野中教授に送った。
返事は翌日に来た。
「このコルク、年輪から推定すると採取は1990年代以降です。1955年の瓶に使われていたとは考えにくい」
井森はそのメールを印刷し、デスクに貼った。
「年輪って、面白いですねぇ」
斎藤が横から覗き込む。
「これで決定的になりますか」
「決定的——ではないな。まだ」
井森は椅子の背もたれに寄りかかった。
「でも、“おかしい”という証拠は積み上がってる。開栓音の違和感。コルクの年代不一致。ワインの成分から毒物が検出されたこと——」
「それだけでは、堂島がやったとは——」
「そう。まだ“誰が”の部分が弱い」
井森は天井を見上げた。
「もし彼がやったとしたら、どうやって毒を入れたか。どうやって柏木さんだけに飲ませたか。そこの証拠が必要だ」
彼は事件の資料を広げた。
テーブルの上のワイングラスは一つだけ。柏木が飲んだもの。堂島のグラスもあったが、そこにはワインは注がれていなかったという——堂島の証言だ。
「自分は飲まなかった……なぜ?」
「ワインがもったいなかったから?」
「いや、違うな」
井森は首を振った。
「もっと単純な理由があるはず」
彼はペンを回しながら考える。
「毒が入ってるって知ってたから」




