第十二話 偽りのヴィンテージ(上編)
古いワインには、時間の匂いがある。
湿った地下室。木箱。沈黙。そして——金。この四つが揃う場所では、人はなぜか嘘をつくのが上手くなる。いや、嘘をつくことを“儀式”と呼ぶのかもしれない。グラスを傾け、香りを嗅ぎ、微笑み合う。そこに本当に古いワインが入っているかどうかは、実は二の次だ。
……
都内某所。完全会員制ワインサロン『Cave de l’Illusion』。
表通りから路地に入り、無機質なビルの地下へ。ドアは重く、鍵は生体認証。中に入ると、そこは別世界だった。照明は暗く、声は低い。スーツを着た男たちが、ソファに深く腰かけてグラスを揺らしている。値段を口にすること自体が野暮とされている。だが全員、値段の話をしている。瓶の向こう側で。
「1945年、ロマネ・コンティです」
男が言った。四十代後半。髪は銀交じりで、目は冷たいが口元だけは笑っている。堂島隆一。ワイン投資で財を築いた男だった。古酒市場を読み、希少性を演出し、富裕層を集める。ワインというより、“神話”を売る男。
会場が静かにざわめく。空気が変わる。瓶一本で家が買える。そんな世界だ。参加者の目が、一斉にその瓶に集まる。暗いガラスの向こう側にある百年近い時間。誰もがそれを“所有したい”と思っている。
その夜、堂島は完璧に見えた。
話し方は優雅で、知識は豊富で、笑顔は計算され尽くしている。ゲストの一人が「このワイン、どこで?」と尋ねると、堂島は軽く首を振った。「入手経路は——秘匿で。お許しください」と。参加者はそれで満足する。むしろ、隠されているからこそ価値がある。この世界ではそれが常識だ。
だが一人だけ、違う顔をしている男がいた。
真贋鑑定士、柏木譲二。六十歳。業界では「鼻」と呼ばれている。ワインの香りを嗅げば、ヴィンテージが分かるという伝説の持ち主だ。実際には嗅いで分かるのはせいぜい数十年単位だが、それでも十分に異能だった。彼はグラスを揺らしながら、黙っている。飲まない。ただ、見つめている。
……
会が終わったあと。
他のゲストが帰り、サロンに残ったのは堂島と柏木だけだった。
「柏木さん、今日はいかがでしたか」
堂島がソファに深く寄りかかりながら尋ねる。
「いい会でした」
柏木の声は静かだった。
「しかし——」
「しかし?」
柏木はテーブルの上の空瓶を見た。ロマネ・コンティの瓶だ。誰かが開け、飲み干した後。彼はそれを手に取り、コルクを抜いた跡をじっと見つめた。
「……やめた方がいい」
「何の話です?」
「その瓶です」
沈黙。堂島の笑みが、一瞬だけ止まった。
「どういう意味ですか」
「コルク、若すぎる」
柏木の目は、瓶の内部を見透かすようだった。
「1945年の瓶なら、コルクもそれなりの年季が入っている。自然な浸透もある。でも、これは——せいぜい十年そこそこだ」
堂島は笑った。しかし、その笑顔は最初より硬かった。
「コルクの交換はよくありますよ。劣化したものを新しいものに——」
「する場合は記録が残る。でも、あなたのワインにはそれがない」
堂島は答えない。
柏木は続けた。
「瓶は本物に見える。ラベルも、ガラスの質感も、全体の雰囲気も。でも中身は違う。おそらく——安いワインを詰めて、古酒の“物語”を着せている」
「証拠は?」
「まだありません」
柏木は真っ直ぐに堂島を見た。
「でも、そのうち出ます。あなたの“ワイン”を買った人が、誰かに鑑定を頼めば。あるいは——私が正式に調査すれば」
堂島はワインを見つめた。暗いガラス瓶。百年近い時間を宿した“ことになっている”液体。
「あなた、口が軽い人ですか?」
「仕事柄、軽くはないです。顧客の秘密は守る」
「でも正義感は強い」
柏木は答えない。それで十分だった。
堂島はゆっくりと立ち上がり、柏木に手を差し出した。
「また今度、ぜひ一緒に飲みましょう。本当の——私のお気に入りを」
柏木はその手を握らなかった。
「……考えておきます」
そう言って、サロンを出ていった。
……
三日後。
堂島は柏木の事務所に電話をかけた。
「ぜひ、一本開けたいワインがありまして。あなたにだけは、飲んでいただきたい」
柏木は少し間を置いた。
「……構いません。ただ、条件があります」
「何です」
「私の同席するスタッフを一人連れていきます。記録として」
堂島は一瞬躊躇したが、すぐに答えた。
「結構です。では、明後日の夜に。私の自宅で」
……
堂島の自宅は、都心から少し離れた高級住宅街にあった。
欧風の邸宅。門をくぐると、整えられた庭園。玄関の扉を開けると、大理石の床とシャンデリア。
「いらっしゃい」
堂島は笑顔で出迎えた。今日の彼は、少しだけリラックスしているように見えた。
地下セラーへと続く階段。温度管理された空間は、静かだった。壁一面に並ぶワインセラー。温度計と湿度計が規則正しい数字を示している。まるで病院のような清潔さ。しかしどこか——冷たさも感じた。
「1961年です」
堂島は一本の瓶を取り出した。ラベルは少し退色している。ガラスは深い緑色。シンプルだが、見る者に“風格”を感じさせる。
柏木は眉を上げた。1961年は超当たり年。ブルゴーニュ、ボルドー、どちらも伝説的なヴィンテージ。ありえないほど高価な一本。
「開けますね」
堂島はソムリエナイフを差し込んだ。ゆっくりと回す。コルクが抜ける。
小さな音。
“ポン”ではない。もっと鈍く、湿った音。
柏木は一瞬だけ視線を上げた。だが何も言わない。
グラスに注がれる。深い赤。香りが広がる。熟した果実と、土と、かすかな革のようなニュアンス。
柏木はグラスを揺らし、香りを嗅ぎ、そして——飲んだ。
「……見事だ」
それが最後の言葉だった。
数分後。柏木の呼吸が止まった。グラスが落ちる。赤い液体が床へ広がる。
同行していたスタッフが叫ぶ。堂島は慌てて救急へ連絡する。完璧な混乱。完璧な悲鳴。
だが、柏木は戻らなかった。
……
死因は毒物——有機リン系の神経剤。極めて微量で致死に至る。問題は、その経路だった。
ボトルか。グラスか。食事か。何か別のものか。
誰にも断定できない。古酒は成分変化が大きく、時間の経過とともに分子構造が変わる。自然に発生する物質と、外部から混入された毒物の区別は、極めて困難だ。しかも相手は閉鎖的なコレクター界隈。誰も深入りしたがらない。警察が捜査に乗り出しても、「これは業界の問題だから」と協力を拒む者がほとんどだった。
「いやぁ……高いお酒って怖いですねぇ」
井森正一刑事は、資料を見ながら言った。彼のデスクには、ワインのカタログと鑑定書のコピー、そして事件現場の写真が広がっている。
「僕なんか缶ビールで十分ですよ。プルタブを開ける——“プシッ”ってやつ。あれで十分幸せなんですけどね」
誰も笑わない。向かいに座る斎藤刑事は真面目な顔でメモを取っている。
井森は写真を見る。瓶。コルク。ワイングラス。血痕。そして——テーブルの上の小さなシミ。
彼はしばらく沈黙した後、ぽつりと言った。
「……開けた音、録音されてませんかね」
「音?」
「ええ。コルクを抜く時の、あの“ポン”とか“コッ”とかいうやつ」
斎藤は困惑した顔で答えた。
「現場には録音機材は——」
「あのサロン、防犯カメラはあるんでしょ? 映像に音声も残ってるはず」
「……確認してみます」
斎藤は立ち上がった。
井森は一人残され、ワインの写真をじっと見つめた。
「1945年……1961年……」
彼は顎に手を当てた。
「僕が生まれるずっと前のやつね。そんな古いもん、よく飲もうと思うわ」
そう呟いて、少し笑った。
でもその目は——笑っていなかった。




